父親になるために
翌朝。
彰吾は昨日作った業務一覧を持ち、直属の上司である課長の席へ向かった。
「少し、お時間いいですか」
会議室へ入ると、彰吾は印刷した紙を机の上へ置いた。
「赤い線を引いたものは、私の担当外ですが、現在も私が処理している業務です」
課長が一覧を見る。
紙の半分以上が赤く埋まっていた。
「今後は、勤務時間を半分にしたいです」
「時短勤務ってこと?」
「はい。午前十時から午後二時まで。それが難しいなら、時給制の契約へ変更してください」
「はあ? さすがに短すぎるだろ」
「本来の担当業務だけなら、その時間内で十分に終わります」
課長は一覧をろくに見ず、椅子にもたれた。
「君の立場なら、自分の仕事だけやればいいわけじゃないんだよ」
「分かっています」
「分かってないから、こんなものを作るんだろ。周りが困っていたら助ける。それが社会人として当たり前だ」
彰吾は黙って課長を見る。
以前なら、ここで引き下がっていた。
自分が頑張れば、全体が丸く収まる。
そう考えて、何年も働いてきた。
「はっきり言うけど、君の要求は自分勝手だよ。この課が回らなくなる」
彰吾はスマートフォンを取り出し、課長の前へ置いた。
画面には転職サイトの受信箱。
彰吾宛てのスカウトメールは、一日だけで200通を超えていた。
課長の表情が止まる。
「時短勤務が認められないなら、転職します」
「いや、ちょっと待て」
「私が抜けたら、課が回らないんですよね?」
課長はスマートフォンと業務一覧を交互に見た。
「分かった。部長には俺から話す。だから早まるな」
彰吾は業務一覧を、課長の前へさらに押し出した。
「ぜひ、よろしくお願いします」
彰吾はスマートフォンを課長の前に置いたまま、頭を下げた。
◇
話はその日のうちに、複数の課を管理する統括部長まで上がった。
夕方、彰吾は再び会議室へ呼ばれる。
統括部長は一覧を一枚ずつ確認し、静かに口を開いた。
「ずいぶん抱えていたんだね」
「はい。この状況が三年以上続いています」
「君の希望を聞かせてくれるか」
彰吾は一度、息を整えた。
「時給五千円の契約に変えてください。働く時間は、自分で決めます」
課長が目を見開く。
「おいおい、そんな条件が通るわけないだろ」
「駄目なら辞めます」
彰吾は統括部長を見ながら、迷わず答えた。
「なぜ、急にこんな要求を?」
「会社を優先するのをやめて、家族を優先したいんです」
統括部長はしばらく黙ったあと、一覧を机へ置いた。
「無理だ、と言いたいところなんだが……」
赤い線で埋まった紙へ目を落とす。
「こんなものを見せられたら、簡単には断れないな」
統括部長は隣に座る課長を睨んだ。
課長は気まずそうに目をそらす。
「さすがに、今すぐ返事はできない。ただし、必ず検討する。それまで少し待ってほしい」
「分かりました。ありがとうございます」
会議室を出た彰吾は、わずかに震える手を握りしめた。
初めて、会社に自分の要求を突きつけた。
◇
その日の夜。
彰吾は会社近くの公園から、姉の恭子へ電話をかけた。
恭子は結婚しており、三人の子どもを育てている。
香織の浮気疑惑。
毎週二回の延長保育。
自宅に来ていた元スイミングコーチ。
そして、離婚すればマリアを失うかもしれないという恐怖。
恭子は途中で口を挟まず、最後まで黙って聞いていた。
「俺は、マリアと離れたくない」
彰吾が言うと、電話の向こうから深いため息が聞こえた。
『厳しいこと言っていい?』
「うん」
『今のあんた、父親として何をしてるの?』
彰吾は答えられなかった。
『お金を稼いでる。それは大事。でも、送り迎えは? ご飯は? かかりつけの病院は? 幼稚園の先生の名前は知ってる?』
どれも香織に任せてきた。
『裁判になったら、お金を稼いでる父親ってだけで、マリアと暮らせるわけじゃないよ』
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
一瞬の沈黙。
『マリアと暮らしたいなら、実際に育てなさい』
その言葉が胸へ突き刺さった。
『父親になりたいって言うだけじゃ駄目。マリアの生活の中でも父親になるの』
彰吾は膝の上で拳を握った。
会社から早く帰るだけでは足りない。
マリアの隣にいる時間を増やすだけでも足りない。
食事を作り、送り迎えをして、体調を見て、毎日の変化に気づく。
それを続けて初めて、マリアと暮らしたいと言える。
彰吾は顔を上げた。
「分かった。俺が育てる」
恭子は少し間を置いてから答えた。
『違う。一緒に育つのよ』
彰吾はその言葉を、黙って受け止めた。




