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娘の絵

「パパ、マリアね、こんど体操するんだよ」


五歳の娘、マリアが夕食のハンバーグを食べながら言った。


「体操? でんぐり返しできるの?」


「できるよ。三回も」


向かいに座る香織が笑う。


「一回も成功してないでしょ。横に転がってるだけ」


「できるもん」


彰吾もつられて笑った。


彰吾は三十二歳。都内の大手企業に勤めるシステムエンジニア。


郊外の戸建てで、妻の香織とマリアの三人で暮らしている。


三年前に技術主任に昇進してから仕事が増え、帰宅はいつも深夜。


家事も育児も、ほとんど香織に任せっきりだった。


「体操教室の代金、日曜までなんだけど」


香織が言う。


「日曜日なら、俺が払ってくるよ」


「行けるの?」


「うん、今週は大丈夫」


「この前もそう言って、会社に行ったじゃん」


責める口調ではない。最初から期待していないような言い方だった。


以前の香織は、もっと怒っていた気がする。


彰吾は、仕事を理解してくれるようになったのか、それとも諦めたのか、自分でも分からなかった。



日曜日。彰吾はマリアを連れて幼稚園へ向かった。


体操教室の申し込みをしている間、マリアは園庭へ走っていく。


彰吾は待ちながら、廊下に飾られた園児たちの絵を眺めた。その中に、マリアの名前を見つける。


絵には三人の人間が描かれていた。


長い髪の女性。小さな女の子。そして、その隣に立つ細身の男性。


三人は手をつないでいる。


上手な絵ではないが、香織とマリアはなんとなく分かる。


問題は、男の方だった。


髪は明らかに茶色。耳には、ピアスのような飾りまで描かれている。


――これ、俺を描いたのか?


マリアに確認しようとしたが、園庭の端にある登り棒で遊んでいる。


わざわざ呼び戻すほどでもないと思い、彰吾は声をかけなかった。


もう一度、絵を見直す。


やはり、自分とは似ても似つかない。


――この男は、いったい誰だ?


「マリアちゃんのお父さん」


名前を呼ばれ、彰吾は受付へ向かった。


財布を出し、体操教室の代金を支払う。手続きを終えて帰ろうとしたところで、職員に呼び止められた。


「今週の延長保育も予約しておきますか?」


「え?」


彰吾は足を止めた。


「マリア、延長保育を使ってるんですか?」


初めて聞く話だった。


職員は少し不思議そうな顔をしながら、パソコンを確認する。


「毎週火曜日と木曜日ですね。二十時までです」


「毎週?」


「はい。ここのところ、ずっとですよ」


彰吾は返事ができなかった。


香織が何をしているのか、彰吾は知らない。帰宅が遅いため、マリアが何時まで幼稚園にいるのかさえ気にしたことがなかった。


「どうかしましたか?」


「いえ。今週の分は、妻に確認してからにします」


彰吾は笑ってごまかした。


帰り道、マリアは彰吾の手を握り、覚えたばかりの歌を口ずさんでいる。


専業主婦の香織は、毎週火曜と木曜に何をしているのだろう。


聞けばいいだけなのに、口に出せなかった。


なぜか、答えを知るのが怖かった。



翌週の火曜日。


彰吾は朝から仕事に集中できずにいた。


今日もマリアを二十時まで預けるのだろうか。


専業主婦の香織は、その間いったい何をしている。


休憩室でコーヒーを飲みながら、そんなことばかり考えていた。


「仕事ばっかりしてると、俺みたいに嫁に浮気されるぞ」


先輩の小野が声をかけてきた。


小野は二年前に離婚し、小学生の娘に会えないと、誰にでも愚痴をこぼす。


聞いているこっちまで暗くなるため、正直やめてほしかった。


「そろそろ、戻りますね」


彰吾は話が始まる前に切り上げ、自分の席へ戻った。


――嫁に浮気されるぞ。


小野の言葉が、頭の中に蘇る。


マリアの絵を見たときに覚えた違和感。


それは、まさに浮気を疑ったからではないのか。


だが、そんなわけがないと、自分で打ち消していた。


オフィスに定時を告げるチャイムが鳴る。


彰吾は、手つかずの仕事を見つめた。


駄目だ。


気になって仕事にならない。


彰吾はノートパソコンを閉じる。


「今日は上がります」


部下や上司が驚いたように顔を上げた。



十八時半。


最寄り駅を出たところで、彰吾は足を止めた。


このまま何も知らせずに帰れば、すべて分かる。


香織が普段どおり家にいれば、それで終わりだ。自分の考えすぎだったと笑えばいい。


それなのに、彰吾はスマートフォンを取り出していた。


『今、駅を出た。もうすぐ着く』


すぐに既読がついた。


自宅へ向かう途中、香織から返信はなかった。


十分後、自宅に到着する。家の明かりはついている。


玄関のドアを開ける。


「香織?」


奥からシャワーの音だけが聞こえてきた。


彰吾は浴室の前まで進み、扉をノックする。


水の音が止まった。


「彰吾、おかえり」


香織の声が返ってくる。


「マリアは?」


わずかな沈黙。


「延長保育にお願いしてる」


「どうして?」


「ちょっと体調が悪くて。今日は見られそうになかったから」


「体調が悪いのに、シャワー浴びてるの?」


「汗かいて気持ち悪かったの」


香織はそれだけ答えると、再びシャワーを出した。


彰吾は何も言わず、二回の奥の部屋に向かった。


夫婦の寝室。


扉を開けた瞬間、足が止まる。


窓は閉まり、カーテンも引かれたまま。


部屋の中には、妙な熱気がこもっていた。


ベッドの掛け布団は大きくずれ、シーツには何本もの深いしわが寄っている。


枕もベッドの端へ転がっていた。


鼻をつく、嗅ぎ慣れない湿った汗のにおい。


彰吾はベッドの前から動けなくなった。


「……嘘だろ」


彰吾は呟いた。


間違いない。ついさっきまで、ここに家族ではない誰かがいた。


浴室からは、まだシャワーの音が続いている。



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