55.仮面と一粒の涙
「────……そういえば、ヴィンス様は元気かしら」
柔らかな風がカーテンを揺らす、明るい部屋でダリアが落とした言葉だけが酷く暗い。
目覚めたダリアの診察を兼ねて訪れるヴェイルから、アンジェリカの様子は報告を受けていた。
ダリアが倒れた後に魔力暴走を起こしかけたことをきっかけに、魔力欠乏症になりかけたこと、ヴェイルを中心とした魔法研究塔の職員の適切な処置により、一命を取り留め、現在順調に魔力を回復していること、そしてトピアスが王城にてアンジェリカの存在を明言したため、現在最も安全である魔法研究塔にて保護していること。
その報告には不自然なまでに、ヴィンスの名が出ない。
一度も、ただの一度も。その名は口にされない。
トピアスの手足となり、忙しくてダリアに直接会いにくることは叶わなくとも、手紙の返事もなければ、カペラ、クロヴィス、ヴェイルでさえ、まるで避けるようにその名を口にしないのだ。
今も、ダリアの零した言葉にカペラの肩がびくっと跳ねるけれど、明確な答えは貰えない。
「……お忙しくされていると聞きます」
「そう……、カペラも詳しくは知らないのね」
胸の傷は、だいぶ癒えてきた。
動くと引きつる感じはまだ残るけれど、日常生活を送る分には殆ど支障がないくらいには回復している。
(一度外出許可を貰って、ヴィンス様に会いに行こうかしら……)
窓の外に広がる晴天は目に痛いほど澄んでいる。
その時、部屋の外が騒がしいことに気が付いた。
「何かしら」
「見てまいります」
部屋の外にはクロヴィスが待機しているし、危険はないだろうが、騒ぎの現況が分からないというのは不安になるものである。
ダリアの不安を取り除こうと、カペラが動いたときだった。
────バンッ、
ダリアの部屋の扉が荒々しく開かれ、雪崩れ込むようにして入ってきたのは……、
「あ、アンジー?」
柔らかなブロンドが揺れ、その隙間に光るペリドットと目が合う。
「ダリア様……っ、ご無事で……っ
本当に、良かった……!」
泣き出しそうなアンジェリカの顔はどこか幼いけれど、本気でダリアを心配していたことが分かる。
それが嬉しくて、ダリアは薄く微笑む。
「ありがとう、アンジ―も無事で良かった」
アンジェリカも動けるまでに回復したのだな、とその元気そうな様子に安堵する。
しかし、アンジェリカから向けられた表情は、ひどく悲し気なものだった。
「アンジー、どうし────……」
「ダリア様っ、ご存知ではないのですか……!?」
「……な、何を……」
知らない、分からない。
そう言おうと思った。
けれど、ずっと心の奥にあった違和感が、ひょっこり顔を出す。
(私の────知らないこと……)
不自然なまでに出てこない、ヴィンスの名。
返ってこない手紙、会いに来てくれない婚約者。
「……ヴィンス様に、何かあったの……?」
嫌な予感が、ざわりと背中を撫でて鳥肌が立つ。
自分が倒れた後、彼に何かあったのか。
そう想像しただけで、胸が締め付けられて苦しくなる。
ヴィンスが死亡する場面は乗り越えた。
ヴィンスの死亡ルートは回避できたと思っていた。
けれど、もし。
物語の……、ゲームの強制力が発動して、ヴィンスの身に何か起こったのなら、それは偶然ではなく必然のこと。どうしてそこまで思考が回っていなかったのだろうか。
ヴィンスを助け、これでもう大丈夫である、と。
そう思い込んでいた。
────……しかし。
返ってきたのは、残酷な現実だった。
「……ヴィンス様が……、ダリア様との婚約を解消なさったんです……!」
「────……え……」
……今、誰か私の後頭部を殴ったのかしら……。
衝撃だった。視界がブレ、脳が揺れる。
アンジェリカが嘘を吐くような性格でないことも知っている。
今発せられた言葉が、嘘ではないことは瞬時に理解した。
けれど、到底受け入れられるものでもなかった。
嘘であれ、と望んだ。
そして唐突に理解する。
────自分は、邪魔なのだ、と。
「……知らなかったけれど……。
それが、ヴィンス様の選んだことならば、私は────」
喉が、痛い。言葉が灼けついて内側から焦がしていく。
私は、
選ぶことすら、できやしない。
もうすでに、立たされたレールから外れることはできない。
アクセルとブレーキが備わっているだけで、道筋を変えることなんてできやしないのだ。
「私は、謹んで、お受けいたします」
「なっ、……ダリア様、本気ですか!?」
アンジェリカの声が必死にしがみ付く。
本来ならば声を荒げ、高ぶる感情をそのまま表情に乗せるのはダリア側である筈なのに。
アンジェリカはダリアが感情のままに言葉を発しないと、分かっていて代わりに怒るのだ。
「カペラもクロヴィスも……、言ってくれなかったということはおそらくもう……、私一人が声を上げたところで引き返せないところまで、話が進んでいるのよ」
一人冷静に状況を分析し、判断するダリア。
“貴族”の仮面を被って、聞き分けの良いフリをして、澄ました顔をするダリアにアンジェリカは言い表しようのないくらいの、怒りが沸いた。
アンジェリカは淑女らしからぬ大股でダリアへと近寄ると、その白く、美しい頬を両手で包んで無理矢理顔を上げさせる。
「どうして……!平気なフリをするんですか……っ」
涙が溜まり、艶やかに煌めくペリドットの瞳の中に、酷く歪んだダリアが映る。
「私、知っているんです。ダリア様が……、ヴィンス様をどのくらい好きか」
好き、という言葉に心臓が跳ねる。
そんな単純で純粋な言葉、もうどのくらい使っていないだろうか。
「本当は泣いて嫌だって言いたい気持ちを押し殺して……、ダリア様は幸せですか……?」
涙が、大粒の涙が、ペリドットから零れ落ちる。
自分のために怒って、泣いてくれる。
あられもないくらい曝け出した感情に、ダリアの心は揺さぶられる。
「……平気、なはず……ないわ……」
声が、震える。感情に脳が乗っ取られる。
「でも、仕方がないのよ。どれだけ嫌だと叫んでも……、その声が届かないなら、意味がないから……」
目頭が熱い。怒りや悲しみ、悔しさ。
負の感情が凝縮されて、涙へと変換されていく。
「仕方がないって呑み込まないといけないの……!
