黒い神官との出会い 後編
「うそ、あれだけ深く掘ったのに簡単に出られるの?」
みんなで森の中に身を潜めながら、先ほど見た光景に唖然と声を漏らす。作戦は失敗だ。それどころか、トロールを更に怒らせてしまった。
「いや、普通のトロールだったらあれで問題ない筈だった。あのトロール、普通の個体よりも身体が大きいんだ」
想定外だ。誰も近づいて見たことがなかったから、身体の大きさを把握できていなかった。
神妙な顔をする大人たちの空気を感じ取ったのだろう。エマがその愛らしい眉を下げた。
「お姉ちゃん、どうなっちゃうの?」
「それは……」
トロール相手に逃げ切れるか分からない。身体が大きいからか、あのトロールは走るのが速かった。逃げきれなかった場合にどうなるかなんて、そんなこと知れている。
言葉に窮する大人たちに、エマの瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「こうしちゃおれん……! 坊主を助けにゃ……!」
「爺さん無茶だ! アンタまでトロールの餌食にされるぞ!」
「うるさいわい!」
老人が勢いよく馬車に乗り込もうとするのを、他の大人たちが必死に止める。今から追いかけてもトロールの餌を増やすだけだ。
エマは瞳から溢れる涙を腕で拭うと、その小さな手で黒い神官の裾を掴んだ。
「神官のお兄ちゃん、おねがいがあるの」
「ん?」
バッグにしまっていた、愛らしい意匠の缶を取り出す。エマが大好きなおばあちゃんから貰った大切なもの。つい先日、亡くなってしまったおばあちゃんから譲り受けた最期の遺品。
エマが遊びにいくたびに、おばあちゃんはこの缶の中に、色んなお菓子を詰めて待っていてくれた。
サクサクなクッキーに、色とりどりのキャンディ。少しだけ苦いチョコレートに、ほっぺたが落ちるほど甘いキャラメル。エマにとって大切な、かけがえのない宝石箱。
エマはマーヤに上手く言えなかった。本当は、エマたち家族は、おばあちゃんのお葬式の帰りだったのだ。
「わたしの、わたしの大切なものをあげるから……お姉ちゃんを、助けてください……!」
おばあちゃん、エマに力を貸してください。そう願って、黒い神官に缶を差し出す。
瞬間、黒い神官の腰に下げていた本が、眩い光を放ち始めた。
「素晴らしい」
感嘆混じりの声。黒い神官が、煌々と光る本を開き中身に目を通す。何が起こったのか理解できず、その様子に大人たちが驚いて腰を抜かした。肩に乗ったぷぷるが、ぷきゅんと嬉しそうに鳴き声を上げる。
ポカンと口を開けるエマに向かい、黒い神官は口角を上げて笑った。
「エマ、幸運な人の子よ。恵与の神ベスタウが、お前の願いを聞き入れた」
§
どうしようどうしようどうしよう。とりあえず力いっぱい足を動かす。どれだけ走っても、後ろに着いてくるトロールの速度が落ちることはない。このままではジリ貧だ。
トロールがノロマって言った奴誰だよ! もう本当に許せない。
そうこうしているうちに、目の前に大きな橋が見えてきた。とりあえずそれを渡ろうと入り口に足をかけたところで、真ん中がガッツリ存在しないことに気がついた。
そういえば、先日流されたって言っていたっけ。全力で走っていたら、どうやら迂回路まで来てしまったらしい。
誰の許可を得て流されてるんだ。僕はそんな許可出してない!
後ろは人喰いトロールで、前はばっくり真ん中がない壊れた橋。しかもこれ、多分落ちたら死ぬ。
これはもう、覚悟を決めるしかない。
壊れた橋の真ん中を全速力で走る。その勢いを利用して、バックリと割れた橋の前で足にグンと力を入れた。
無我夢中で思いっきり飛び上がる。上空で背中を逸らしたところで、僕の後ろを走っていたトロールが、橋の途中で歩みを止めたのが見えた。
目に映る景色に、自分でも思っていたより遥かに高く飛んでいたらしい。帽子が頭から外れ、ピンクブロンドの髪が空に広がる。クルリクルリとニ回転して、なんとかギリギリで向こう側に着地した。
な、なんとか振り切った……。死ぬかと思ったよ。
バクバクと鳴る心臓に手を当て、深呼吸をする。呼吸を整えて踏み出そうとした瞬間、足元がガラリと崩れ落ちた。
「えっ!?」
嘘でしょ!? せっかく助かったのに、こんなのってない!
