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妻の裏切り

彰吾はベッドの前で、しばらく動けなかった。


両手を強く握りしめる。


やがて寝室を出ると、ゆっくり階段を下り、浴室のドアをノックした。


「ねえ、さっきまで誰かいたの?」


「えっ? 何? 聞こえない」


香織がシャワーを止める。


少しして、浴室のドアがわずかに開き、その隙間から香織が顔を出した。


笑顔だった。


いつもと変わらない笑顔を見ているうちに、彰吾は問い直せなくなった。


「いや……体調悪いなら、俺がマリアを迎えに行くよ」


「本当? ありがとう。じゃあ、ご飯の準備しとくね」


「うん」


彰吾は車のキーを持ち、玄関を出た。



幼稚園に到着すると、彰吾は窓越しにマリアへ手を振った。


彰吾に気づいたマリアが、「パパだ!」と声を上げて駆け寄ってくる。


マリアを後部座席のチャイルドシートに乗せ、車を走らせた。


「ねえ、マリア」


「なに?」


「幼稚園に貼ってある絵なんだけどさ」


「うん」


「あれで、マリアと手をつないでいる男の人は誰?」


「あれはコーチだよ」


「コーチ?」


「スイミングのコーチ」


キッズ向けのスイミング教室。


マリアには合わなかったようで、一年ほど前に辞めたはずだ。


「どうしてコーチの絵を描いたの?」


「コーチ、優しくて面白いからだよ」


嫌な予感がした。


それでも彰吾は、質問をやめなかった。


「コーチは、マリアのお家に遊びに来たりする?」


「うーん、分かんない」


先ほどまで明るかったマリアの声が、急に小さくなった。


彰吾は聞き方を変える。


「コーチは、マリアのお部屋を見て何か言ってた?」


「ぬいぐるみがいっぱいで、かわいいって言ってた」


彰吾はハンドルを握ったまま、何も言えなくなった。


――マリアに口止めまでしているのか。


やがて車は、自宅の前に到着した。



自宅へ戻ると、香織はすでにテーブルに夕食を並べていた。


「今日はパパとご飯を食べられて、うれしいね」


何事もなかったように、マリアへ笑いかける。


彰吾もそれに合わせ、無理に口元を緩めた。


夕食のあと、マリアを風呂に入れ、そのまま寝かしつける。


少しでも気を抜けば、怒りが顔に出てしまいそうだった。


何も知らないマリアに悟られないよう、彰吾は普段どおりに話しかけた。


やがて、マリアが静かな寝息を立て始める。


彰吾はベッドの横に座ったまま、しばらく娘の寝顔を見つめていた。


すると、子ども部屋のドアが静かに開く。


香織が顔をのぞかせた。


「寝かしつけ、ありがとね。私、まだ体調悪いから、もう寝るね」


彰吾の返事を待たず、香織はドアを閉めた。



彰吾は一人でリビングへ下りた。


香織に確認しなければならない。


毎週、マリアを延長保育に預けていた理由。


辞めたスイミング教室のコーチが、家に来ていた理由。


そして、今日まで自分に何も話さなかった理由。


――なんて聞けばいいんだ。


問い詰めたい。


怒鳴りつけたい。


それなのに、彰吾の頭の中は何ひとつ整理できていなかった。


気がつけば、深夜0時を回っていた。


今日はリビングのソファで寝るか。


さっき寝室で嗅いだ、あの嗅ぎ慣れない汗のにおいを思い出す。


ソファに寝転がり、目を閉じた瞬間。


怒りが込み上げてきた。


なぜ、自分の家で俺が我慢しなくてはならない。


俺が気を使う理由なんか、一つもない。


彰吾は起き上がり、階段を上って二階へ戻った。


寝室のドアを開ける。


ベッドはきれいに整えられ、あのにおいも残っていなかった。


ベッドの端では、香織が壁に顔を向けて眠っている。


彰吾はその隣に仰向けになり、顔を両腕で覆った。


もし離婚になったら、生活はどうなるのだろう。


香織と一緒に暮らせなくなることは分かる。


しかし、マリアはどうなる。


香織が引き取るのか。


それとも、自分が引き取れるのか。


香織に引き取られたら、もう会えなくなるのだろうか。


何も分からない。


答えを見つけられないまま、夜が明けた。



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