57.カルテと愚者
────コンコン
ノックの音が転がる部屋は物音ひとつない静けさに包まれていた。
「はい」
ダリアの柔らかな声がノックに応える。同時に扉が開かれ、入ってきたのは飄々とした表情を携えるヴェイルであった。
「やぁ、ハロルヴァ嬢。元気ぃ?」
「ご機嫌よう、ヴェイル様。体調でしたら問題ありませんわ」
ベッドの上で上体を起こして座るダリアに、ヴェイルは手に持っていたカルテに視線を落とす。手術後まだ一週間ほどではあるが、随分顔色も良くなり状態も安定していることに一先ず安心する。
「体調が良いなら、ちょっと外の世界の話をしておこうかぁ」
ヴェイルはそう言うと、ベッドの横の椅子に腰かけた。
「まず、君とグレンフェル殿の話は……聞いているよねェ」
ダリアの薄い方が一瞬ぴくりと動く。ダリアとヴィンスの関係性について詳しくは知らないけれど、ただの政略結婚ではなかったのだろう、とヴェイルなりに推測し、それ以上は深堀りしなかった。
「手記については?」
「手記……?」
これについては知らない、と。ダリアの中の情報量と照らし合わせながら一つずつ確認していく。手記を知らないということは、古代魔素遺構の区分Ⅳに行けるようになったことも知らない筈、とヴェイルは説明の起点を決め、ダリアに説明を始めた。
***
「────……つまり、その時遡行を使用するためのマナを補うために、私の魔力が必要なのですね」
「そういうことォ。話が速くて助かるよ」
「魔力提供の話でしたら、お兄様から伺っておりましたので。
「それなら、尚更説明は早いねェ」
ヴェイルは軽く肩を竦めると、手元のカルテを閉じた。
「ただし、これは単なる魔力提供じゃない。君には一時的に、かなり大きな負担を掛けることになる」
「承知しております」
「……即答するんだね」
ヴェイルは苦笑した。
笑ってはいるが、その瞳の奥は少しも笑っていない。研究者として、そしてこの国に生きる一人として。目の前の少女に背負わせようとしているものの重さを、理解している顔だった。
「本来なら、俺としては反対したいところなんだけどねェ。手術後一週間の患者を魔力供給源として使うなんて、正気の沙汰じゃねェし」
「ですが、必要なのでしょう?」
「……うん。必要」
飄々とした声音が、ほんの僅かに沈む。
「時遡行は、現在確認されている魔法体系の中でも最上位に位置する禁呪級の術式だ。正直、俺たちもまだ全容を把握しきれていない。手記に記されている内容を元に、再現可能な範囲まで解析しただけ」
「完全な再現ではない、ということですか?」
「そういうことォ。過去そのものを書き換えるわけじゃない。一定の条件下で、記録に刻まれた“時点”へ意識と魔力情報を遡らせる。肉体をそのまま過去へ飛ばすような都合のいいものじゃないよ」
ダリアは静かに頷く。
理解できない話ではなかった。
けれど、それがどれほど異質な魔法であるかは、説明を受けるほどに伝わってくる。
「手記はね、ただの紙束じゃない。あれ自体が巨大な魔法記録媒体なんだ。古代の魔力式が折り重なるように刻まれている。今は塔の最深部で結界保護しているけど、維持するだけでも相当なマナを食う」
「それほどまでに不安定なものなのですね」
「不安定、というより危険物だねェ」
ヴェイルは冗談めかして笑った。
「しかも、手記の存在が明るみに出た」
その言葉に、ダリアの表情が僅かに強張る。
「……明るみに、ですか」
「うん。隠し通すには関わった人間が多すぎたんだよねェ。トピアス殿下がアンジェリカ嬢の存在を王城で明言したこともあるし……。今、王城も貴族社会も大騒ぎ」
ヴェイルはそこで一度言葉を切る。
「保守派は、過去を変えるような禁忌を許すなと騒いでいるけどォ、改革派は、これを好機と見てるんだよねェ。今まで歪められてきたものを正すための鍵になるかもしれないから」
「……そして、その争いが表面化している」
「その通り」
ヴェイルは軽く指を鳴らした。
「表向きは議論。けど実態はもっと醜い。魔法研究塔を潰せ、手記を破棄しろ、関係者を拘束しろ、なーんて声まで出てる」
カペラが息を呑んだ。ダリアは表情を崩さなかったが、指先だけが掛布を僅かに握る。
「────……つまり、時間がないのですね」
ヴェイルに焦りは見られない。飄々とした態度も余裕ぶった喋り方も、間延びした声音も何も変わらない。それでも時間が限られていることが会話から読んで取れる。
「うん。君の完全回復を待ちたいところだけど、それはできない」
ヴェイルは真っ直ぐにダリアを見る。
「時遡行の使用は三日後だ」
三日後。その言葉が、静かに胸の奥へ落ちた。
三日後、きっとそこには、トピアスがいる。アンジェリカもいる。
そして、
────ヴィンスも。
喉元までせり上がった名前を、ダリアは飲み込んだ。
会える。
そう思った瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。嬉しいと感じてしまった。
けれどすぐに、鋭い痛みがそれを塗り潰す。
もう、自分は彼の婚約者ではない。
隣に立つ資格も、名前を呼ぶ資格さえ、失ってしまったのかもしれない。
「ハロルヴァ嬢?」
ヴェイルの声に、ダリアはゆっくりと瞬きをした。
「……失礼いたしました。三日後、ですね」
「うん、まァ……体調次第では、魔力提供量を絞るし、無理はさせないって約束するよ」
「いいえ」
