ヴィゴール
長きに渡りカリスの神官長を務めてきたヴィゴールは、カティのことをよく知っている。
小さい頃から悪ガキで、知恵が異様に回るため、ヴィゴールたち大人はよくカティに振り回されたものだ。
友だち想いの良い子だった。あの悪ガキが、立派な大人になる姿を見届けたかった。
どうしようもないことだ。だが、考えずにはいられない。悲劇の無かった世界を、望まずにはいられない。
声をあげて泣くマシューを宥め家に送り返した後、ヴィゴールはようやっと自分の家に帰ってきた。
最近引っ越して来たばかりの家だ。以前住んでいた神官長用の家と比べれば手狭だが、一人暮らしならば少しばかり大きいぐらいだ。
鍵を開けて中に入り、ホッと息をつく。リビングに入り顔を上げたところで、ヴィゴールはソレに気がついた。
「こんばんはヴィゴール」
「……!?」
珍しい真っ黒な神官服を着た、これまた珍しい白い髪の男。
いる筈のない人物に、ギョッとなり後退る。自分は鍵を開けて家に入った筈だ。何故この男が家の中にいるのだろうか。
いつも肩に乗せていた小動物は、今日は机の上にちょこんと座っていた。
「神官ルウ、人の家に勝手に忍び込むなど、あまり良い趣味とは言えませんな」
そう言えば、神官ルウは不思議そうな顔をしてヴィゴールを見た。その後少しして、得心がいったようにああと声を上げる。
「私は神官ルウではないよ。この子は私に身体を借してくれただけだからね」
「は……?」
言っている意味がわからない。目の前にいるのは確かに神官ルウの形をしている。不思議に思いじっと見返せば、相手は目が合うと嬉しそうに瞳を細めた。
「お前のことは小さな頃から知っているが、こうやって話すのは初めてだね」
「これは不思議な事を言いなさる。つい先日お話ししたばかりではありませんか。それに、私の幼少期に貴方はこの国には――」
冗談だと思った。けれど、強烈な違和感がヴィゴールを襲う。金色の瞳が、嬉しそうにこちらを覗いている。
何かがおかしい。背中に冷たい汗が伝った。そうしてヴィゴールは、違和感の正体にたどり着く。
神官ルウの瞳は、湖面を切り取ったような青翠色ではなかっただろうか。
「どうしたヴィゴール。顔が青くなっている」
言葉を途中で止めたヴィゴールを、心配そうに覗き込んでくる。無意識に、その瞳から逃げるように顔を逸らした。
「いえ、貴方の瞳が、とても美しいと思いまして……」
「本当か? とても嬉しいよ。実は少しだけ自慢なんだ」
まるで最初からその色であったかのように、無邪気に振る舞う目の前の神官の姿をした誰か。これは神官ルウではない。ヴィゴールの本能がそう告げている。では何者なのか。それもヴィゴールは、本能で理解している。
ヴィゴールはその場で跪くと、恭しく礼をした。
「神ベスタウよ。どうぞ私をお許しください」
神と呼んだ事に、目の前の誰かは驚かなかった。目を丸くして、不思議そうに首を傾げている。
「何故私に許しを乞うのだ。お前は何も悪い事をしていないだろう?」
どうやらヴィゴールが許しを乞うたことが引っかかるらしい。
ヴィゴールは確かに罪を犯していない。けれどヴィゴールは、神ベスタウに許しを乞う理由がある。
「私の器の小ささをお怒りになったのではないのですか。そうでないなら、何故矮小な私の前に現れたのですか」
「お前の器が小さいなどと思ったことはない。それよりもヴィゴール、お前は神官を辞めるのだろう? 何故なのか理由が知りたいのだ」
優しい声。優しい音色。ヴィゴールを心配しているのだろうソレに、心を締め付けられる。
「私ももう歳です。それに次の神官長はテオドラに既に譲って……」
「テオドラに不満はないよ。けれどお前は言うほど年老いてはいまい。そもそも私はお前が神官を辞める必要が分からないのだ。――アニカもまだ、小さいだろう」
「……、ア、アニカとは、巫女の事でしょうか……」
「孤児院にいるアニカだよ。お前の子だろう」
その一言に、ヴィゴールの身体中からザッと血の気が引いた。心臓がドクドクとうるさい程に鼓動している。ヴィゴールはゆっくりと顔を上げ、金色の瞳を見返した。
「改名したのか? 昔はカメリアという名前だっただろう」
「ああ、ああ……!」
己の罪を突き付けられ、ヴィゴールは両手で顔を覆った。認めなければならない。己の過去を、受け入れなければならない。
その昔ヴィゴールは、政治の勉強をするために訪れた隣国で、ある女性と恋に落ちた。二人の交際はトントン拍子で進み、二人はめでたく結婚をし、一人の幼子を授かった。
