一年後の約束
面談が終わり、マリアが部屋から出てきた。
普段と変わらない様子で、彰吾の隣へ座った。
彰吾も香織も、何を話したのか聞かなかった。
面談の前に、調査官から言われていた。
「マリアさんが戻ってきても、話した内容を聞き出そうとしないでください」
「本人が自分から話した場合も、答えを否定したり、理由を問い詰めたりしないでください」
彰吾は黙ってマリアを見ていた。
香織は何度も口を開きかける。
それでも、最後まで何も聞かなかった。
◇
それからも調査は続いた。
二人の仕事や収入、これまでの養育状況、離婚後の生活環境。アメリカでの住居や学校についても確認された。
香織には五年間の養育実績があり、彰吾もこの一年、仕事や生活をマリア中心に変えてきた。
どちらにも、マリアを育てられる理由がある。
だからこそ、最後に重く見られたのは、マリア自身の希望だった。
◇
後日。
香織は一人で、調査官と向かい合っていた。
部屋に入ったときから、胸の奥が苦しかった。
調査官は書類へ目を落とし、静かに口を開いた。
「マリアさんの気持ちについて、お伝えします」
香織は膝の上で両手を強く握った。
「……はい」
「マリアさんは、彰吾さんと暮らしたいと話しています」
香織の呼吸が止まった。
「……え?」
調査官の顔を見つめる。
「今、なんて……」
「彰吾さんと暮らしたいと話しています」
「そんな……」
香織は椅子から立ち上がりかけた。
「本当にマリアが言ったんですか? 誘導されたんじゃなくて?」
「香織さん、落ち着いてください」
調査官が静かな声で制した。
「誰かに言わされたわけではありません。マリアさん自身の言葉です」
「でも……私が五年間……」
香織の声が震える。
「私がずっと育ててきたんです。どうして彰吾なんですか?」
「お母さんを嫌っているわけではありません」
調査官は、香織が座り直すのを待ってから続けた。
「お母さんとも会いたい。ずっと自分のお母さんでいてほしいと、何度も話していました」
香織は両手で口元を押さえた。
初めて歩いた日。
熱を出した夜。
幼稚園へ行きたくないと泣いた朝。
そのすべてを、自分が一番近くで見てきた。
それでも、一緒に暮らしたい相手としてマリアが選んだのは彰吾だった。
「少し、お時間を置きましょうか」
調査官が声をかける。
香織は首を横に振った。
「……大丈夫です」
大丈夫なはずがなかった。
それでも、そう答えるしかなかった。
◇
翌日。
香織は、コウスケと駅前の喫茶店で会った。
向かいに座ったコウスケは、香織の顔を見るなり眉をひそめる。
「どうしたの? すごい顔してるけど」
「マリアが、彰吾と暮らしたいって言ったみたい」
「えっ、マジで?」
香織は小さく頷いた。
コウスケは少し黙り、ストローでグラスの氷をかき混ぜる。
「じゃあ、親権は向こうになりそうってこと?」
「まだ決まってないけど」
「そうなんだ」
コウスケは一度、気まずそうに視線をそらした。
「でも、マリアちゃんがそう言ったなら、仕方ない部分もあるよな」
その言葉に、香織はわずかに顔を上げる。
しかし、コウスケは続けた。
「親権が向こうになった場合さ、養育費ってどうなるの?」
香織の表情が止まった。
「今、それを聞くの?」
「いや、責めてるわけじゃないよ。今後の生活に関わるじゃん」
「今後の生活?」
「ほら、家とかもどうなるのかなって」
「……家?」
「彰吾が持っていくのか、香織に残るのか。そのへん大事でしょ」
コウスケは悪びれず、アイスコーヒーを口へ運んだ。
香織は何も言わなかった。
自分がどれだけ傷ついているのか。
この男は、たぶん分かっていない。
いや、分かろうともしていない。
「まあ、まだ決まったわけじゃないんだろ?」
コウスケは軽く笑った。
「親権取れたら、またちゃんと考えようよ」
香織は、その言葉を黙って聞いていた。
本当は、ずっと前から分かっていた。
コウスケが見ているのは、自分でもマリアでもない。
その先にある家と金だけだった。
それでも、香織は別れを切り出せなかった。
ここでコウスケまで失えば、本当に一人になってしまう。
それが、たまらなく怖かった。
◇
数日後。
彰吾は、キッチンで食器を洗っている香織へ後ろから声をかけた。
「頼みがある。二人だけで話をさせてほしい」
香織は返事をしなかった。
しばらく水を流したまま、動きを止めている。
やがて蛇口を閉め、短く答えた。
「分かった」
ちょうど、マリアを迎えに行く時間だった。
二人は家を出て、並んで幼稚園への道を歩き始める。
彰吾も香織も、うつむいたまま。
先に口を開いたのは香織だった。
「何か言いたいことがあるんじゃないの?」
少しの沈黙が流れる。
「調査官からマリアが俺と暮らしたいと言ったことは聞いた」
香織が拳を握る。
「それを言うために呼び出したの?」
「違う」
彰吾は前を向いたまま続けた。
「相談もせずに、アメリカ行きを決めて悪かった」
香織は何も言わない。
「最初は、マリアを連れていけば、香織から引き離せると思ってた」
「……最低ね」
一瞬の沈黙。
「ああ。今は自分でもそう思ってる」
香織が彰吾の顔を見た。
「アメリカへ行くのは一年間だけだ」
「そのあとは、どうするの?」
「日本へ戻る。そのあとは、マリアと一緒に暮らしてほしい」
香織が驚いて顔を上げた。
「どうして?」
二人は足を止めた。
「一番大事なのは、マリアが父親にも母親にも会えることだから」
彰吾は自分の手へ視線を落とす。
「身勝手な理由で、マリアから母親を取り上げようとした」
「そんな俺が、ずっとマリアを独占していいとは思えないんだ」
「彰吾……」
「今の家も香織に渡す。これまでどおり、あの家で暮らしてほしい」
「家まで?」
「一年後、マリアが帰ってこられる場所を残しておきたいんだ」
彰吾は一瞬ためらったあと、はっきりと告げる。
「そのときは、親権も香織へ移す」
香織は唇をかみ、うつむいた。
「彰吾は、本当にそれでいいの?」
「ああ」
香織はしばらく動かなかった。
やがて堪えきれなくなったように歩み寄り、彰吾の胸へ顔を押しつけた。
彰吾は驚いたが、香織の背中へそっと手を添えた。
「分かった」
香織は顔を上げないまま答える。
「マリアを……よろしくお願いします」
彰吾は小さく頷いた。
◇
二人は、彰吾を親権者とすることで合意した。
長く続いた争いは、ようやく終わった。
夫婦として歩く道は、ここで別れた。
それでも、マリアへ続く道だけは、二人の間に残った。