ダリアは静かに首を横へ振った。
「国のために必要なのであれば、私にできる限りのことをいたします」
「……本当に君たちは」
ヴェイルは困ったように笑った。
「自分を削ることを、当然みたいに言うねェ」
「公爵家の人間ですもの」
「そういうところだよ」
ヴェイルは小さく息を吐く。
「いいかい、ハロルヴァ嬢。君は魔道具じゃない。魔力を注げばいいだけの器でもない。少しでも気分が悪くなったら言うこと。眩暈、吐き気、胸の痛み、魔力の乱れ。どれか一つでも出たら即中断する」
ヴェイルがあまりにも真っ当なことを言うものだから、一瞬驚いたけれど、ダリアはすぐに取り繕ったように微笑む。
「承知いたしました」
「えぇ~、本当?」
「ええ」
「……信用ならないなァ」
「まあ」
ダリアがほんの少しだけ笑う。その笑みは穏やかだった。
けれどヴェイルには、それが酷く薄い硝子のように見えた。触れれば割れてしまいそうで。本人だけが、自分はまだ大丈夫だと思い込んでいる。
「当日は車椅子を使ってもらうよ。歩けると言っても駄目。移動だけで体力を使わせたくない」
「そこまでしていただかなくても」
「駄目」
ヴェイルは今度こそ医師の顔で言い切った。
「これは決定事項。ライラック殿にも了承を取っている」
兄の名に、ダリアは小さく目を伏せた。
「……お兄様は、随分と心配性ですのね」
「心配性で済むかなァ、あれは」
ヴェイルは苦笑する。
「まあ、君に関しては仕方ないんじゃない? あの人、君の話になると途端に人間味が出るからねェ」
その言葉に、ダリアは少しだけ困ったように笑った。
「お兄様には、心配ばかり掛けてしまっています」
「心配されるうちが花だよォ」
軽く言いながら、ヴェイルは立ち上がる。
「じゃ、今日の診察をしようか。話ばかりしていると、僕がライラック殿に怒られる」
「ふふ。お兄様なら本当に言いそうですわ」
「言うどころか、目で刺してくるよ。怖ェのなんの」
冗談めかした言葉に、カペラが小さく笑みを零す。
ほんの少しだけ、部屋の空気が和らいだ。
診察は手早く行われた。傷の状態、魔力の流れ、体温、脈。ヴェイルは一つ一つ確認し、カルテへ書き込んでいく。
「うん。回復は順調。ただし順調だからって無茶していいわけじゃないからねェ」
「はい」
「その返事、信用しないから」
「まあ、酷いですわ」
「実績があるからねェ」
ヴェイルはそう言って肩を竦めた。
ダリアは何も言い返せなかった。実績と言われてしまえば、確かにその通りだったからだ。
「三日後の朝、迎えを寄越す。場所は塔の東棟、最上階に近い儀式室。護衛と侍女の同行は許可されているけどォ、儀式の中心部には限られた者しか入れない」
「アンジーは?」
「いるよ。彼女も関係者だからねェ。ただ、魔力状態がまだ安定しきっていないから、無理はさせない」
「そう……」
アンジェリカがいる。その事実に、ダリアは少しだけ安堵した。一人ではない。そう思えるだけで、ほんの僅かに呼吸がしやすくなる。
けれど同時に、胸の奥では別の感情が静かに揺れていた。
ヴィンスに会えるかもしれない。
会いたい。
会いたくない。
顔を見たい。
けれど、どんな顔をすればいいのか分からない。
婚約者としてではなくなった自分は、彼の前でどう在ればいいのだろう。
「ハロルヴァ嬢」
「はい」
「無理に笑わなくてもいいんだよ」
思いがけない言葉に、ダリアは目を瞬かせた。
ヴェイルはカルテを閉じ、いつもの飄々とした笑みを浮かべる。
「研究者っていうのはねェ、いろんなことを見逃さない仕事なんだ。貴族令嬢の仮面くらいじゃ誤魔化されないよ」
「……困りましたわね」
「困るくらいでちょうどいい」
ヴェイルは扉へ向かいながら、ひらひらと手を振った。
「三日後まで、よく食べて、よく眠ること。眠れなくても目を閉じる。泣きたいなら泣く。以上、医師命令」
「泣くことまで命令なさるの?」
「するよォ。涙も体の反応だからねェ」
ダリアは小さく笑った。今度の笑みは、先ほどよりも少しだけ柔らかかった。
「努力いたします」
「努力じゃなくて実行してねェ」
ヴェイルはそう言い残し、部屋を出て行った。
扉が閉まり、再び静けさが戻る。
カペラはしばらく黙っていたが、やがてそっとダリアへ歩み寄った。
「ダリア様……」
「大丈夫よ」
自然と口をついた言葉に、ダリア自身が一瞬だけ戸惑った。また、大丈夫と言っている。大丈夫ではないのに。胸の奥は、こんなにも痛むのに。
それでも口にしてしまう。
大丈夫。
平気。
問題ない。
そう言わなければ、立っていられないから。
「……三日後、ね」
ダリアは窓の外へ視線を向けた。春の光は、相変わらず眩しいほど穏やかだった。
「ヴィンス様に……お会いするかもしれないのね」
声に出した瞬間、胸が痛んだ。けれど同時に、どうしようもなく熱くもなった。
会いたい。
その感情だけは、どれほど理性で押し殺しても消えてくれない。
婚約を解消されても。手紙の返事がなくても。会いに来てくれなくても。
それでも、まだ。
「……愚かね、私」
ぽつりと零した言葉に、カペラは何も言わなかった。
ただ静かに、ダリアの傍に立っている。
その沈黙が、今はありがたかった。
三日後。
国のために。
未来のために。
そしてきっと、ほんの少しだけ。
もう一度、あの人の姿を見るために。
ダリアは胸の痛みを押し込めるように、そっと掛布を握り締めた。




