56.兄の葛藤と妹の決断
朝の光が、薄いレースカーテン越しに差し込んでいる。
穏やかな春の日差しだというのに、ダリアの胸の内は少しも晴れなかった。
昨夜はほとんど眠れなかった。
目を閉じれば、アンジェリカの涙に濡れたペリドットが脳裏に浮かぶ。
『ヴィンス様が……、ダリア様との婚約を解消なさったんです……!』
あの言葉は、未だ鋭い棘のように胸へ刺さったままだ。
鏡台の前に座り、ダリアはゆっくりと髪を梳かす。
白銀にも似た淡い髪は、病み上がりのせいか少し艶を失っているように見えた。
「ダリア様、本日はもう少しお休みになられては……」
背後から心配そうに声を掛けるカペラへ、ダリアは小さく微笑む。
「大丈夫よ。いつまでも寝ているわけにはいかないもの」
その声音は穏やかで、いつも通りだった。
けれど長く仕えるカペラには分かる。
今のダリアは、“貴族令嬢”の顔を被っているだけなのだと。
本当は傷付いている。
泣きたいほど苦しいはずなのに、それでも感情を押し殺して立っている。
カペラが何かを言いかけた、その時だった。
「────ダリア様」
部屋の外から、珍しく緊張を孕んだクロヴィスの声が響く。
「ライラック様がお見えです」
ダリアが、ぴくりと目を見開いた。
「……お兄様が?」
思わず零れた声に、驚きが滲む。
父・ルドベキアが倒れて以降、ハロルヴァ公爵家の実務はほとんどライラックが担っていた。
加えて、王城と貴族達の調整、各派閥への対応、治安悪化への対策――。
その忙しさは、もはや寝る暇すらないだろうと噂されるほどだ。
実際、ダリアに関しては周囲が呆れるほど過保護であるライラックが、ダリアの元へ見舞いにきたことがなかったのだ。
彼の忙殺ぶりは、それだけでわかる。
そんな兄が、ようやく見舞いに来た。
「お通しして」
ダリアが言うと同時、重厚な扉が静かに開かれる。
入室したライラックは、相変わらず隙のない姿をしていた。
長い銀髪は丁寧に整えられ、服にも一切乱れはない。
その姿だけ見れば、いつも通り冷静沈着な男にしか見えなかった。
けれど。
「……顔色が悪いな」
低く落ちた第一声は、酷く掠れていた。
ライラックの青みがかった灰色の瞳が、ダリアを捉える。
その視線が胸元へ落ち、傷の辺りで止まった瞬間――僅かに眉が歪んだ。
「お兄様、お忙しいのに申し訳ありません。わざわざご足労いただいてしまい――」
「謝るな」
ぴしゃり、と。
珍しく感情を含んだ声音がダリアの言葉を遮った。
室内の空気が張り詰める。
カペラが息を呑み、クロヴィスも僅かに目を細めた。
ライラックは数歩でダリアの前まで歩み寄ると、その細い肩へ触れる。
まるで本当にそこに生きているのか確認するような、不安定な手つきだった。
「……お前は、自分の命をなんだと思っている」
静かな声だった。
怒鳴っているわけではない。
それなのに、押し殺された感情が滲む声音に、ダリアは息を詰める。
「あの場で飛び出す必要はなかった」
「ですが、ヴィンス様が――」
「お前が死んでいたらどうするつもりだった!」
珍しく荒げられた声に、部屋が静まり返る。
ライラック自身、一番驚いたように目を見開いていた。
けれど、もう止まらなかった。
「父上も倒れた。屋敷も、領地も、今は混乱している……!
