娘の絵
「パパ、マリアね、こんど体操するんだよ」
五歳の娘、マリアが夕食のハンバーグを食べながら言った。
「体操? でんぐり返しできるの?」
「できるよ。三回も」
向かいに座る香織が笑う。
「一回も成功してないでしょ。横に転がってるだけ」
「できるもん」
彰吾もつられて笑った。
彰吾は三十二歳。都内の大手企業に勤めるシステムエンジニア。
郊外の戸建てで、妻の香織とマリアの三人で暮らしている。
三年前に技術主任に昇進してから仕事が増え、帰宅はいつも深夜。
家事も育児も、ほとんど香織に任せっきりだった。
「体操教室の代金、日曜までなんだけど」
香織が言う。
「日曜日なら、俺が払ってくるよ」
「行けるの?」
「うん、今週は大丈夫」
「この前もそう言って、会社に行ったじゃん」
責める口調ではない。最初から期待していないような言い方だった。
以前の香織は、もっと怒っていた気がする。
彰吾は、仕事を理解してくれるようになったのか、それとも諦めたのか、自分でも分からなかった。
◇
日曜日。彰吾はマリアを連れて幼稚園へ向かった。
体操教室の申し込みをしている間、マリアは園庭へ走っていく。
彰吾は待ちながら、廊下に飾られた園児たちの絵を眺めた。その中に、マリアの名前を見つける。
絵には三人の人間が描かれていた。
長い髪の女性。小さな女の子。そして、その隣に立つ細身の男性。
三人は手をつないでいる。
上手な絵ではないが、香織とマリアはなんとなく分かる。
問題は、男の方だった。
髪は明らかに茶色。耳には、ピアスのような飾りまで描かれている。
――これ、俺を描いたのか?
マリアに確認しようとしたが、園庭の端にある登り棒で遊んでいる。
わざわざ呼び戻すほどでもないと思い、彰吾は声をかけなかった。
もう一度、絵を見直す。
やはり、自分とは似ても似つかない。
――この男は、いったい誰だ?
「マリアちゃんのお父さん」
名前を呼ばれ、彰吾は受付へ向かった。
財布を出し、体操教室の代金を支払う。手続きを終えて帰ろうとしたところで、職員に呼び止められた。
「今週の延長保育も予約しておきますか?」
「え?」
彰吾は足を止めた。
「マリア、延長保育を使ってるんですか?」
初めて聞く話だった。
職員は少し不思議そうな顔をしながら、パソコンを確認する。
「毎週火曜日と木曜日ですね。二十時までです」
「毎週?」
「はい。ここのところ、ずっとですよ」
彰吾は返事ができなかった。
香織が何をしているのか、彰吾は知らない。帰宅が遅いため、マリアが何時まで幼稚園にいるのかさえ気にしたことがなかった。
「どうかしましたか?」
「いえ。今週の分は、妻に確認してからにします」
彰吾は笑ってごまかした。
帰り道、マリアは彰吾の手を握り、覚えたばかりの歌を口ずさんでいる。
専業主婦の香織は、毎週火曜と木曜に何をしているのだろう。
聞けばいいだけなのに、口に出せなかった。
なぜか、答えを知るのが怖かった。
◇
翌週の火曜日。
彰吾は朝から仕事に集中できずにいた。
今日もマリアを二十時まで預けるのだろうか。
専業主婦の香織は、その間いったい何をしている。
休憩室でコーヒーを飲みながら、そんなことばかり考えていた。
「仕事ばっかりしてると、俺みたいに嫁に浮気されるぞ」
先輩の小野が声をかけてきた。
小野は二年前に離婚し、小学生の娘に会えないと、誰にでも愚痴をこぼす。
聞いているこっちまで暗くなるため、正直やめてほしかった。
「そろそろ、戻りますね」
彰吾は話が始まる前に切り上げ、自分の席へ戻った。
――嫁に浮気されるぞ。
小野の言葉が、頭の中に蘇る。
マリアの絵を見たときに覚えた違和感。
それは、まさに浮気を疑ったからではないのか。
だが、そんなわけがないと、自分で打ち消していた。
オフィスに定時を告げるチャイムが鳴る。
彰吾は、手つかずの仕事を見つめた。
駄目だ。
気になって仕事にならない。
彰吾はノートパソコンを閉じる。
「今日は上がります」
部下や上司が驚いたように顔を上げた。
◇
十八時半。
最寄り駅を出たところで、彰吾は足を止めた。
このまま何も知らせずに帰れば、すべて分かる。
香織が普段どおり家にいれば、それで終わりだ。自分の考えすぎだったと笑えばいい。
それなのに、彰吾はスマートフォンを取り出していた。
『今、駅を出た。もうすぐ着く』
すぐに既読がついた。
自宅へ向かう途中、香織から返信はなかった。
十分後、自宅に到着する。家の明かりはついている。
玄関のドアを開ける。
「香織?」
奥からシャワーの音だけが聞こえてきた。
彰吾は浴室の前まで進み、扉をノックする。
水の音が止まった。
「彰吾、おかえり」
香織の声が返ってくる。
「マリアは?」
わずかな沈黙。
「延長保育にお願いしてる」
「どうして?」
「ちょっと体調が悪くて。今日は見られそうになかったから」
「体調が悪いのに、シャワー浴びてるの?」
「汗かいて気持ち悪かったの」
香織はそれだけ答えると、再びシャワーを出した。
彰吾は何も言わず、二回の奥の部屋に向かった。
夫婦の寝室。
扉を開けた瞬間、足が止まる。
窓は閉まり、カーテンも引かれたまま。
部屋の中には、妙な熱気がこもっていた。
ベッドの掛け布団は大きくずれ、シーツには何本もの深いしわが寄っている。
枕もベッドの端へ転がっていた。
鼻をつく、嗅ぎ慣れない湿った汗のにおい。
彰吾はベッドの前から動けなくなった。
「……嘘だろ」
彰吾は呟いた。
間違いない。ついさっきまで、ここに家族ではない誰かがいた。
浴室からは、まだシャワーの音が続いている。