ヴィゴールがカリスに戻ることになった際、激務もあってか、妻カトレアとその子どもであるカメリアとは、一時だけ別々に暮らすことになった。仕事が落ち着いたら一緒に暮らそう。そう約束して。
それから一年後のことだ。仕事がひと段落ついたから、ヴィゴールは愛するカトレアに、一緒に住もうと手紙を送った。早速カトレアは用意をして、カメリアと共にカリスに向かった。
早く会いたい。会ったら何を話そう。まずはいっぱい抱きしめたい。
街の入り口でソワソワと妻子を待っていたヴィゴールに届けられたのは、国境付近で愛する二人が落石事故に遭ったという話だった。
近くの村の者が救助に尽力してくれたが、結局妻は亡くなり、子のカメリアだけが生き残った。
ヴィゴールは両親を幼い頃に失っていた。それを人々は、恵与の神による試練であると言った。愛された故の幸福であると言い張った。そして今度は、愛する妻を失った。
次に失うのは……そう考えた時、ヴィゴールはとても正気ではいられなかった。
まだほんの2歳であったカメリアは、ヴィゴールが父親である事を理解していなかった。試練が恐ろしくなったヴィゴールは、カメリアの名をアニカとし、親のいない孤児として孤児院に迎え入れた。
神ベスタウを誤魔化そうとした。実子を己の試練の対象から外すために、ヴィゴールは手を尽くした。
しかし今の言葉で、今までの苦労が無駄であったことを知ってしまった。
神ベスタウには全て、全てお見通しなのだ。
怖ろしくて涙が溢れそうになる。怖しい、怖しいが、ヴィゴールは確かに神ベスタウを愛していた。
「私は、私は耐えられなかったのです。貴方の試練に耐えられなかったのです。そしてもうこれ以上、失いたくないのです……」
両親を病気で失った。そして愛する妻を事故で失った。神ベスタウに愛された者には、大いなる試練が授けられる。
例外なく試練はヴィゴールを襲い、しかしヴィゴールは心が弱くて、ソレに耐える事ができなかった。
「神ベスタウよ、矮小で哀れな私をどうかお許しください。どうか、どうか私の大切なものを……奪わないでください…………」
自分は今、恐ろしい言葉を口にしている。恵与の神ベスタウにかける言葉の中では最上級の侮蔑であろうその発言に、けれど神は表情を変えることは無かった。
「ヴィゴール、お前は大きな勘違いをしている」
勘違いとはなんであろうか。分からない。だから神が次に紡ぐ言葉が怖しい。
「お前の妻であった――そう、確か隣国の女であったな。その者の死に、私は一切関与していない」
「え……?」
想像もしていなかった言葉に、ヴィゴールが顔を上げる。金色の瞳が、ただヴィゴールだけを見つめていた。
「この土地に存在するものは全て私のものだ。だからこの土地に生きる者を私がどうしようと、それは奪う事にはあたらない」
「……、まったく、まったくその通りでございます」
この地の全てはこの地を守護する神ベスタウのものだ。それこそがこの世界の主人である創造主が決めた契約であり、絶対の掟である。何人たりとも犯すことは許されない。
「だがねヴィゴール。これだけは覚えておきなさい」
神は震えるヴィゴールの手を取り、優しく握った。それはまるで魂から抱き締めるように温かい。
「私はお前たちを愛している。だから、お前たちが立ち上がれない程の試練を、私は与えたりはしない」
「本当……ですか?」
「本当だよヴィゴール。お前の妻――カトレアと言ったか、ソレが亡くなったのは、不幸な事故によるものなんだよ」
「………………!」
それはなんて自分に都合の良い言葉だろうか。関係ないと思おうとした。けれど疑念を晴らすことができず、神官を辞める決断にまで至ったヴィゴールにとって、それは最も欲しい言葉だった。
「ヴィゴール、私はお前を愛している。生真面目で仕事熱心なしっかり者、けれど本当はとても臆病な可愛い子」
ああ神ベスタウ。愛おしいヴィゴールの主。
ヒクリ、とヴィゴールの喉が鳴った。最早堪えきれない涙が頬を伝っていく。
「……! 私も、私も貴方を心よりお慕い申しております……!」
どうして自分はこんなにも愚かだったのだろう。神ベスタウを疑い、己を見失い挙句神官を辞めようとした。けれど最愛の主は、そんなヴィゴールをまだ愛してくださった。
金色の瞳が細められる。涙を流すヴィゴールを、その瞳はただ優しく見つめ続けた。