斜めに落ちようとする身体を止める術はない。最後の足掻きで伸ばした僕の手を、瞬間、誰かが掴んだ。
男の人の手だ。そのままグイッと身体が引っ張られて、橋の上に身体が戻される。気がついたら目の前に、黒い人が立っていた。
「危なかったな」
僕よりずっと背が高くて、彫刻みたいな顔は目の前で見ると迫力がある。真っ白な髪に青翠色の澄んだ瞳。綺麗な顔、というより、出来過ぎた人形という印象を受けた。
「えっと……ありがとう。でも、どうやってこっち側に?」
「お前がトロールを引きつけたから、本来の道が通れるようになったのだ」
「な、なるほど……」
森の方に向かえば、近くに豪奢な馬車が見える。どうやら僕がトロールと追いかけっこをしている間に、ジェマたちはさっさと先に進んでしまったらしい。
なんだか良い気はしない。いや、そのおかげで僕は助かったんだけど……。
「だが、まだ終わりじゃない」
「え?」
その言葉に、黒い人の見ている方を振り返る。向こう岸から、トロールがこちらに向かって凄まじいスピードで走ってきていた。
ねえ、あれ、もしかして————僕と、同じ事をしようとしていない!?
助走をつけて、大きな足が橋を蹴り上げる。そのままトロールは、空を大きくジャンプした。
届くわけない!
その願いも虚しく、トロールの足がこちら側の地面を踏み締める。みんなが悲鳴をあげて後ずさる中、黒い人が前に出た。
トロールが雄叫びを上げる中、目と鼻の前まで近寄っていく。まるで恐怖する素振りのない姿に、トロールが異物を見るような瞳で黒い人を見た。
黒い人がトロールの目の前で立ち止まり、その手に持っている本を開く。
「聖典132巻12章、恵与の神の福音」
瞬間、光り輝く美しい紋が地面に浮かんだ。何が起こっているのか分からない。みんながそれに狼狽える中、黒い人の声だけが朗々と辺りに響く。
「震えて泣く子犬に、神ベスタウは声をかけた」
「私はお前の腹を満たした。寒さを退け、寝床を与えた。それなのに何故お前は泣くのだ」
「子犬は答えた。貴方は私の腹を満たして下さった。私に寝床を与え、毛布を与えて下さった。けれど私は、独りがどうしようもなく辛いのです」
何のお伽話なのだろう。初めて聞く物語だ。こんな状況なのに、不思議と聞き入ってしまう。
あれだけ怒り狂っていたトロールが、なぜかジッと立ち止まっている。どうしてだろう。その瞳はずっと、黒い人を見つめていた。
「神ベスタウはそれを聞くと、風に綿毛を飛ばして言った。その綿毛の示す方に進みなさい。きっとお前の仲間に会えるから」
一陣の風が吹き、たくさんの綿毛が空に舞った。それを追いかけるように、トロールがフラフラと何処かに歩いていく。
きっと仲間の元に帰るのだろう。そのままトロールは、綿毛と共に森の中に消えていった。
黒い人が本を丁寧に閉じると、光の紋が掻き消える。そのまま黒い人は、その場で恭しく頭を下げた。
「恵与を統べる偉大なる神に、永遠の栄光があらんことを」
ぷぷるがそれに合わせて、大きい耳をペコリと下げているのが可愛らしい。その光景をボウっと眺めていたら、突如背後に柔らかい衝撃が走った。
「お姉ちゃん!」
「エマちゃん!」
抱き上げると、小さな腕でぎゅうと抱きしめられる。温かい体温に、ミルクの甘い匂い。二人でクルクルと回って遊んでいたら、おじいちゃんが森の中から飛び出してきた。
「坊主〜! 無事で、無事でよかった……!」
おいおいと泣いている姿に、申し訳ない気持ちになる。どうやら随分と心配させてしまったらしい。
「あのトロール、逃してしまって大丈夫なのですか」
「問題ないよ。森の奥の棲家に帰したからね」
黒い人を見るみんなの目が、明確に変わっているのが分かる。なんていうか……その、ちゃんと神官扱いするようになった。
君、本当に神官だったんだね……。
「そもそも昼に一匹で活動しているなんて、おかしな話だったのだ。きっと群れから離れて、相当焦っていたのだろう」
そういえば、トロールって本当は夜行性なんだっけ。見た目が恐ろしいから怪物のように見えていたけれど、本当はただの迷子だったのかも知れない。
「おい! 倒れていた連中が起きたぞ!」
馬車から降りてきた男の報告に、みんなから歓声が上がった。恐らく木の上から見たときに、トロールに引きずられていた人たちのことだ。どうやら死んでいなかったらしい。そのことにほっと胸をなでおろす。
「そういえばエマちゃん、お菓子の缶はどうしたの?」
ずっと大事そうに抱えていた筈だ。抱き上げた時にリュックに触れたが、中に入っている感触はしなかった。
落としてしまったのだろうかと心配していたら、エマちゃんは予想に反して嬉しそうに笑った。
「あれはね、エマの大切なものだから、神様にあげたの」
「? そっか」
なくしていないのなら、まあいいだろう。何はともあれ、一件落着だ。




