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ヒロインの親友に転生したことですし、推しの死亡ルートをぶっ壊しますわ  作者: アオ
第7章

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56.兄の葛藤と妹の決断


朝の光が、薄いレースカーテン越しに差し込んでいる。

穏やかな春の日差しだというのに、ダリアの胸の内は少しも晴れなかった。

昨夜はほとんど眠れなかった。

目を閉じれば、アンジェリカの涙に濡れたペリドットが脳裏に浮かぶ。


『ヴィンス様が……、ダリア様との婚約を解消なさったんです……!』


あの言葉は、未だ鋭い棘のように胸へ刺さったままだ。

鏡台の前に座り、ダリアはゆっくりと髪を梳かす。

白銀にも似た淡い髪は、病み上がりのせいか少し艶を失っているように見えた。


「ダリア様、本日はもう少しお休みになられては……」


背後から心配そうに声を掛けるカペラへ、ダリアは小さく微笑む。


「大丈夫よ。いつまでも寝ているわけにはいかないもの」


その声音は穏やかで、いつも通りだった。

けれど長く仕えるカペラには分かる。

今のダリアは、“貴族令嬢”の顔を被っているだけなのだと。

本当は傷付いている。

泣きたいほど苦しいはずなのに、それでも感情を押し殺して立っている。

カペラが何かを言いかけた、その時だった。


「────ダリア様」


部屋の外から、珍しく緊張を孕んだクロヴィスの声が響く。


「ライラック様がお見えです」


ダリアが、ぴくりと目を見開いた。


「……お兄様が?」


思わず零れた声に、驚きが滲む。

父・ルドベキアが倒れて以降、ハロルヴァ公爵家の実務はほとんどライラックが担っていた。

加えて、王城と貴族達の調整、各派閥への対応、治安悪化への対策――。


その忙しさは、もはや寝る暇すらないだろうと噂されるほどだ。

実際、ダリアに関しては周囲が呆れるほど過保護であるライラックが、ダリアの元へ見舞いにきたことがなかったのだ。

彼の忙殺ぶりは、それだけでわかる。


そんな兄が、ようやく見舞いに来た。


「お通しして」


ダリアが言うと同時、重厚な扉が静かに開かれる。

入室したライラックは、相変わらず隙のない姿をしていた。

長い銀髪は丁寧に整えられ、服にも一切乱れはない。

その姿だけ見れば、いつも通り冷静沈着な男にしか見えなかった。


けれど。


「……顔色が悪いな」


低く落ちた第一声は、酷く掠れていた。

ライラックの青みがかった灰色の瞳が、ダリアを捉える。


その視線が胸元へ落ち、傷の辺りで止まった瞬間――僅かに眉が歪んだ。


「お兄様、お忙しいのに申し訳ありません。わざわざご足労いただいてしまい――」

「謝るな」


ぴしゃり、と。

珍しく感情を含んだ声音がダリアの言葉を遮った。

室内の空気が張り詰める。

カペラが息を呑み、クロヴィスも僅かに目を細めた。

ライラックは数歩でダリアの前まで歩み寄ると、その細い肩へ触れる。

まるで本当にそこに生きているのか確認するような、不安定な手つきだった。


「……お前は、自分の命をなんだと思っている」


静かな声だった。

怒鳴っているわけではない。

それなのに、押し殺された感情が滲む声音に、ダリアは息を詰める。


「あの場で飛び出す必要はなかった」

「ですが、ヴィンス様が――」

「お前が死んでいたらどうするつもりだった!」


珍しく荒げられた声に、部屋が静まり返る。

ライラック自身、一番驚いたように目を見開いていた。

けれど、もう止まらなかった。


「父上も倒れた。屋敷も、領地も、今は混乱している……!