そんな状況で、お前まで失ったら……私は……っ」
最後の言葉は、掠れて消えた。
苦しげに伏せられた瞳を見て、ダリアはようやく理解する。
兄は、怖かったのだ。
ダリアを失うことが。
幼い頃からずっと、自分を守るように立ってくれていた兄。
どれほど忙しくとも、自分のことだけは決して疎かにしなかった人。
その兄を、こんな顔にしてしまった。
「……申し訳ありません、お兄様」
「だから謝るなと言っている」
ライラックは苦々しく吐き捨てる。
そして、ゆっくりとダリアの頬へ触れた。
その手は冷たい。
けれど微かに震えていた。
「お前が生きていて良かった……」
掠れたその声だけは。
筆頭貴族でも公爵代理でも、ましてや氷冷の魔公子でもない。
ただ、“妹を失いかけた兄”の声だった。
「……取り乱した」
ぽつり、と。
ライラックは自嘲するように目を伏せた。
先ほどまで激情を滲ませていた男は、まるで何事もなかったかのように呼吸を整えていく。
その姿は、ダリアのよく知る兄そのものだった。
感情より理性を。
私情より責務を。そうして常に己を律してきた人。
けれど、その指先だけは未だ僅かに震えていた。
「お兄様……」
「……すまない。病み上がりのお前に聞かせる話ではなかったな」
ライラックはゆっくりとダリアから手を離す。
そして一歩下がると、改めて彼女の姿を見つめた。
青白い肌。 細くなった肩。
まだ痛々しく残る傷跡。
────けれど、生きている。
それだけで十分だと、本気で思った。
――だが。
ライラックは静かに瞼を閉じる。
“生きているだけで良い”など、本来ダリアが背負うべき未来ではない。
彼女はもっと穏やかに笑っていて良かった。
花に囲まれ、紅茶を飲み、幸せな恋をして――。
命のやり取りのような物騒な現実には触れさせず、平穏で当たり前を与えられるはずだったのだ。
それなのに現実はどうだ。
父は倒れ、情勢は乱れ、王城では不穏な動きが絶えない。
その中心に、ダリアまでも巻き込まれてしまっている。
ライラックは奥歯を噛み締めた。
自分がもっと早く動いていれば。
もっと徹底して排除していれば。
こんな傷を、ダリアに負わせることなどなかったのに。
「お兄様?」
訝しげな声に、ライラックははっと顔を上げる。
いけない。
思考が深く沈みすぎていた。
ダリアに余計な不安を与えるわけにはいかない。
「……いや。少し考え事をしていただけだ」
そう言って、ライラックはいつものように微笑んでみせる。
完璧な笑みだった。
社交界で誰もが“氷冷の魔公子”と噂する、隙のない微笑。
けれどダリアは知っている。
兄が本当に余裕のある時、その笑みはもっと柔らかい。
今の兄は、無理をしている。
「お兄様も、お休みになられていないのでしょう?」
「この程度、大したことではない」
「目の下に隈がございます」
即座に返された指摘に、ライラックが僅かに言葉を詰まらせた。
クロヴィスが吹き出しそうになり、慌てて口元を押さえる。
「……クロヴィス」
「失礼しました」
全く反省の色のない返事だった。
けれど、そのやり取りのおかげで張り詰めていた空気が少しだけ緩む。
ライラックは小さく息を吐くと、改めてダリアへ向き直った。
「本来ならば、もう少しお前の回復を待つつもりだった」
「……何か、あったのですね」
ダリアの表情が僅かに引き締まる。
その察しの良さに、ライラックは苦笑した。
幼い頃からそうだった。
この妹は、妙なところで勘が鋭い。
誤魔化そうとしても、すぐに本質へ辿り着いてしまう。
だからこそ危うい。
余計なものまで背負い込み、傷付いてしまうから。
「王城から話が来ている」
ライラックが静かに告げる。
「トピアス殿下直々の要請だ」
その名前に、ダリアの肩がぴくりと揺れた。
トピアス。
そして、その傍にはきっとヴィンスがいる。
脳裏に浮かびかけた名前を、ダリアは無理矢理飲み込んだ。
今それを口にしてしまえば、きっと表情を保てない。
「……要請、とは?」
努めて平静を装いながら問い返す。
ライラックは一瞬だけ彼女を見つめ、それから低く口を開いた。
「魔法研究塔にて、魔力提供への協力を願いたいとのことだ」
「魔力提供……」
聞き返したダリアへ、ライラックは頷く。
「アンジェリカ嬢の件に加え、現在魔法研究塔では大規模な魔法運用が進められているらしい。かなりの魔力量が必要だそうだ」
「その協力者として、私が?」
「お前の魔力量は国内でも突出している。白羽の矢が立つのは当然だろう」
淡々とした説明だった。
だがダリアは気づく。
ライラックは、この話を好ましく思っていない。
言葉の端々に、僅かな硬さが滲んでいる。
「……お兄様は、反対なのですか?」
その問いに、ライラックは沈黙した。
ほんの数秒。
けれど、やけに長く感じる沈黙だった。
やがて彼は静かに目を伏せる。
「当然だ」
低く落ちた声は、どこか苦しげだった。
「今のお前は病み上がりだ。ようやく立てるようになったばかりだというのに、これ以上負担を掛けたくない」
それは兄として、至極当然の言葉だった。
ダリアの胸が、少しだけ温かくなる。
けれど同時に、理解もしてしまう。
それでもライラックがここへ来たということは。
「……既に、お断りできる状況ではないのですね」
ライラックの瞳が、僅かに揺れた。
「────魔力提供の件、承知いたしました」
ダリアはほとんど間を置かずに頷いた。
その即答に、ライラックの眉が僅かに寄る。
普通ならば、
病み上がりなのだから嫌がってもいい。
不安を口にしてもいい。
断りたいと零してもいいはずだった。
なのにダリアは、
まるで“当然の義務”であるかのように受け入れた。
その姿が、痛々しいほど“聞き分けが良い”。
ライラックは、ダリアの「了承」の答えを、残念に思う自分に気が付いた。
────自分が、そうさせたというのに。
ヴィンスとの件で、
ダリアは既に十分すぎるほど傷付いている。
だからこそ今、
これ以上誰にも迷惑を掛けまいとしている。
我儘を言ってはいけないと、
必死に感情を押し殺している。
「……無理をしなくていい」
思わず漏れた声は、
自分でも驚くほど弱々しかった。
だがダリアは微笑むだけだった。
「大丈夫ですわ、お兄様」
その笑顔が、
ライラックには刃物のように見えた。




