第一話 魔法少女なんでしょ? ①
夢……だったのかな、と美月はいぶかしく思う。
朝の七時。
目覚まし時計が鳴ったとき、美月のベッドの上にはなんの痕跡も残っていなかった。
鼻水を垂らして赦しを請う、ぬいぐるみのような生き物の後頭部をムンズとつかんで、壁にそいつの顔面をグリグリと押しつけたのは、ぼんやりと記憶している。そのあとはどうなったのか──まったく記憶になかった。
あくびを噛み殺し、伸びをする。
壁を観察する。先週まで、推しのアイドルグループのポスターを貼っていたピンク色の壁には、なにかがこすれたような痕がかすかに残っていた。
美月は目を細める。
あの、いかにも妖精然とした、かわいらしい見かけの生き物が本当にいたとして……目的はなんだったのだろう、と考える。
(なんか魔法少女になってください、みたいなことを言ってたような? プリキュアかな?)
プリキュアは小学生になったときに卒業した。いまでもたまに視るけれど、毎週欠かさず視るほど熱心なファンというわけではない。
なんだったのだろう、と腕を組んで、熟考。
実を言うと、この世界に魔法少女というものが実在していることは疑っていない。
美月は魔力をつかんだ。いまでは息をするのと同じぐらい、ごく簡単にできる。風の素の魔法を操って、机の上に置いたスマホを手許にたぐり寄せる。もちろん、ベッドのなかから出ずに、スマホだけをフラフラと宙に浮かべて。これぐらいは造作なかった。
世間では「魔法」と呼ばれるたぐいの、美月が持っている特殊能力。
そう──なんといっても、美月自身が、その魔法少女なのだから。
美月はとりとめのない思考を中断して、大きく肩で息をつく。
考えてもわからないことは考えない。そのうち、なんとかなるだろう。たぶん。
窓のカーテンを少し開けて、朝の陽光に目をそばめる。マンションの八階から見下ろすこの光景にも段々と慣れてきた。窓の向こうに広がる街の輪郭も、以前に比べると違和感がなくなっている。
これから一日が始まろうとしている、街の活気。
動き出した電車の音。眼下の道路を走るクルマの列。急ぎ足で歩く通行人。スズメの合唱隊。
人間はどんな環境にもすぐに順応する。この街に引っ越してきてから、まだひと月しか経っていないのに、もう何年もここに住んでいるような気がした。
朝の光を浴びて気分がよくなった美月は顔を洗い、パジャマから学校の制服に着替えて、ダイニングに足を向ける。
ダイニングには誰もいなかった。母親の冴子が美月よりも目覚めが早いことはめったにない。起きているとしたら、それは早起きなのではなく、徹夜明けであることが多かった。
魔法少女だったら、朝食も魔法を使って手軽につくれそうなものだが、さすがにそれは試したことがない。
美月が魔法を使えることは、冴子に秘密にしていた。いくつかある美月の隠し事の、最大の秘密がこれだった。魔法を使っている場面を冴子に目撃されたら非常にマズい。母親との健全な家族関係を維持していくためにも、そんなことは絶対に避けなければならない。
それに、料理をするのは好きだった。手間暇をかけた分、料理もおいしくなるはず、というのが美月の信条。魔法で手抜きするわけにはいかない。
美月は制服の上にエプロンを着けて、鼻唄を口ずさむ。トースターでパンを焼き、ベーコンと目玉焼き、サラダを手早く調理する。
朝食の準備を整えていると、やっと冴子が起き出してきた。「おはよう」と充血した目をこすりながら、冴子がテーブルにつく。あたりをはばからない、大きなあくび。まだ眠そうだ。寝乱れた髪をボリボリとかき上げる。クシャクシャのTシャツにジーンズという出で立ちは、寝入ったときに着ていたものなのだろう。冴子は着たままの服で寝てしまうことがよくあった。