そんな状況で、お前まで失ったら……私は……っ」


最後の言葉は、掠れて消えた。

苦しげに伏せられた瞳を見て、ダリアはようやく理解する。


兄は、怖かったのだ。

ダリアを失うことが。

幼い頃からずっと、自分を守るように立ってくれていた兄。

どれほど忙しくとも、自分のことだけは決して疎かにしなかった人。


その兄を、こんな顔にしてしまった。


「……申し訳ありません、お兄様」

「だから謝るなと言っている」


ライラックは苦々しく吐き捨てる。

そして、ゆっくりとダリアの頬へ触れた。

その手は冷たい。

けれど微かに震えていた。


「お前が生きていて良かった……」


掠れたその声だけは。

筆頭貴族でも公爵代理でも、ましてや氷冷の魔公子でもない。


ただ、“妹を失いかけた兄”の声だった。


「……取り乱した」


ぽつり、と。

ライラックは自嘲するように目を伏せた。


先ほどまで激情を滲ませていた男は、まるで何事もなかったかのように呼吸を整えていく。

その姿は、ダリアのよく知る兄そのものだった。


感情より理性を。

私情より責務を。そうして常に己を律してきた人。

けれど、その指先だけは未だ僅かに震えていた。


「お兄様……」

「……すまない。病み上がりのお前に聞かせる話ではなかったな」


ライラックはゆっくりとダリアから手を離す。

そして一歩下がると、改めて彼女の姿を見つめた。

青白い肌。 細くなった肩。

まだ痛々しく残る傷跡。


────けれど、生きている。


それだけで十分だと、本気で思った。

――だが。


ライラックは静かに瞼を閉じる。

“生きているだけで良い”など、本来ダリアが背負うべき未来ではない。


彼女はもっと穏やかに笑っていて良かった。

花に囲まれ、紅茶を飲み、幸せな恋をして――。


命のやり取りのような物騒な現実には触れさせず、平穏で当たり前を与えられるはずだったのだ。

それなのに現実はどうだ。


父は倒れ、情勢は乱れ、王城では不穏な動きが絶えない。

その中心に、ダリアまでも巻き込まれてしまっている。

ライラックは奥歯を噛み締めた。


自分がもっと早く動いていれば。

もっと徹底して排除していれば。

こんな傷を、ダリアに負わせることなどなかったのに。


「お兄様?」


訝しげな声に、ライラックははっと顔を上げる。

いけない。

思考が深く沈みすぎていた。

ダリアに余計な不安を与えるわけにはいかない。


「……いや。少し考え事をしていただけだ」


そう言って、ライラックはいつものように微笑んでみせる。

完璧な笑みだった。

社交界で誰もが“氷冷の魔公子”と噂する、隙のない微笑。

けれどダリアは知っている。

兄が本当に余裕のある時、その笑みはもっと柔らかい。

今の兄は、無理をしている。


「お兄様も、お休みになられていないのでしょう?」

「この程度、大したことではない」

「目の下に隈がございます」


即座に返された指摘に、ライラックが僅かに言葉を詰まらせた。

クロヴィスが吹き出しそうになり、慌てて口元を押さえる。


「……クロヴィス」

「失礼しました」


全く反省の色のない返事だった。

けれど、そのやり取りのおかげで張り詰めていた空気が少しだけ緩む。

ライラックは小さく息を吐くと、改めてダリアへ向き直った。


「本来ならば、もう少しお前の回復を待つつもりだった」

「……何か、あったのですね」


ダリアの表情が僅かに引き締まる。

その察しの良さに、ライラックは苦笑した。

幼い頃からそうだった。

この妹は、妙なところで勘が鋭い。

誤魔化そうとしても、すぐに本質へ辿り着いてしまう。

だからこそ危うい。

余計なものまで背負い込み、傷付いてしまうから。


「王城から話が来ている」


ライラックが静かに告げる。


「トピアス殿下直々の要請だ」


その名前に、ダリアの肩がぴくりと揺れた。

トピアス。

そして、その傍にはきっとヴィンスがいる。

脳裏に浮かびかけた名前を、ダリアは無理矢理飲み込んだ。

今それを口にしてしまえば、きっと表情を保てない。


「……要請、とは?」


努めて平静を装いながら問い返す。

ライラックは一瞬だけ彼女を見つめ、それから低く口を開いた。


魔法研究塔(アルカ・ヴィーテ)にて、魔力提供への協力を願いたいとのことだ」

「魔力提供……」


聞き返したダリアへ、ライラックは頷く。


「アンジェリカ嬢の件に加え、現在魔法研究塔(アルカ・ヴィーテ)では大規模な魔法運用が進められているらしい。かなりの魔力量が必要だそうだ」

「その協力者として、私が?」

「お前の魔力量は国内でも突出している。白羽の矢が立つのは当然だろう」


淡々とした説明だった。

だがダリアは気づく。

ライラックは、この話を好ましく思っていない。

言葉の端々に、僅かな硬さが滲んでいる。


「……お兄様は、反対なのですか?」


その問いに、ライラックは沈黙した。

ほんの数秒。

けれど、やけに長く感じる沈黙だった。

やがて彼は静かに目を伏せる。


「当然だ」


低く落ちた声は、どこか苦しげだった。


「今のお前は病み上がりだ。ようやく立てるようになったばかりだというのに、これ以上負担を掛けたくない」


それは兄として、至極当然の言葉だった。

ダリアの胸が、少しだけ温かくなる。

けれど同時に、理解もしてしまう。

それでもライラックがここへ来たということは。


「……既に、お断りできる状況ではないのですね」


ライラックの瞳が、僅かに揺れた。


「────魔力提供の件、承知いたしました」


ダリアはほとんど間を置かずに頷いた。

その即答に、ライラックの眉が僅かに寄る。


普通ならば、

病み上がりなのだから嫌がってもいい。

不安を口にしてもいい。

断りたいと零してもいいはずだった。


なのにダリアは、

まるで“当然の義務”であるかのように受け入れた。


その姿が、痛々しいほど“聞き分けが良い”。

ライラックは、ダリアの「了承」の答えを、残念に思う自分に気が付いた。



────自分が、そうさせたというのに。



ヴィンスとの件で、

ダリアは既に十分すぎるほど傷付いている。


だからこそ今、

これ以上誰にも迷惑を掛けまいとしている。


我儘を言ってはいけないと、

必死に感情を押し殺している。


「……無理をしなくていい」


思わず漏れた声は、

自分でも驚くほど弱々しかった。


だがダリアは微笑むだけだった。


「大丈夫ですわ、お兄様」


その笑顔が、

ライラックには刃物のように見えた。


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