家族のために
翌朝。
彰吾は何事もなかったように会社へ向かった。
席に着き、ノートパソコンを起動する。メールを開くと、定時で帰ったあとの数時間だけで、十数件の連絡が届いていた。
彰吾は一件ずつ内容を確認し、返信していく。
いつもと同じ仕事。
いつもと同じオフィス。
それなのに、頭の片隅には、香織とマリアのことがずっと残っていた。
昼休みになり、先輩の小野がオフィスを出ていくのが見えた。
彰吾は慌てて、その後を追う。
「小野さん。今日、昼食一緒にいいですか?」
「俺と?」
小野は驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「別にいいけど」
社員食堂へ入り、小野の向かいに座る。
小野はうどんをすすりながら、予想どおり、離婚した妻と娘の話を自分から始めた。
彰吾は話の切れ目を待ち、質問する。
「あの、離婚したあとの生活って、どうなるんですか?」
「生活?」
「養育費とか、慰謝料とか」
「ああ。うちは元嫁が、養育費はいらない、慰謝料も払うから、さっさと終わらせてくれって」
「裁判にはならなかったんですか?」
「ならなかったよ。離婚する前から、喧嘩ばっかりだったしな」
「親権の話は?」
「したよ。でも俺は仕事ばっかりで、ろくに子育てしてなかったからな。娘も嫁になついてたし」
「子育てをしていないと、親権は取れないんですか?」
「絶対じゃないだろうけど、かなり不利なんじゃないか。俺の場合は、最初から勝ち目がなかった」
彰吾は箸を止めた。
家事も育児も、ほとんど香織に任せてきた。
自分も、小野と同じではないのか。
「それで、娘に会えるのは月に一回だけ。あとは、たまに電話するくらい」
「月に一回だけですか?」
「向こうに新しい家庭ができてからは、それすら嫌がられてるけどな」
小野は力なく笑った。
「この前なんてさ、娘が電話で『パパにパソコン買ってもらった』って言うんだよ」
「小野さんが買ったんですか?」
小野は、うなだれるように首を横へ振る。
「元嫁の再婚相手だよ。娘は、そいつのことをパパって呼んでるらしい」
彰吾の顔から血の気が引いた。
「……すみません。先に戻ります」
彰吾はほとんど手をつけていないうどんを返却口へ運んだ。
長い廊下を、下を向いたまま歩いていく。
――マリアが、ほかの男をパパと呼ぶ。
そんなこと、絶対に耐えられない。
彰吾は、自分のオフィスの前を通り過ぎたことにすら気づかなかった。
◇
午後になると、いつものように彰吾のもとへ仕事が集まり始めた。
「来月の見積もり資料、今日中に確認してくれる?」
課長が机にファイルを置く。
「分かりました」
続いて、同僚がパソコンを抱えてやってきた。
「悪い。明日の会議で使うデータ、まとめといてくれない?」
「うん、ちょっと待ってね」
さらに後輩が、困った顔で声をかけてくる。
「彰吾さん、ここのエラーが分からなくて……」
「あとで行くよ。他のところを見てて」
断るという考えすら浮かばなかった。
彰吾は課長の資料を開き、同僚から送られてきたデータと、後輩のエラー画面を順番に表示した。
三つの仕事が画面に並ぶ。
そこで、ふと手が止まった。
――これ、どれも俺の仕事じゃない。
自分の担当業務に取りかかるのは、いつも皆が帰ったあとだった。
毎日こうして誰かの仕事を引き受け、終電近くまで会社に残っている。
頼まれれば断らない。
困っている人がいれば、自分で処理する。
その方が早いし、課全体もうまく回ると思っていた。
だが、周囲にとっては違った。
口には出さないが、面倒な仕事は彰吾へ渡せばいい。
どうせ断らない。
どうせ最後まで片づけてくれる。
自分たちは、簡単な仕事だけしていれば誰にも怒られない。
いつの間にか、課全体がそれを当たり前だと思うようになっていた。
彰吾は周囲を見回す。
課長は自席で雑談をしている。
仕事を頼んできた同僚は、喫煙所に行ったまま帰ってこない。
後輩は、こそこそと隠れてスマートフォンを眺めている。
――俺は誰のために働いていたんだ。
香織と話す時間も、マリアと夕食を食べる時間も、風呂に入れる時間も失ってきた。
家族を守るためだったはずだ。
それなのに、自分が会社で他人の仕事をしている間、自宅には別の男が入り込んでいた。
彰吾は開いていた資料をすべて閉じた。
新しいファイルを作り、自分が関わっている業務を一つずつ書き出していく。
本来の担当業務。
課長から押しつけられた確認作業。
同僚の代わりに作っている資料。
後輩の名前で進めている不具合調査。
一覧は、あっという間に画面を埋めた。
そのほとんどが、彰吾の担当ではない。
仕事のせいで、これ以上家庭を壊されてたまるか。
いや、仕事のせいではない。
何も断らず、家族より会社を優先してきた自分のせいだ。
彰吾は一覧を印刷し、机の引き出しへ入れた。
明日、上司へ突きつける。
担当外の仕事は、すべて返す。
誰が困ろうと、もう知ったことではない。
明日から俺は、マリアのために生きる。




