58.最善と最悪
「失礼いたします」
王城の一角にある執務室。扉を叩き、中へ入ると、机に向かっていたトピアスが顔を上げた。机上には書類が幾重にも積み上げられており、部屋の隅には未処理と思しき書簡の束まで置かれている。普段から多忙な立場にある彼ではあるが、今日の執務室はいつにも増して張り詰めていた。
「来たか、ヴィンス。忙しいところ悪いな」
「いいえ。殿下からのお呼びとあれば」
ヴィンスは一礼し、促されるまま椅子へ腰を下ろした。向かいに座るトピアスは、疲れを隠しきれていない顔で肩を竦める。
「保守派も改革派も、好き勝手に意見書を寄越してくる。どちらも国を思っているつもりだから余計に厄介だ」
「手記の件ですね」
「ああ」
トピアスは机の上にあった一枚の資料を手に取った。
「例の時遡行だが、三日後に決まったそうだ」
「三日後……?」
ヴィンスは思わず聞き返した。表情こそ大きく変わらなかったが、その声には僅かな硬さが滲む。
「随分と急ですね」
「俺もそう思った。だが、魔法研究塔としてはこれ以上引き延ばせないらしい。手記の存在が表沙汰になった以上、保守派が黙っている時間はもうあまりない」
「……ハロルヴァ嬢は、まだ手術から日が浅いはずですが」
最初に口をついたのは、その言葉だった。トピアスはヴィンスを見つめ、少しだけ目を細める。
「ああ。ヴェイルも最後まで反対したらしい。手術後一週間の患者に大規模術式の魔力補助をさせるなど、本来なら論外だと」
「当然です」
低い声だった。怒鳴ったわけではない。けれど、その静けさの奥に確かな怒りがあることは、トピアスにも分かった。
「だが、時間がない。研究塔を閉鎖しろ、手記を破棄しろ、関係者を拘束しろとまで言い出す者がいる。議論の形を取っているうちはまだいい。だが、これが実力行使に移れば取り返しがつかない」
「……ライラック殿は」
「了承したそうだ」
その一言に、ヴィンスは口を閉ざした。ライラック・ハロルヴァ。妹のこととなれば、あの男は誰よりも過敏になる。そんな彼が了承したということは、本当に他に選べる道が残されていないということなのだろう。
「当日はヴェイルが付き添う。魔力提供量も限界値を見ながら調整するそうだ。万が一、体調に異変があれば即座に中断する手筈になっている」
「それでも、危険に変わりはありません」
「ああ」
トピアスは否定しなかった。
「だからこそ、お前にも伝えておきたかった」
ヴィンスは僅かに視線を上げる。
「私に、ですか」
「ああ。三日後、関係者として俺も立ち会う。アンジェリカ嬢も、ダリア嬢もその場に来る」
ダリア。その名が空気を揺らした瞬間、ヴィンスは一度だけ目を伏せた。本当に一瞬だった。だが、トピアスは見逃さなかった。
「……そうですか」
返ってきた声は静かだった。あまりにも静かで、感情の揺らぎなどないように聞こえる。けれど、長い付き合いのトピアスには分かる。その静けさこそが、ヴィンスが最も深く感情を押し殺している時のものだ。
「見舞いには行かなかったのか」
問い掛けると、ヴィンスの指が僅かに動いた。
「……行けませんでした」
「行かなかった、ではなく?」
「行けませんでした」
短く、しかしはっきりとした返答だった。
「今の私がハロルヴァ嬢の病室を訪ねれば、余計な憶測を招きます。婚約を解消した相手が見舞いに訪れたとなれば、彼女にどのような噂が向けられるか分かりません」
「お前らしい理由だな」
「事実です」
「では、行きたいとは思わなかったのか」
ヴィンスは答えなかった。長い沈黙が落ちる。窓の外では風が梢を揺らしていた。
「……それを考える資格は、もうありません」
やがて零れた声は、ほとんど吐息に近かった。トピアスは何も言わなかった。
「ですが、私が行くことで彼女が苦しむのであれば、行くべきではない」
「ダリア嬢がそれを望んでいなくても?」
「望む望まないの問題ではありません」
ヴィンスは静かに首を横へ振った。
「私はもう、ハロルヴァ嬢の婚約者ではありません」
その言葉は、誰に言い聞かせているのか分からないほど淡々としていた。けれど、淡々
としているからこそ痛かった。
「後悔しているか」
トピアスが問う。ヴィンスはすぐには答えなかった。膝の上で組んだ自らの手を見下ろす。その手は普段と変わらず整っている。剣も持てる。書類も捌ける。誰かを導くために差し伸べることもできる。けれど、彼女が矢に射抜かれたあの瞬間、この手は何一つ届かなかった。脳裏に浮かぶのは、婚約解消の日ではない。あの日の光景だった。放たれた一本の矢。銀の髪が宙を舞い、小さく揺れた身体は力なく崩れ落ちる。白い衣服を赤く染める血。駆け寄り、その名を呼んだ。腕の中へ抱き起こした身体は驚くほど軽く、それでも確かな温もりだけが掌に残っていた。あの日の光景だけは、今でも鮮明に焼き付いて離れない。
「……分かりません」
ようやく絞り出した声は酷く静かだった。
「私は、あれが最善だと思い決断しました。ハロルヴァ嬢をグレンフェル家の事情から遠ざけることが、彼女を守ることになると」
「今でもそう思うか」
「……そう思わなければ、あの決断に意味がなくなります」
それは誰へ向けた言葉でもなかった。自分自身へ言い聞かせるような声音だった。あの決断は間違っていない。間違っていてはならない。そう信じなければ、自分が彼女へ向けた全てを否定することになる。それでも、胸の奥に沈んだ痛みだけは消えてくれなかった。
「三日後、お前たちは会うことになる」
「……はい」
最後に見た彼女は、血を流し倒れる姿だった。手術が成功したことも、容態が安定したことも報告で知っている。だが、この目で確かめたわけではない。三日後。ようやく、この目で彼女の無事を確かめられる。その事実だけが、静かに胸の奥を締め付けた。




