五日目_マーヤのマナ
朝のお仕事を終えて自由時間をもらった僕は、一人街の中を歩いていた。真っ白に整備された街並みはいつ見ても壮観だ。道を何度か曲がれば、白の中に石造りの大きな建物が見えてくる。ここがルウが言っていた図書館だ。
本をたくさん置く場所だから、頑丈にするために作りが違うらしい。建物の壁や床にも石が使われていて、何処か古めかしい作りをしていた。
受付にはお爺さんが一人座っていた。一言挨拶をして中に入る。ズラリと並ぶ本の背表紙を見ながら中を彷徨いていると、本棚の裏、窓際の机に誰かが座っている。近づけば、探していた髪の白い男――神官ルウの姿がそこにあった。
椅子に座り、木漏れ日を浴びて佇んでいるその姿は、人形のような容姿と相まって何処か幻想的だ。ルウの目線の先には大きな本が置いてある。ぷぷるが小さな身体で、本を一生懸命に覗き込んでいた。
「何を読んでるの?」
「神の言葉を」
僕の問いかけにルウが顔を動かさずに答える。前の椅子に腰掛けると、ゆっくりと顔を上げて僕を見た。
「もしかして邪魔しちゃった?」
「いいや、今読み終わったところだ」
手元の本に描かれた文字は、僕には何が書いてあるのかさっぱりわからない。パタリと閉じられた本の表紙は、高いものだと分かる重厚な作りをしている。翼の紋様が描かれていて、観賞用としてもとても美しい。
「ルウは色んな文字が読めるんだね。僕なんて、文字を読むどころか計算もできない」
「それでよく一人旅ができていたな」
「う"……」
本気で不思議そうなルウに唇を尖らせる。僕を馬鹿にしているんじゃない事はわかっているけども、自分の知識不足を咎められた気になって少しだけつらい。
「いや、まあ……正直上手くはできてないよ。この街に入る時も専用の通貨を持ってなくてさ。エピーで支払ったんだけど、結局お金が足りなかったんだ」
「それならどうやって入ったのだ」
「受付の人がオマケしてくれたんだよ。無精髭が生えてるあの……ヴィッケさんっていうらしいんだけど、その人のおかげで入れたんだ」
「ぷるー?」
「徴税官が入国金をオマケするとはおかしな話だ。マーヤ、お前いくら払ったのだ」
「えっと……125エピーだよ。僕硬貨の価値が分からないから、財布の中身を出したらヴィッケさんが計算してくれたんだ」
「何色の硬貨を何枚出したか覚えているか?」
「銀色の硬貨が25枚はあったと思う」
「ふふ、そうか」
「何かあるの?」
「なんでもないよ。優しくして貰えて良かったじゃないか」
「うん!」
僕も本を読もうと思って、本棚から絵が綺麗な絵本を持ってくる。字は読めないけれど、絵だけでも楽しめるからね。
ルウの前に座ってふんふんと読んでいたら、ふとルウが僕の方を見た。
「マーヤ、お前マナが安定していないな」
「え? マナ?」
勉強会で教えてもらった単語だ。けれどルウの言っていることが分からなくて、少しだけ首を傾げる。その動作に、僕が知らないと思ったのだろう、ルウは最初から説明をしてくれた。
「魂から湧き出る根源の力。まあ、有り体に言えば生命力みたいなものだ」
「えーと……それが安定していないとどうなるの?」
「様々な不調が起こる。手を出しなさい」
院長先生は、マナが少ない人の症状って言ってたけど……。訝しげに左手を出せば、ルウが僕の腕に綺麗な指を滑らせた。腕から指先にかけて、ツツツとゆっくりルウの指が滑っていく。ちょっとだけこそばゆい。
「マナを全身に巡らせる回路が育っていない。マーヤ、お前幼少期に碌なものを食べていないな」
「分かるの?」
「分かるよ」
ルウの言葉に、しばらく黙り込んでしまった。ずっと忘れていた、昔の自分。
