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お迎えの失態

会社に着いてからも、彰吾は朝の失態を引きずっていた。


納期に間に合わず、途中で誰かに仕事を奪われたことなど一度もない。


屈辱だった。


あれだけ細かく作った予定表も、何の役にも立たなかった。


彰吾はしばらく考えたあと、ノートパソコンを持って新人の女子社員の席へ向かう。


彰吾の姿に気づいた彼女が、慌てて背筋を伸ばした。


「あっ、彰吾さん。自分の仕事は自分でやるように言われてますから」


どうやら、彰吾に頼るなと上からお達しが出ているらしい。


彰吾は周囲を見回し、誰もこちらを見ていないことを確認する。


それから、ノートパソコンの画面をそっと見せた。


「なあ、この髪型ってどうなってるんだ?」


画面には、ミンティちゃんの画像が表示されていた。


女子社員は彰吾の顔と画面を交互に見た。



その日、彰吾は鬼のような速さで仕事を片づけた。


十二時を少し過ぎたところでノートパソコンを閉じ、そのまま会社を出た。


駅へ向かいながら、香織へ電話をかける。


電話をかけながら、浮気のことが頭をよぎった。


今は問い詰めないし、問題にもしない。


マリアとの親権争いで有利になるまで、何も知らない夫でいるしかなかった。


『もしもし?』


「これからマリアを迎えに行く。香織は来なくていいから」


『はいはい。プリントをもらってくるの、忘れないでね』


「分かったよ」


彰吾はそれ以上話さず、通話を切った。


もう香織と必要以上の会話なんかする必要もない。



幼稚園が見えてきた。


ミッション系の幼稚園なので、屋根の上にある十字架が目印だ。


時間には余裕がある。


彰吾は園庭の端へ行き、お迎えの時間を待つ。


普段のお迎え時間に幼稚園へ来るのは、初めてだった。


周囲には、すでに多くの母親たちが集まっている。


誰一人として顔を知らない。


彰吾は邪魔にならないよう、少し離れた場所で立っていた。


「先生、さようなら!」


子どもたちの元気な声が聞こえ、一斉に園庭へ飛び出してくる。


母親の胸へ飛び込む子。友達と園庭を走り回る子。それぞれ好きな方向へ散っていった。


マリアを探すと、二人の女の子と手をつないで歩いてくる。


彰吾は手を振った。


「あれ? 今日はパパがお迎えなの?」


彰吾は頷く。


「アイリちゃんとリンカちゃんと遊んでもいい?」


「ああ、いいよ。ここで待ってるから」


三人は顔を寄せ合って何かを話し、そのままごっこ遊びを始めた。


彰吾は少し離れた場所から、その様子を眺める。


順調だ。


迎えに来て、少し遊ばせて、時間になったら帰る。


ただそれだけだ。そう思った直後だった。


「もう! なんで代わってくれないのよ!」


マリアの大きな声が園庭に響く。


「わたしだって、お姫様やりたいんだもん!」


アイリも負けずに言い返す。


「順番でやろうよ」


リンカが二人の間へ入った。


彰吾は固まった。


――喧嘩してるぞ。どうしよう。


実は、彰吾は子どもが大の苦手だった。


自分の娘ならまだしも、よその子にどう話しかければいいのか分からない。


周囲を見渡す。


アイリとリンカの母親はどこだ。


しかし、母親たちはおしゃべりに夢中で、誰も三人の喧嘩に気づいていない。


――おいおい。自分の子どもが喧嘩してるのに、ずっとおしゃべりかよ。


誰が親なのかも知らないまま、彰吾は心の中で文句を言った。


だが、放っておくわけにもいかない。


彰吾は意を決し、三人へ近づいた。


「どうしたの? 仲良く遊ぼうね」


「だって、マリアちゃんがお姫様代わってくれないの!」


アイリが口を尖らせる。


「違うもん。アイリちゃんだって、昨日やったもん!」


「そうなの?」


彰吾はどちらを見ればいいのか分からず、二人の顔を交互に見た。


「わたしはね、順番でやろうって言ったんだよ」


リンカが得意そうに胸を張る。


「お、そうだね。順番がいいね」


バランサーがいるなら話が早い。


「それで、今は誰がお姫様なの?」


マリアとアイリが、同時にリンカを指さした。


「リンカちゃんが、もう三回もやってる!」


彰吾は笑顔のまま、リンカを見る。


「リンカちゃん。順番って、どういう意味か分かるかな?」


リンカは少し考えたあと、元気よく首を横に振った。


――やばい。どうしたらいいか、本気でわからない


彰吾は園庭に落ちている小枝を、急いで数本拾ってきた。


「こ、これで絵を描かない?」


咄嗟に閃いた提案をしてみる。


彰吾が小枝で地面に丸を描くと、三人は喧嘩をやめ、それぞれ一本ずつ持っていった。


そのまま、砂の上に絵を描き始める。


「マリアちゃん、見て見て」


アイリが自分の絵を指さした。


「なにそれ?」


「ちんちん」


三人が、ぎゃははは、と声を上げて笑う。


マリアとリンカも、すぐ隣に同じような絵を描き始めた。


――くだらない。


彰吾は苦笑しながら、その様子を眺めていた。


「こんにちは」


突然、後ろから女性の声が聞こえた。


振り返ると、二人の女性が立っている。


「えっと、マリアちゃんのパパですか?」


アイリとリンカの母親だった。


「あ、はい。いつもお世話になっています」


「こちらこそ」


二人はにこやかに挨拶を返す。


「あら、みんな何を描いているの?」


リンカの母親が、砂の上をのぞき込んだ。


彰吾の顔が引きつる。


――まずい。


このままでは、幼い女の子たちにちんちんの絵を描かせている変態だと思われる。


「リンカ、これは何を描いたの?」


「うんこ」


「そう。とっても上手ね」


――セーフ。


彰吾は心の底から安堵した。


「それじゃあ、みんな帰るわよ」


アイリの母親が声をかける。


すると、マリアが彰吾の袖を引いた。


「ねえ、パパ」


「うん?」


「リンカちゃんね、これからアイリちゃんのお家に行くんだって。マリアも行っていい?」


「えっ」


初対面の家へ、マリアだけを預けるわけにはいかない。


かといって、自分まで上がり込むのも気まずかった。


彰吾は二人の母親へ目を向けた。


二人とも、わずかに困った顔をしている。


「マリア、ごめんな。今日は買い物があるから、また今度にしよう」


「やだ。マリアも行く」


「今日は無理なんだよ」


マリアの目に涙が浮かぶ。


彰吾が何度なだめても、その場から動こうとしない。


アイリとリンカは、それぞれの母親に手を引かれ、そそくさと帰っていった。


広い園庭に残ったのは、彰吾とマリアだけ。


マリアは地面を向いたまま、動きそうにない。


彰吾はゆっくり顔を上げ、園舎の屋根に立つ十字架を見つめた。


「神様、そろそろ助けてください」



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