泣いたって、願いが叶うわけでもないの……っ
それでも、私たちが掲げる大儀に……、ヴィンス様の進む道に、私が障壁となってしまうなら……」
涙は零すな。
仮面の外に、涙は見せちゃいけない。
「私は、潔く身を引きますわ。
この国の未来のためになるのだから……」
笑え、笑え。貴族の顔で。
(────……分かっていた)
自分が、ダリア様に伝えたところで。
彼女がどういう反応をするか、なんて。
分かっていたのだ。
それでも……、
(私の前では、その表情を少しでも崩してくれるかもなんて……)
自惚れていた。
目が覚めて、一番最初に耳に入ったのはダリアの無事を知らせる声だった。
ああ、良かった。と心底安堵した。
しかし、続いて入ってきた情報に、どこか微睡んでいた意識は覚醒した。
『────ヴィンス様、ダリア様との婚約を解消されたらしい』
その言葉が信じられなかった。
普段ならば、根も葉もない噂だろうと一蹴できたかもしれない。
けれど、ヴィンスがダリアに向ける視線の柔らかさも、ダリアがヴィンスを呼ぶ声の甘さも。
そのどちらも知っていたから。
アンジェリカは誰よりも近くで二人を見てきたから。
そんな噂が立つこと自体、あり得ないと知っていたのだ。
噂が立たない、それはつまり、噂ではなく真実であるということ。
二人をよく知っていたがために、気づいてしまったのだ。
まだ指先に痺れが残る体を引きずるようにして、ダリアのいる部屋へと向かう。
途中、職員やクロヴィスに引き止められつつ、それを振り払いながらダリアの部屋へ無理矢理入室した。
アンジェリカを見た顔は、花のように綻んでいて。
そして同時に知った。
ダリアは婚約解消の話を知らないのだ、と。
ダリアは優しい。時に厳しくとも、それは他の誰でもなく、アンジェリカ自身のためであると知っていた。
時折見せる少女らしい笑顔も、柔らかな声音も、全部知っていた。
知っていたのだ。
彼女がいつ、いかなる時でも“貴族”としての仮面を外さないことも。
それでも、自分にだけは見せてくれるのではないかと思っていた。
ダリアの弱い部分を。
貴族の仮面の裏側を。
けれど現実は違った。
どこまでも強い、ダリアがそこにいるだけだった。
ほんの僅かに、青みがかったグレーの瞳に涙の膜が張っただけで、彼女の表情は崩れない。
カペラやクロヴィスの反応を見るに、どうやらダリアの周囲はこの事実を知っていたらしい。
知っていて伝えなかったのは、優しさなのか。
アンジェリカに正解は分からない。
今こうして事実でダリアの頬を殴っても、これが正しい伝え方だったのかはわからない。
けれど、結果としてダリアはぶつけた事実を静かに受け入れていた。
この現実を受け入れられないでいるのは自分だけだった。
まるで駄々をこねる子どものように、一人そこに立ち止まっている。
ダリアが覚悟を決めたのならば、
(今度は、私が……)
ダリアは自分の幸せよりも、国の未来とヴィンスの幸せを願っている。
納得はできなかった。呑み込めるはずがなかった。
それでも、寄り添いたかった。
泣いて縋ることだけが、味方でいる方法ではないのだ。
それがダリアの選んだ道なのだと言うのならば、
「……申し訳ありません……。ダリア様のお気持ちも考えずに……」
アンジェリカはダリアから離れ、力なくその場に崩れた。
「でも、私はダリア様の味方です。何があっても。
だから……、私もダリア様の選んだ道を歩かせてください」
まっすぐ、ダリアを見据える。
その向こうにはきっと、正しい未来が待っているはずだから。
「もう、取り乱したりしません。
私は……、私にできることをします」
ダリアは微笑んだ。
アンジェリカのペリドットの奥に、光が宿ったから。
二人、どちらからともなく手をつないだ。
ダリアの手は少しだけ冷たかったけれど、アンジェリカの温かな体温と混ざり合ってすぐに溶けた。
手を繋いで、額と額を合わせて俯く。
ダリアの白い頬を、一粒の涙が転がり落ちる。
アンジェリカはそれに、気づかないふりをした。