僕は確かに、スラムで育った。華美な服を着た観光客が歩く大通りのその脇、ドブの匂いが充満する路地裏で、誰かが捨てた腐った食べ物を食べていた。手足は痩せ細り、僕の死を待つように顔の周りを蝿が集っていた。そこで死はただの現象だった。いつも僕にパンを分けてくれた優しい男の子は、いつの間にか居なくなっていた。
久しぶりに記憶が蘇ってくる。ボーッとしていたら、ルウの声にハッと意識を戻された。
「これでは日常生活に不調が出るはずだ。そうだな……力加減が上手くできない、自分の身体の境界線が上手く掴めない、とかな」
「……ルウはなんでも分かるんだね」
当たっている。僕は力加減が苦手だし、細かい作業も上手くできない。それを不調だと言われるまでは、ただの個性だと思っていた。
「なんでもは分からないさ。私が分かるのは世界のほんの少しの事柄だけだ」
ルウのほんの少しは、きっと僕からすれば途方もない量に違いない。手をグーパーして感覚を確かめる。僕の感覚と他の人の感じる感覚は、もしかしたら違うのだろうか。そんなこと、考えたこともなかった。
「ねえ、これって今から治せるの?」
「マナ回路は幼少期に成長する。大人になってからでは自然治癒は見込めまい。人の手で治癒させるのは現代医学では不可能だな」
「そっかあ」
残念だけど、ストンと胸に落ちた。下手に期待を持たせないあたり、ルウは優しいと思う。
「ねえ、ルウは僕がなんの仕事をしていたか知ってる?」
「ふむ……曲芸師かそこら辺か?」
「すごい! なんで分かるの?」
当てられたことに驚いて立ち上がる。大声を出してしまったことにハッとして、姿勢を正して静かに席についた。
「背筋がピンと伸びていて、歩き方が美しい。指の先まで所作が洗練されている。それなのに敬語が不得意とは、あまりにアンバランスだ」
「えー……でも、そういう子、他にもいるでしょ?」
敬語が苦手な子どもなど珍しくない。そう言えば、ルウがふむと顎に手をあてた。
「仕草に華があるのに、文字や計算を知らないのはいささか異常だ。恐らく、あえて教えられていないのだろう。言い方は悪いが……お前は見せ物としての教育が行き届いている。そういう印象を受けた」
「……間違ってないかも」
重心がどこにあるのか、アクロバットはもちろん、歩き方などの日常動作に至るまで厳しく指導された。どれだけ美しく技を見せるか、パフォーマンスの美しさは普段の身体の使い方から決まってくると言われたから。
反対に、計算や文字は教えてもらっていない。国から国を移動する都合上、その時々で言語が微妙に変わってしまう。文字を覚えたって仕方がない。通貨だってそうだ。なにより――商品には余計な知識をつけさせない。そういう方針もあったと思う。
「僕さ、結構大きなサーカス団に所属してたんだ。花形の空中ブランコだよ!」
「ほう……それは凄いな」
「ぷる! ぷる!」
ぷぷるがすごいすごいと小さな手を上げて喜んでくれる。可愛くて頭を撫でようとして、急いで手を引っ込めた。
「……でもね、ダメなんだ。ルウがさっき言った通り、僕は力加減が上手くできない。……小さい頃はそれでも問題なかった。でも、13歳を過ぎたあたりかなぁ」
僕、どうしてこんな事を話しているんだろう。こんな事を話したって、仕方がないのに。でも、口が勝手に喋るのを止められない。
「ふとした瞬間に、物を壊しちゃうぐらい力が強くなっちゃって。それで……」
「それで?」
「ペアの子に、怪我をさせちゃった」
それは僕の、人生で一番の後悔。僕たち曲芸師にとって、身体は一番の商品だ。壊れてしまったら、全てを失ったことと同義になってしまう。
