朝の失態
数回の協議の末、彰吾の働き方が正式に変更された。
時給五千円。
勤務時間は日中のみで、担当業務に合わせて自分で調整できる。
会社側も簡単に認めたわけではない。しかし彰吾が退職すれば、複数の案件が止まる。結局、統括部長が特例として押し切った。
その日の夜。
夕食の途中、彰吾は香織へ話を切り出した。
「これからは、俺もマリアのことをやるよ」
香織が箸を止める。
「何を?」
「幼稚園の送り迎えとか、風呂とか、ご飯とか」
「仕事はどうするの?」
「勤務時間を変えてもらった。これからは朝遅めに出て、お迎えの時間までに帰れる」
香織はしばらく彰吾を見たあと、小さく笑った。
「本気で言ってるの?」
「本気だよ」
「まあ、できると思うなら止めないけど」
応援しているようには聞こえなかった。
どうせ続かない。その顔には、そう書いてある。
「やるよ。明日から」
彰吾は言い切った。
◇
その夜、彰吾はパソコンで予定表を作った。
七時、起床。
七時十分、着替え。
七時三十分、朝食。
七時五十分、歯磨き。
八時、幼稚園へ出発。
帰宅後も、夕食、入浴、自由時間、翌日の準備、就寝まで細かく時間を決めた。
仕事と同じだ。
必要な作業を分解し、時間を割り当てればいい。
遅れが出たら、次の作業で取り戻す。
彰吾は完成した予定表を見て満足した。
これなら回せる。
香織の、人を小馬鹿にしたような顔を思い出す。
十人いる課の仕事を、ほとんど一人で回してきたんだぞ。
子ども一人くらい、どうってことない。
育児ノイローゼなんて、ただの甘えだということを教えてやる。
彰吾の目に、静かな闘志が宿った。
◇
翌朝。
「マリア、起きる時間だよ」
眠そうな顔をしたマリアが、ふらふらと起きてくる。
「お着替えをしようね」
半分眠っているマリアを抱きかかえ、幼稚園の制服を着せた。
「じゃあ、ご飯を食べようか」
テーブルの上には、すでにトーストとジャム、それにフルーツが並んでいる。
マリアはトーストを一枚手に取り、じっと眺めた。
「パパ」
「どうしたの?」
「マリアね、朝はお茶漬けがいいの」
「えっ、お茶漬けなの?」
椅子に座って様子を見ていた香織が、コーヒーを飲みながら頷いた。
ご飯なんて炊いてないし……。
「今日はパンにしない? お茶漬けは明日にしよう」
マリアはトーストを皿へ戻した。
「やだ。お茶漬けじゃないとやだ」
「くっ……」
香織がぼそりと言う。
「冷凍庫に少しご飯が残ってるよ」
彰吾は無言で冷凍庫からご飯を取り出した。
時計を見る。
すでに十分オーバーしている。
しかし、まだ巻き返せる。
マリアがお茶漬けを食べている間に、幼稚園のかばんを確認する。
チャックを開けると、赤ちゃんの人形が出てきた。
彰吾はそれを取り出す。
その奥には、赤い折り紙を丸めたような物が入っていた。
――これは、なんだ?
彰吾は迷わずゴミ箱へ捨てた。
「パパ、なんで捨てちゃうの! それ、リナちゃんがくれたメダル!」
彰吾は慌ててゴミ箱から拾い上げる。
「えっ、これメダルなの!?」
もう一度見直したが、どう見ても丸めた折り紙だった。
マリアがお茶漬けを食べ終える。
あとは歯磨きと、髪を整えれば終わりだ。
マリアが歯を磨いている間、彰吾は後ろから髪にブラシを通す。
「ミンティちゃんみたいにして」
「はい?」
「ミンティちゃんの髪型がいい」
「ごめん。パパ、その子知らないや」
マリアが歯ブラシを洗面台へ置いた。
「じゃあ、幼稚園行かない」
彰吾は洗面台の鏡に映るマリアの顔を見る。
絶対に引かないガチギレの顔だった。
「明日。明日やってあげるから。な?」
彰吾は必死に説得する。
すると、マリアの目からぽろぽろと涙がこぼれ始めた。
「幼稚園いかなーい!」
「ううっ……」
「ねえ、もう時間よ」
後ろから香織が声をかける。
時計を見ると、すでに出発時間になっていた。
香織がマリアの後ろへ回り込む。
「ママがミンティちゃんの髪型にしてあげるから、泣かないの」
マリアはこくんと頷いた。
香織は彰吾を見る。
「もう邪魔だから、あんたは早く会社に行って!」
「でも…」
「本当に間に合わなくなるよ。まだトイレにも行かせてないし!」
「うう……ごめん」
彰吾はとぼとぼと家を出た。
「久しぶりに人から怒られたな」
彰吾は寂しそうに呟いた。




