表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
20/22

マリアのきもち

彰吾と香織は、それぞれ弁護士へ相談した。


彰吾は、香織の不倫について話した。


しかし、不倫は離婚や慰謝料には関係しても、それだけで親権が決まるわけではないと説明された。


香織が五年間、中心になってマリアを育ててきた事実も消えない。


一方、香織も財産分与や養育費について説明を受けた。


離婚すれば、家がそのまま自分のものになるわけではない。


養育費も、離婚後の生活を楽にするための金ではなく、マリアを育てるためのものだった。


二人とも、自分の主張だけで親権を取れるほど、単純な話ではないと知った。


それでも、相手へ譲る気にはなれない。


弁護士に相談しても、やはり二人だけで答えを出すのは難しいと分かった。



彰吾と香織は、家庭裁判所へ離婚調停を申し立てた。


最初の調停の日。


家庭裁判所では、彰吾と香織が別々の待合室へ案内される。


先に調停委員と話したのは香織だった。


「マリアは、生まれてから五年間、私が中心になって育ててきました」


香織は背筋を伸ばして話す。


食事。


着替え。


病院。


幼稚園の送り迎え。


好きな食べ物も、苦手なことも、体調を崩す前の小さな変化も分かっている。


「離婚後も、今の家で暮らす予定です。幼稚園も変わりません」


調停委員は話を聞きながら、手元の書類へ書き込んでいく。


「再婚のご予定があるそうですね」


「はい。コウスケという人と、マリアを育てていくつもりです」


「その方のお仕事は?」


「今は、バーでアルバイトをしています」


「現在の店には、どのくらい勤めていますか?」


香織は少し間を置いた。


「三か月くらいです」


「これまでにも転職されていますか?」


「はい。何度か」


調停委員は書類へ視線を落とした。


「その方と、マリアさんはどの程度交流がありますか?」


「まだ、それほどありません」


香織の言葉が止まった。


「二人きりで過ごしたことは?」


「ありません」


「マリアさんは、その方をどう思っていますか?」


「それは……」


答えられなかった。


夫婦二人で育てる家庭を作れば有利になる。


香織はそう考えていた。


しかし、再婚相手がいるというだけでは、何の強みにもならなかった。


むしろ、コウスケがマリアにとって安心できる人間なのかを、細かく確認されることになった。



彰吾は、これまでの育児記録を提出した。


送り迎えをした日。


作った食事。


通院や予防接種。


幼稚園行事への参加。


仕事の時間を変えた記録も残っている。


「育児へ関わり始めたのは、一年ほど前からですね」


調停委員の言葉に、彰吾は頷いた。


「それ以前は、ほとんど妻に任せていました」


「なぜ変わったのですか?」


彰吾は少し考えた。


浮気を知ったから。


親権を取る準備を始めたから。


最初の理由は、それだった。


「最初は、妻と離婚したときに備えるためでした」


彰吾は正直に答える。


「でも、今は違います。マリアと過ごすことが、生活の中心になっています」


アメリカでの計画も説明した。


勤務期間は一年間。


住居は会社が用意する。


医療保険もあり、子どもの学校についても支援を受けられる。


勤務時間も、マリアの生活に合わせて調整できる。


一年後には日本へ戻る予定だった。


「妻に相談せず、アメリカ勤務を決めたのですか?」


「はい」


「なぜですか?」


彰吾は少し黙った。


「話し合っても、反対されるだけだと思ったからです」


調停委員は、それ以上追及せず、書類へ視線を戻した。



調停が進んでも、二人は譲らなかった。


香織には、五年間にわたってマリアを育ててきた実績がある。


彰吾には、現在の養育実績に加え、安定した収入とアメリカでの生活計画があった。


そこで家庭裁判所調査官が、二人の仕事や住居、育児の状況を確認することになった。


香織が長年、中心になってマリアを育ててきたことは重く見られた。


一方、彰吾も一時的に育児を手伝ったのではなく、仕事や生活そのものを変えている。アメリカでの住居、学校、医療体制も整っていた。


経済面では彰吾が大きく上回っていたが、それだけで親権が決まるわけではない。


どちらにも、マリアを育てられる理由があった。


最後に確認されることになったのは、彰吾の気持ちでも、香織の気持ちでもない。


マリアが、どんな暮らしを望んでいるかだった。



その夜。


彰吾は、マリアの隣に横になっていた。


マリアは布団の中で、彰吾の腕にくっついている。


「マリア」


「なに、パパ?」


「もしかしたら、パパと遠くへ行くことになるかもしれない」


「遠くって?」


「アメリカっていう大きな国だよ。飛行機に乗って行くんだ」


「いいな。マリア、飛行機乗ってみたい」


「今の幼稚園には行けなくなるけど、向こうでも新しい友達がたくさんできるよ」


「楽しみだね」


マリアは笑った。


しばらくして、彰吾の顔を見上げる。


「ねえ、パパ」


「なに?」


「そこには、ママは行かないんでしょ?」


彰吾は少し黙った。


「……うん」


「ママ、一人になっちゃうの?」


「大丈夫だよ。ママには、お友達がたくさんいるから」


マリアは何も答えなかった。


しばらくして、彰吾の手を握る。


「マリアね」


「うん?」


「赤ちゃんのときのこと、少しだけ覚えてる気がする」


彰吾は思わず笑った。


「さすがに覚えてないだろ」


「もしかしたら、夢かもしれないけど」


マリアの顔は真剣だった。


「暗いお部屋でね。誰かに抱っこされて、ミルクをもらったの」


彰吾の笑顔が消える。


「……それ、パパだったの?」


「分かんない。でも、パパの声みたいだった」


「何か言ってた?」


「パパだよって、何回も言ってた気がする」


彰吾の目頭が熱くなった。


「顔は見えなかったけど、とっても優しい声だった」


「……そうか」


彰吾は、それだけ答えるのが精いっぱいだった。


マリアは彰吾の手を握り、少しだけ身体を寄せる。


「マリアね、パパは優しい人だと思ってるよ」


「ありがとう」


「だからね、パパ」


マリアの声が小さくなった。


「もう、ママをいじめないであげて」


彰吾は息を止めた。


「はは……いじめてなんかないよ」


笑ってごまかそうとした。


しかし、声は震えていた。


マリアは彰吾の手を、さらに強く握る。


「マリア、パパの言うこと何でも聞くから」


「アメリカにも一緒に行くし、わがままも言わないから」


「マリア……」


「だから、お願い。ママをいじめないで」


その瞬間、彰吾の中で張りつめていたものが切れた。


涙が一気にあふれ出す。


止めようとしても、次から次へと流れてきた。


彰吾は顔を伏せ、声を押し殺そうとした。


だが、嗚咽は止まらない。


香織からマリアを奪えれば、それでいいと思っていた。


だが、傷ついていたのは香織だけではない。


マリアもだった。


母親を守るために、父親と暮らそうとしている。


六歳の娘に、そんな選択をさせていた。


「ごめん……」


彰吾はマリアを強く抱き締めた。


「ごめんな、マリア……」


何度謝っても足りなかった。


彰吾はマリアを抱き締めたまま、声を押し殺すこともできずに泣いた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