二日目_マシューという青年
宿屋の朝は早い。太陽が昇ったと同時に起床し、顔を洗って直ぐに仕事が始まる。昨日あれだけ元気だったシャニが眠そうな顔で挨拶して来たから、少しだけ笑ってしまった。
「宿屋はお父さんと二人きりで運営してるの?」
大きな桶に井戸水を汲み、足でシーツを洗いながら雑談をする。朝の空気に、冷たい水が気持ち良い。
僕の質問にシャニの顔が少しだけ曇ったのを見て、しまったと思った。
「本当はね、お母さんとお父さんと私の三人の宿だったの。でも、私が小さい頃に病気で亡くなっちゃって……今は私とお父さんだけなんだ」
「そうなんだ。思い出させてごめんね」
「ううん、それよりマーヤが来てくれて嬉しい! 同じくらいの歳の女性の旅人さんなんて、滅多にいないもの!」
「僕も、シャニに会えて嬉しいよ!」
シャニが自分に向ける笑顔が眩しい。自分だって、明るくて良い子だって言われるけれど……シャニに比べればまるで作りものの空元気のように思えた。
「この街の人って、すごく優しいよね。受付の無精髭のおじさんも、足りない代金を代わりに払ってくれたし……」
「受付の無精髭のおじさんって、もしかしてヴィッケ? あいつ賭け事が大好きで借金まであるって噂があるのに……たまには良い事をするのね」
意外な情報に目を丸くする。あのおじさん、良い人だとばかり思っていたけど、相当ヤンチャな人だったらしい。
借金があるのに、僕にオマケなんてして良かったのだろうか?
「それは悪いことしちゃったな」
「マーヤは気にしなくて良いの!」
「え〜?」
わちゃわちゃとほっぺを両手で摘まれて、二人で桶の中で笑い合う。そんな風に戯れていたら、淡い色の神官服を着た若い男が近づいて来た。
「やあシャニ。随分と楽しそうだね」
「あらマシュー、こんにちは」
「可愛い女の子がいるけれど、僕に紹介してくれない?」
優しげな瞳が僕の方を向く。それにシャニは、呆れたような顔をした。
「神官見習いのくせに……そんなことばっかり言ってると破門されるわよ」
「そんなことで神ベスタウは僕を見限らないよ」
シャニに軽口を叩きながら、好奇心の強そうな瞳はずっと僕の方を向いている。神官見習いということは、そこそこ偉い人なのだろうか? 無礼をしてはならないと、姿勢を正して慌てて頭を下げた。
「あ、住み込みで働くことになったマーヤ、えっと、です!」
「はは、敬語なんてよしてくれよ。よろしくマーヤ。僕はマシュー。鐘の番をしてるんだ」
「鐘って……たまに響いてくるあれ?」
「そうだよ。毎日ぴったり同じ時間に三回鳴らすんだ。それが僕の仕事さ」
そんな仕事があるなんて知らなかった。毎日ぴったりということは、きっと街の人の時計代わりになっているんだろう。
「楽しそう!」
「いや、これが結構難しくてね……お昼の鐘は、太陽が空の天辺に登った時に鳴らすんだけど、このタイミングの見極めが……」
「マシュー、そんな話をされてもマーヤが困るだけよ」
「おっと、それもそうだ。仕事の話なんて、酒を飲みながらでもないと楽しくないよな」
ちょっとだけ聞きたかったかも……マシューは肩を竦めると、やれやれと首を振った。それにシャニが、やっぱり呆れた顔をする。
「もっと真面目に勤めなさいよね」
「充分真面目なつもりなんだけど」
シャニの一見不躾とも言える態度から、気の置けない仲だという事が伝わってくる。年齢も近いように見えるし、きっと仲良しなのだろう。
「そういえば図書館に黒い服を着た異国の神官がいたよ。見た目の割に存在感がないから、ちょっとびっくりしちゃった」
「ルウに会ったの?」
「あの神官さんそんな名前なんだ。随分と可愛い名前だね」
「うん。すごく物知りなんだよ。ね、シャニ」