「僕が強く握ったせいで、手の骨が折れちゃったんだ。痛いっていっぱい泣いてた。……だから、ちゃんと治って、本当に良かった」
治らなかったらどうしよう。あれほど眠れぬ夜を過ごした事はない。そうして僕は、空中ブランコから自ら降りた。
「その後色々あって……小さな雑技団に入ったんだ。そこではアクロバットをやってたんだけど……そこでも失敗ばっかりでさ……」
顔が勝手に下を向く。沈む心を抑えられない。
「僕……いっぱい練習したんだ。いっぱいしたんだよ……」
人一倍練習をした自信がある。けれど結局上手くできなかった。それどころか仲間に怪我をさせて、ひどい失敗をした。目の前の風景がぼやけて、少しだけ見づらい。
「できなかったのは、お前のせいではないよ」
「うん……」
「ぷる」
ルウのその言葉に、少しだけ心が軽くなる。自分の話をこんなにしたのは初めてだ。瞳に溜まったものを腕で拭っていたら、ぷぷるが頭の上に飛び乗り、ふにふにのおててで頭を撫でてくれた。
「へへ……ごめんね、暗い話しちゃった。ま、そんな感じだから何処へ行っても役立たずのお荷物でさ。結局解雇されて今に至るってわけ」
「フフ……巡り巡って今がある。無駄ではないよ」
「良い事言うなあ。ルウって本当に神官なんだね」
「どう見てもそうだろう」
「ぷる!」
……まあ、確かに神官服は着ているんだけど……。
ルウの言葉にぷぷるがムンと小さな胸を張る。あまりの可愛らしさに頭を撫でれば、ふわふわな感触が気持ちいい。
「ねえ、ルウはなんでこの街に来たの?」
ずっと疑問に思っていた。愛の国は、遠い東の大陸にあるのだという。そんな遠くから、一体なんの用事があって来たのだろうか?
「依頼されてな。私の役割は、願いを叶えることだから」
「なんだか不思議な仕事だね」
マシューの鐘番といい、色んな仕事があるらしい。神官の仕事って、祈るだけじゃないんだな。
「誰の願い事を叶える仕事なの?」
「人間か神か精霊か…………まあ様々だな。特に制限はないよ」
「よく分からないけど、神官って便利屋みたいなこともするんだ」
「普通はしないが……まあ、私は特別だ」
トクベツ……確かにルウは特別だ。テオドラやマシューとは違うとそう感じる。何が違うかと聞かれると、上手く答えられないけど……。
「僕がお願いをしたら、ルウはその願いを叶えてくれる?」
「条件による。人間が願いを叶えるには、それ相応の対価が必要だ」
対価……そう聞いて、空っぽの財布を思い出した。僕には差し出せるものが何もない。
「お金はあんまり持ってないなぁ」
「金ではないよ。その者にとって価値のある、大切なものを対価とする。お前でいうなら、そう――」
「ぷる」
ぷぷるの愛らしい声が耳元で聞こえる。気が付けばぷぷるが僕のリボンを、小さな手でクイクイと引っ張っていた。
「……! これはダメだよ!」
「ぷる!?」
これは、大切な人たちから貰ったものだ。
慌てて立ち上がれば、椅子がガタンと音を立てる。ぷぷるが反動でコロンと転がるのを、ルウが優しく受け止めた。
「ぷにゃ〜」
「ああ、ごめんね!」
びっくりしたのだろう。ぷぷるはか細い声で鳴くと、ルウの服の中にモゾモゾと入っていった。
「そのリボンを手放しても叶えたい願いができたなら、その時は私に言うといい」
「そんな日、来ないよ」
これは大切な仲間たちとの最後の繋がり。なにをされたって、嫌いになれないあの人たちとの最後の絆。……僕の、唯一の大切なモノ。
「そうだといいな」
「……ルウってもしかして、意地悪?」
「フフ、よく言われる」
絶対に、神様にだってあげるもんか。薄く笑うルウに、僕は抗議とばかりに頬を膨らませた。




