マリアのきもち
彰吾と香織は、それぞれ弁護士へ相談した。
彰吾は、香織の不倫について話した。
しかし、不倫は離婚や慰謝料には関係しても、それだけで親権が決まるわけではないと説明された。
香織が五年間、中心になってマリアを育ててきた事実も消えない。
一方、香織も財産分与や養育費について説明を受けた。
離婚すれば、家がそのまま自分のものになるわけではない。
養育費も、離婚後の生活を楽にするための金ではなく、マリアを育てるためのものだった。
二人とも、自分の主張だけで親権を取れるほど、単純な話ではないと知った。
それでも、相手へ譲る気にはなれない。
弁護士に相談しても、やはり二人だけで答えを出すのは難しいと分かった。
◇
彰吾と香織は、家庭裁判所へ離婚調停を申し立てた。
最初の調停の日。
家庭裁判所では、彰吾と香織が別々の待合室へ案内される。
先に調停委員と話したのは香織だった。
「マリアは、生まれてから五年間、私が中心になって育ててきました」
香織は背筋を伸ばして話す。
食事。
着替え。
病院。
幼稚園の送り迎え。
好きな食べ物も、苦手なことも、体調を崩す前の小さな変化も分かっている。
「離婚後も、今の家で暮らす予定です。幼稚園も変わりません」
調停委員は話を聞きながら、手元の書類へ書き込んでいく。
「再婚のご予定があるそうですね」
「はい。コウスケという人と、マリアを育てていくつもりです」
「その方のお仕事は?」
「今は、バーでアルバイトをしています」
「現在の店には、どのくらい勤めていますか?」
香織は少し間を置いた。
「三か月くらいです」
「これまでにも転職されていますか?」
「はい。何度か」
調停委員は書類へ視線を落とした。
「その方と、マリアさんはどの程度交流がありますか?」
「まだ、それほどありません」
香織の言葉が止まった。
「二人きりで過ごしたことは?」
「ありません」
「マリアさんは、その方をどう思っていますか?」
「それは……」
答えられなかった。
夫婦二人で育てる家庭を作れば有利になる。
香織はそう考えていた。
しかし、再婚相手がいるというだけでは、何の強みにもならなかった。
むしろ、コウスケがマリアにとって安心できる人間なのかを、細かく確認されることになった。
◇
彰吾は、これまでの育児記録を提出した。
送り迎えをした日。
作った食事。
通院や予防接種。
幼稚園行事への参加。
仕事の時間を変えた記録も残っている。
「育児へ関わり始めたのは、一年ほど前からですね」
調停委員の言葉に、彰吾は頷いた。
「それ以前は、ほとんど妻に任せていました」
「なぜ変わったのですか?」
彰吾は少し考えた。
浮気を知ったから。
親権を取る準備を始めたから。
最初の理由は、それだった。
「最初は、妻と離婚したときに備えるためでした」
彰吾は正直に答える。
「でも、今は違います。マリアと過ごすことが、生活の中心になっています」
アメリカでの計画も説明した。
勤務期間は一年間。
住居は会社が用意する。
医療保険もあり、子どもの学校についても支援を受けられる。
勤務時間も、マリアの生活に合わせて調整できる。
一年後には日本へ戻る予定だった。
「妻に相談せず、アメリカ勤務を決めたのですか?」
「はい」
「なぜですか?」
彰吾は少し黙った。
「話し合っても、反対されるだけだと思ったからです」
調停委員は、それ以上追及せず、書類へ視線を戻した。
◇
調停が進んでも、二人は譲らなかった。
香織には、五年間にわたってマリアを育ててきた実績がある。
彰吾には、現在の養育実績に加え、安定した収入とアメリカでの生活計画があった。
そこで家庭裁判所調査官が、二人の仕事や住居、育児の状況を確認することになった。
香織が長年、中心になってマリアを育ててきたことは重く見られた。
一方、彰吾も一時的に育児を手伝ったのではなく、仕事や生活そのものを変えている。アメリカでの住居、学校、医療体制も整っていた。
経済面では彰吾が大きく上回っていたが、それだけで親権が決まるわけではない。
どちらにも、マリアを育てられる理由があった。
最後に確認されることになったのは、彰吾の気持ちでも、香織の気持ちでもない。
マリアが、どんな暮らしを望んでいるかだった。
◇
その夜。
彰吾は、マリアの隣に横になっていた。
マリアは布団の中で、彰吾の腕にくっついている。
「マリア」
「なに、パパ?」
「もしかしたら、パパと遠くへ行くことになるかもしれない」
「遠くって?」
「アメリカっていう大きな国だよ。飛行機に乗って行くんだ」
「いいな。マリア、飛行機乗ってみたい」
「今の幼稚園には行けなくなるけど、向こうでも新しい友達がたくさんできるよ」
「楽しみだね」
マリアは笑った。
しばらくして、彰吾の顔を見上げる。
「ねえ、パパ」
「なに?」
「そこには、ママは行かないんでしょ?」
彰吾は少し黙った。
「……うん」
「ママ、一人になっちゃうの?」
「大丈夫だよ。ママには、お友達がたくさんいるから」
マリアは何も答えなかった。
しばらくして、彰吾の手を握る。
「マリアね」
「うん?」
「赤ちゃんのときのこと、少しだけ覚えてる気がする」
彰吾は思わず笑った。
「さすがに覚えてないだろ」
「もしかしたら、夢かもしれないけど」
マリアの顔は真剣だった。
「暗いお部屋でね。誰かに抱っこされて、ミルクをもらったの」
彰吾の笑顔が消える。
「……それ、パパだったの?」
「分かんない。でも、パパの声みたいだった」
「何か言ってた?」
「パパだよって、何回も言ってた気がする」
彰吾の目頭が熱くなった。
「顔は見えなかったけど、とっても優しい声だった」
「……そうか」
彰吾は、それだけ答えるのが精いっぱいだった。
マリアは彰吾の手を握り、少しだけ身体を寄せる。
「マリアね、パパは優しい人だと思ってるよ」
「ありがとう」
「だからね、パパ」
マリアの声が小さくなった。
「もう、ママをいじめないであげて」
彰吾は息を止めた。
「はは……いじめてなんかないよ」
笑ってごまかそうとした。
しかし、声は震えていた。
マリアは彰吾の手を、さらに強く握る。
「マリア、パパの言うこと何でも聞くから」
「アメリカにも一緒に行くし、わがままも言わないから」
「マリア……」
「だから、お願い。ママをいじめないで」
その瞬間、彰吾の中で張りつめていたものが切れた。
涙が一気にあふれ出す。
止めようとしても、次から次へと流れてきた。
彰吾は顔を伏せ、声を押し殺そうとした。
だが、嗚咽は止まらない。
香織からマリアを奪えれば、それでいいと思っていた。
だが、傷ついていたのは香織だけではない。
マリアもだった。
母親を守るために、父親と暮らそうとしている。
六歳の娘に、そんな選択をさせていた。
「ごめん……」
彰吾はマリアを強く抱き締めた。
「ごめんな、マリア……」
何度謝っても足りなかった。
彰吾はマリアを抱き締めたまま、声を押し殺すこともできずに泣いた。