もしかして、ルウも恵与の国にしばらく滞在するのだろうか? そしたらまた会えるかもしれない。少しだけテンションが上がる僕とは逆に、シャニは沈んだ顔でとんでもないことを言った。
「ええ……そして変態よ」
「あの神官さん変態なの!?」
「ええそうよ。とんでもないど変態なんだから。マシューも気をつけなさい」
「人は見た目によらないな……」
「あはは……」
どうして小動物であるぷぷるを婚約者扱いしているのかよく分からないから、それについては僕からはなんとも言えない。
そう言えば、僕はあの婚約者宣言からずっと気になっていることがあった。
「ねえマシュー、神官って結婚できるの?」
「え? できるけど……どうして?」
「神様と結婚する? みたいな感じだと思ってたから」
神官っていうものが、僕の中でぼんやりしている。はっきりいうと、正直よくわかっていなかった。
「そういう人もいるけど、恵与の国は普通に結婚出来るよ。うちの元神官長も昔結婚してたらしいし」
「へえ……」
結婚してたって……なんで過去形なんだろう。もしかして離婚しちゃったとか? さっきもシャニにやっちゃったし、地雷を踏むのが怖いから、あんまり突っ込まないでおこう。
「もっと話していたいけど、そろそろ戻ろうかな。あんまり立ち話していると、ヴィゴールさんに怒られちゃうしね」
「ヴィゴールって人、そんなに厳しいの?」
「厳しいなんてもんじゃないよ。いつも僕、こっぴどく怒られてばっかりだし……」
マシューが遠い目をして肩を落とした。シャニはそれを見て、ほれみたことかと言わんばかりの顔をしている。
「真面目に働かないからよ」
「だから真面目にやってるってば!」
そんな風にきゃらきゃらと三人で笑い合っていたら、突然地を破るような怒号が聞こえてきた。驚いて振り返れば、壮年の男性がこちらに向かってツカツカと歩いてくる。マシューと違い、その人は真っ白な神官服を着ていた。服もさることながら、薄い頭が太陽光に反射して無駄に眩しい。
「マシュー! 何をしている! 今は勤務時間だろうが!」
「うわ出た! ヴィゴールさん、神官辞めたんだからそんなに怒らなくてもよくないですか!? この間テオドラさんの就任式もしたのに!」
「出たとはなんだ! 神官長は辞めたが、神官自体はまだ辞めとらん! そんなことより、人々の模範となる神官が昼間から遊んでいてどうする! もっとキビキビと働け!」
「ええ〜!」
マシューがヴィゴールに耳たぶを引っ張られて引き摺られていく。その姿を呆気に取られて見ていたら、薄い頭が振り返りクルリと僕たちの方を向いた。
「それとそこの娘たち! あまり足は出すんじゃない! そういう事は大通りから隠れてやりなさい!」
「わっこっちも怒られた」
恐らく足踏みでシーツを洗う為にスカートを捲っていた事を怒られたのだろう。シャニがヴィゴールの背中に向かって、あっかんべーと舌を出した。
「べーだ!」
「でも、あの人の言う事ももっともかも?」
「そんなわけないじゃない! ヴィゴールのヤツ、いっつも怒ってばっかり! 偉そうに威張り散らしてさ!」
ぷんぷんと怒るシャニに苦笑する。どうやらいつも怒られているらしい。そういうおじさんたまにいるよね。
「それに比べてテオドラ様は優しくて品があって人徳があって本当に素敵! まったく同じ神官とは思えないわね」
「シャニはテオドラ様が大好きなんだね」
「もっちろん!」
ヴィゴールというのが元神官長で、テオドラが今の神官長ということだろうか。昨日会ったテオドラの柔和な笑顔が頭に浮かんだ。なるほど、確かに神官長らしい雰囲気がある。
「ふふふ」
「どうしたの? ニコニコ笑って」
「んーん、なんでもない」
シャニの日常の一端に触れたみたいでちょっとだけ嬉しい。勝手に顔が綻んでしまう僕を、シャニが不思議そうな顔で見ていた。




