妻の裏切り
彰吾はベッドの前で、しばらく動けなかった。
両手を強く握りしめる。
やがて寝室を出ると、ゆっくり階段を下り、浴室のドアをノックした。
「ねえ、さっきまで誰かいたの?」
「えっ? 何? 聞こえない」
香織がシャワーを止める。
少しして、浴室のドアがわずかに開き、その隙間から香織が顔を出した。
笑顔だった。
いつもと変わらない笑顔を見ているうちに、彰吾は問い直せなくなった。
「いや……体調悪いなら、俺がマリアを迎えに行くよ」
「本当? ありがとう。じゃあ、ご飯の準備しとくね」
「うん」
彰吾は車のキーを持ち、玄関を出た。
◇
幼稚園に到着すると、彰吾は窓越しにマリアへ手を振った。
彰吾に気づいたマリアが、「パパだ!」と声を上げて駆け寄ってくる。
マリアを後部座席のチャイルドシートに乗せ、車を走らせた。
「ねえ、マリア」
「なに?」
「幼稚園に貼ってある絵なんだけどさ」
「うん」
「あれで、マリアと手をつないでいる男の人は誰?」
「あれはコーチだよ」
「コーチ?」
「スイミングのコーチ」
キッズ向けのスイミング教室。
マリアには合わなかったようで、一年ほど前に辞めたはずだ。
「どうしてコーチの絵を描いたの?」
「コーチ、優しくて面白いからだよ」
嫌な予感がした。
それでも彰吾は、質問をやめなかった。
「コーチは、マリアのお家に遊びに来たりする?」
「うーん、分かんない」
先ほどまで明るかったマリアの声が、急に小さくなった。
彰吾は聞き方を変える。
「コーチは、マリアのお部屋を見て何か言ってた?」
「ぬいぐるみがいっぱいで、かわいいって言ってた」
彰吾はハンドルを握ったまま、何も言えなくなった。
――マリアに口止めまでしているのか。
やがて車は、自宅の前に到着した。
◇
自宅へ戻ると、香織はすでにテーブルに夕食を並べていた。
「今日はパパとご飯を食べられて、うれしいね」
何事もなかったように、マリアへ笑いかける。
彰吾もそれに合わせ、無理に口元を緩めた。
夕食のあと、マリアを風呂に入れ、そのまま寝かしつける。
少しでも気を抜けば、怒りが顔に出てしまいそうだった。
何も知らないマリアに悟られないよう、彰吾は普段どおりに話しかけた。
やがて、マリアが静かな寝息を立て始める。
彰吾はベッドの横に座ったまま、しばらく娘の寝顔を見つめていた。
すると、子ども部屋のドアが静かに開く。
香織が顔をのぞかせた。
「寝かしつけ、ありがとね。私、まだ体調悪いから、もう寝るね」
彰吾の返事を待たず、香織はドアを閉めた。
◇
彰吾は一人でリビングへ下りた。
香織に確認しなければならない。
毎週、マリアを延長保育に預けていた理由。
辞めたスイミング教室のコーチが、家に来ていた理由。
そして、今日まで自分に何も話さなかった理由。
――なんて聞けばいいんだ。
問い詰めたい。
怒鳴りつけたい。
それなのに、彰吾の頭の中は何ひとつ整理できていなかった。
気がつけば、深夜0時を回っていた。
今日はリビングのソファで寝るか。
さっき寝室で嗅いだ、あの嗅ぎ慣れない汗のにおいを思い出す。
ソファに寝転がり、目を閉じた瞬間。
怒りが込み上げてきた。
なぜ、自分の家で俺が我慢しなくてはならない。
俺が気を使う理由なんか、一つもない。
彰吾は起き上がり、階段を上って二階へ戻った。
寝室のドアを開ける。
ベッドはきれいに整えられ、あのにおいも残っていなかった。
ベッドの端では、香織が壁に顔を向けて眠っている。
彰吾はその隣に仰向けになり、顔を両腕で覆った。
もし離婚になったら、生活はどうなるのだろう。
香織と一緒に暮らせなくなることは分かる。
しかし、マリアはどうなる。
香織が引き取るのか。
それとも、自分が引き取れるのか。
香織に引き取られたら、もう会えなくなるのだろうか。
何も分からない。
答えを見つけられないまま、夜が明けた。




