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一年後の約束

面談が終わり、マリアが部屋から出てきた。


普段と変わらない様子で、彰吾の隣へ座った。


彰吾も香織も、何を話したのか聞かなかった。


面談の前に、調査官から言われていた。


「マリアさんが戻ってきても、話した内容を聞き出そうとしないでください」


「本人が自分から話した場合も、答えを否定したり、理由を問い詰めたりしないでください」


彰吾は黙ってマリアを見ていた。


香織は何度も口を開きかける。


それでも、最後まで何も聞かなかった。



それからも調査は続いた。


二人の仕事や収入、これまでの養育状況、離婚後の生活環境。アメリカでの住居や学校についても確認された。


香織には五年間の養育実績があり、彰吾もこの一年、仕事や生活をマリア中心に変えてきた。


どちらにも、マリアを育てられる理由がある。


だからこそ、最後に重く見られたのは、マリア自身の希望だった。



後日。


香織は一人で、調査官と向かい合っていた。


部屋に入ったときから、胸の奥が苦しかった。


調査官は書類へ目を落とし、静かに口を開いた。


「マリアさんの気持ちについて、お伝えします」


香織は膝の上で両手を強く握った。


「……はい」


「マリアさんは、彰吾さんと暮らしたいと話しています」


香織の呼吸が止まった。


「……え?」


調査官の顔を見つめる。


「今、なんて……」


「彰吾さんと暮らしたいと話しています」


「そんな……」


香織は椅子から立ち上がりかけた。


「本当にマリアが言ったんですか? 誘導されたんじゃなくて?」


「香織さん、落ち着いてください」


調査官が静かな声で制した。


「誰かに言わされたわけではありません。マリアさん自身の言葉です」


「でも……私が五年間……」


香織の声が震える。


「私がずっと育ててきたんです。どうして彰吾なんですか?」


「お母さんを嫌っているわけではありません」


調査官は、香織が座り直すのを待ってから続けた。


「お母さんとも会いたい。ずっと自分のお母さんでいてほしいと、何度も話していました」


香織は両手で口元を押さえた。


初めて歩いた日。


熱を出した夜。


幼稚園へ行きたくないと泣いた朝。


そのすべてを、自分が一番近くで見てきた。


それでも、一緒に暮らしたい相手としてマリアが選んだのは彰吾だった。


「少し、お時間を置きましょうか」


調査官が声をかける。


香織は首を横に振った。


「……大丈夫です」


大丈夫なはずがなかった。


それでも、そう答えるしかなかった。



翌日。


香織は、コウスケと駅前の喫茶店で会った。


向かいに座ったコウスケは、香織の顔を見るなり眉をひそめる。


「どうしたの? すごい顔してるけど」


「マリアが、彰吾と暮らしたいって言ったみたい」


「えっ、マジで?」


香織は小さく頷いた。


コウスケは少し黙り、ストローでグラスの氷をかき混ぜる。


「じゃあ、親権は向こうになりそうってこと?」


「まだ決まってないけど」


「そうなんだ」


コウスケは一度、気まずそうに視線をそらした。


「でも、マリアちゃんがそう言ったなら、仕方ない部分もあるよな」


その言葉に、香織はわずかに顔を上げる。


しかし、コウスケは続けた。


「親権が向こうになった場合さ、養育費ってどうなるの?」


香織の表情が止まった。


「今、それを聞くの?」


「いや、責めてるわけじゃないよ。今後の生活に関わるじゃん」


「今後の生活?」


「ほら、家とかもどうなるのかなって」


「……家?」


「彰吾が持っていくのか、香織に残るのか。そのへん大事でしょ」


コウスケは悪びれず、アイスコーヒーを口へ運んだ。


香織は何も言わなかった。


自分がどれだけ傷ついているのか。


この男は、たぶん分かっていない。


いや、分かろうともしていない。


「まあ、まだ決まったわけじゃないんだろ?」


コウスケは軽く笑った。


「親権取れたら、またちゃんと考えようよ」


香織は、その言葉を黙って聞いていた。


本当は、ずっと前から分かっていた。


コウスケが見ているのは、自分でもマリアでもない。


その先にある家と金だけだった。


それでも、香織は別れを切り出せなかった。


ここでコウスケまで失えば、本当に一人になってしまう。


それが、たまらなく怖かった。



数日後。


彰吾は、キッチンで食器を洗っている香織へ後ろから声をかけた。


「頼みがある。二人だけで話をさせてほしい」


香織は返事をしなかった。


しばらく水を流したまま、動きを止めている。


やがて蛇口を閉め、短く答えた。


「分かった」


ちょうど、マリアを迎えに行く時間だった。


二人は家を出て、並んで幼稚園への道を歩き始める。


彰吾も香織も、うつむいたまま。


先に口を開いたのは香織だった。


「何か言いたいことがあるんじゃないの?」


少しの沈黙が流れる。


「調査官からマリアが俺と暮らしたいと言ったことは聞いた」


香織が拳を握る。


「それを言うために呼び出したの?」


「違う」


彰吾は前を向いたまま続けた。


「相談もせずに、アメリカ行きを決めて悪かった」


香織は何も言わない。


「最初は、マリアを連れていけば、香織から引き離せると思ってた」


「……最低ね」


一瞬の沈黙。


「ああ。今は自分でもそう思ってる」


香織が彰吾の顔を見た。


「アメリカへ行くのは一年間だけだ」


「そのあとは、どうするの?」


「日本へ戻る。そのあとは、マリアと一緒に暮らしてほしい」


香織が驚いて顔を上げた。


「どうして?」


二人は足を止めた。


「一番大事なのは、マリアが父親にも母親にも会えることだから」


彰吾は自分の手へ視線を落とす。


「身勝手な理由で、マリアから母親を取り上げようとした」


「そんな俺が、ずっとマリアを独占していいとは思えないんだ」


「彰吾……」


「今の家も香織に渡す。これまでどおり、あの家で暮らしてほしい」


「家まで?」


「一年後、マリアが帰ってこられる場所を残しておきたいんだ」


彰吾は一瞬ためらったあと、はっきりと告げる。


「そのときは、親権も香織へ移す」


香織は唇をかみ、うつむいた。


「彰吾は、本当にそれでいいの?」


「ああ」


香織はしばらく動かなかった。


やがて堪えきれなくなったように歩み寄り、彰吾の胸へ顔を押しつけた。


彰吾は驚いたが、香織の背中へそっと手を添えた。


「分かった」


香織は顔を上げないまま答える。


「マリアを……よろしくお願いします」


彰吾は小さく頷いた。



二人は、彰吾を親権者とすることで合意した。


長く続いた争いは、ようやく終わった。


夫婦として歩く道は、ここで別れた。


それでも、マリアへ続く道だけは、二人の間に残った。


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