子どもを育てる場所
三か月が過ぎ、季節は夏になっていた。
会社では、彰吾が手伝わなくても仕事が回るようになりつつある。
最初は不満を口にしていた同僚たちも、今では自分の担当を自分で処理していた。
昼休み。
彰吾はスマートフォンを持ち、新人の女子社員の席へ向かう。
「今日の髪型、どう?」
画面には、髪を左右で編み込んだマリアが映っている。
女子社員は写真を拡大し、真剣な顔で確認した。
「かなり上達しましたね。でも、右側が少し緩いです」
「やっぱり分かるか」
「次はゴムを留める位置を、もう少し上にしてください」
「分かった。明日やってみる」
周囲から見れば、仕事の相談をしているようにしか見えない。
彰吾は昼休みのたびに、娘のヘアアレンジを教わっていた。
◇
幼稚園では。
送り迎えや食事にも慣れ、マリアとの生活は自然に回るようになっていた。
友達や保護者の顔と名前も、ほとんど覚えている。
「パパ、今日はリナちゃんと遊んでいい?」
「いいよ。でも、五時には帰るぞ」
「はーい」
彰吾は少し離れた場所にいるリナの母親へ、「五時まで」と身振りで伝えた。
リナの母親も、笑顔で丸を作って返す。
以前の彰吾なら、予定から遅れることばかり気にしていた。
今は、マリアが楽しく過ごしているなら、多少遅れるくらいでちょうどいいと思っている。
その日は、幼稚園で開かれる夜の英語教室へ付き添っていた。
授業が終わるまで廊下で待っていると、職員室の明かりがついている。
中では若い先生が、机いっぱいに色紙を広げ、数人で飾りを作っていた。
「先生、まだ帰らないんですか?」
彰吾が声をかけると、先生は驚いて顔を上げた。
「夏祭りの準備が残っているので」
「朝も早いですよね?」
「早番の日は六時です」
「えっ。朝六時に来て、こんな時間まで働いてるんですか?」
先生は困ったように笑った。
「行事が近いと、どうしても」
職員室の壁には、夏祭りの飾りや大きな看板が立てかけられている。
どれも子どもたちを喜ばせるために作られたものだ。
だが、その裏で先生たちが無理をしている。
彰吾には、以前の自分を見ているように思えた。
◇
数日後。
夏休み前の保護者会が開かれた。
香織の代わりに参加した彰吾は、母親ばかりの教室で、唯一の父親として一番後ろへ座った。
先生が資料を配り、今後の予定を読み上げる。
夏祭り。
親子制作。
園庭の飾り付け。
子ども用プール。
保護者向けの発表会。
子どもたちへ渡す記念品作り。
追加の予定が発表されるたび、資料へ書き込みが増えていく。
彰吾は思った。
ちょっと待て、これ全部を七月中にやるのか。
いくらなんでも詰め込みすぎだろう。
彰吾は手を挙げた。
「質問してもいいですか?」
教室中の視線が集まる。
「これって何のためにやるんですか?」
教室中が、彰吾のすっとぼけた質問にざわついた。
メガネをかけた小ぎれいな服装の母親がマイクをもった。
保護者代表の腕章をつけている。
「子どもたちには、一つでも多くの体験をしてもらいたいと考えています。保護者の皆様にとっても、思い出になればと思いまして」
にこやかに言う。
保護者の何人かはうんうんと同調するように頷く。
しかし彰吾は首を傾げる。
「しかし、これ幼稚園側が準備するんですよね?」
「ええ。先生方にご協力いただく予定です」
彰吾は一度下を向いてから立ち上がった。
全員の視線が、彰吾へ集まった。
「皆さんが行事を楽しみたい気持ちはわかります」
彰吾は資料を持ち上げる。
「でも、親向けの発表や、大がかりな飾りまで先生たちが準備する必要はないんじゃないでしょうか?」
教室が静かになった。
「先生たちは朝六時から働いて、夜になっても残って働いています」
若い先生が、わずかに顔を上げた。
園長は黙って彰吾を見ている。
「先生方に負担のかかる行事はやめて、数を減らすというのはどうでしょうか」
「いや、もう決まってますので」
「では、保護者向けの行事だけでも保護者で分担する。それでは駄目ですか?」
彰吾は食い下がった。
「でも、子どもたちも喜びますし…」
「幼稚園の子どもたちには、普段の毎日だって新鮮に見えていると思います」
「私は、先生方には、普段の保育を大事にしてもらいたいです」
教室が静かになった。
保護者代表がマイクで言う。
「いろんな意見がありますよね。貴重なご意見、ありがとうございます」
にこやかな笑顔で話を終わらせようとした。
「それにしても……」
彰吾へ視線を向ける。
「マリアちゃんのお家は、お母さんとお父さんで真逆のことを言われるんですね」
その場にいた全員が笑った。
「す、すみません。知りませんでした」
彰吾は顔を真っ赤にして座った。
しかし、その後の話し合いでは、何人かの保護者から「自分たちも準備を手伝える」という声が上がった。
結局、飾り付けは簡略化され、準備の一部を保護者が交代で担当することになった。
保護者会が終わり、彰吾が教室を出ようとすると、若い先生が近づいてくる。
「ありがとうございました。うれしかったです」
周囲に聞こえないほどの、小さな声だった。
彰吾が小さく笑い返すと、ほかの先生たちも深く頭を下げた。
幼稚園の廊下を歩きながら、彰吾はふと思う。
以前の自分なら、マリアのことしか見ていなかった。
今は、マリアを育ててくれる人たちや、毎日を過ごす場所まで気になる。
子どもを育てるというのは、家の中だけの話ではないのかもしれない。
彰吾は自分の頬に触れた。
まだ少し、熱が残っていた。




