54.最善と代償
「……お前、本気か?」
トピアスは目を見開き、ヴィンスを見つめた。
ヴィンスは強く頷き、まっすぐな視線でライラックを見据える。
「────私、ヴィンス・グレンフェルは……
ダリア・バーベリ・ハロルヴァ嬢との婚約を解消いたします」
ざわっ、と空気が揺れる。
そんな中でも、ライラックだけは表情を崩さない。
(ああ、つくづく嫌になる)
この男の厄介さが、と、ヴィンスは目の前に立ちはだかる壁に悔しそうに口角を持ち上げる。
「この度、ダリア嬢が怪我をされたのは、一重に私の責任でございます。
王太子の側近という立場上、今後も私の人生は常に危険と隣り合わせです。
ダリア嬢を守る、と一度約束をし……私はそれを守れなかった……」
ヴィンスの表情に悔しさが滲む。
「今度こそダリア嬢を守るためにも……、私との婚約継続は懸命でないと判断致しました」
……血を吐きそうだ。
本当は嫌だ。離れたくなどない。
ダリアの傍には俺が居たい。
────……気持ちが、悪い……。
黒い感情が湧き上がって仕方がない。
けれど、ヴィンスはそれを抑え込みながらライラックに視線を向ける。
「その代わり、ダリア嬢の回復後、魔力提供の協力を仰ぎたい。
魔力の提供は現在静養している魔法研究塔内で行い、移動や魔力提供に伴う危険もありません」
元々、ダリアとの婚約に反対していたライラック。
そのライラックの願いとも言える条件を満たし、さらにダリアを危険から遠ざけることができる。
これ以上ない条件だろう、とヴィンスは悔しさと同時に自信を携えた表情を見せた。
「……なるほど、そうですね」
ライラックは思案する様子を見せる。
それがただのパフォーマンスであることを、ヴィンスは知っていた。
「ええ、許可いたしましょう」
ライラックは貴族らしい笑みをヴィンスに向ける。
全く、答えは初めから決めていたくせに。
(────反吐が出る)
喉の奥に込み上げてくるものを、無理やり飲み下す。
「……ありがとうございます」
礼を述べながら、ヴィンスはゆっくりと頭を下げた。
その動作の一つ一つが、やけに重い。
まるで、自分の何かを切り落としているようで。
「婚約解消の手続きや書類はこちらで用意いたしましょう。
用意出来次第、グレンフェル家にお送りさせていただきます」
淡々と告げられたその一言が、妙に遠く聞こえた。
(……ああ、終わってしまった……)
涙は出なかった。
というより、ダリアを失ったという実感はまだ湧いていない。
ただ、胸の奥がひどくざわついていた。
静かになったはずの空気の中で、ヴィンスだけが息を詰めていた。
「ヴィンス」
トピアスに低く名を呼ばれる。
「……それでいいのか」
鋭く短い問いが、ヴィンスを貫く。
「……これが最善だ」
いいか悪いかではない。これが今自分に出来うる決断の中で最善だった。
それが“正解”だと、自分に言い聞かせるように。
トピアスは何も言わなかった。
ただ、じっとヴィンスを見つめている。
その視線が、やけに痛い。
「……すまない」
ぽつりと落とされた言葉は、肯定でも否定でもなく、短い謝罪。
その謝罪の意味を問いかけるほど、ヴィンスも野暮ではない。
謝罪の裏に隠されたトピアスの感情を汲み取り、ヴィンスは小さく首を横に振った。
「殿下のせいじゃない」
ヴィンスはそれ以上何も言わせないように、踵を返す。
ここにいると、壊れる。
そう、本能が告げていた。
この息が詰まる空間から、一刻も早く出たい。
そう思い、扉へと向かう。
一歩、また一歩と進むたびに──
何かが軋む音がする。
(……ダリア)
不意に、その名が浮かぶ。
ホワイトブロンドの髪。
うまく笑えない、不器用な笑顔。
洗練された仕草の間に、垣間見える無邪気さ。
(……これで、良かったんだ)
部屋を出たヴィンスは、自分の力の無さを恨むように拳を握りしめて床を睨みつける。
ぐちゃぐちゃになったヴィンスの感情とは裏腹に、睨みつけたカーペットには染み一つなく綺麗だった。
「────ヴィンス殿」
部屋を出たヴィンスを呼び止めたのは、ライラックだった。
振り返りたくはない。
どうしたってその面影に、ダリアを浮かべてしまうから。
けれど、自分よりも格上の存在。
無視することも、背中を向けたまま返事をすることもできるはずがない。
「……なんでしょう」
振り向けばほら、ダリアと同じホワイトブロンドがふわりと揺れる。
────……ああ、泣き出してしまいそうだ。
「ダリアは、まだ目を覚ましておりませんが、容態は安定しているようですよ」
その言葉に、わずかに呼吸が止まる。
「……そう、ですか」
それだけを返す。
それ以上は、何も言わない。
言えば、崩れそうだった。
この張り付けた貴族の仮面が……。
「ええ。ですから、どうかご安心を」
その言葉の意味を、ヴィンスは理解していた。
今更、取り消すことなんてできない、と。
ダリアが目を覚ます前に全てを終わらせる、と。
そうしたライラックの、逃げ場を無くし追い詰めるような言葉が悔しかった。
ヴィンスは感情を呑み込むように、奥歯を噛みしめる。
「……ハロルヴァ嬢のご回復をお祈り申し上げます」
そう頭を下げて、今度こそ、振り返らずに歩き出す。
ライラックは、ヴィンスの背中に何も言わなかった。
「ヴィンス!」
背後から、トピアスの声が飛んだ。
けれど、振り返らない。
彼は今、おそらくヴィンスを“友”として呼んだ。
良いんだ、友の顔など見せないで。
どうか、冷静で時に冷酷な“王族”のままでいてくれ。
それが、せめてもの救いなのだ。
王族のために、成すべきことをしたのだ、と。
そう────……勘違い、させてくれ。
ヴィンスは立ち止まることなく、その場を立ち去った。
────振り返ることが、できなかった。




