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決裂

親権についての話し合いは、何日たっても終わらなかった。


平行線の話し合いに、二人の我慢も限界へ達していた。


ある日の夕方。


彰吾が仕事から帰ると、香織が冷たい声で話しかけた。


「今日、マリア、具合が悪くなって幼稚園を早退したんだけど」


「えっ。なんで連絡しなかったんだよ」


「送っていったときに、どうして気づかなかったの?」


「朝は普通だっただろ」


「少し熱っぽかったし、食欲もなかった」


「だったら、そのとき言えよ」


「毎日世話してるなら、自分で気づくべきじゃない?」


香織は彰吾を冷たく見つめた。


「そんな人に、マリアを任せられないんだけど」


そう言って背を向ける。


「ちょっと待てよ」


彰吾が肩へ手をかけた。


「触らないでよ!」


香織が怒鳴る。


彰吾は驚いて手を離した。


声が低くなる。


「お前、クリスマスイブに何をしたか忘れたのか?」


香織の動きが止まる。


「マリアが熱を出して苦しんでたとき、お前は――どこで、何してたんだよ!」


香織は振り返り、彰吾を睨みつけた。


「「だから何? 今、その話する必要ある?」」


二人はしばらく睨み合った。


「マリアが寝てるから、静かにして」


香織は吐き捨てるように言い、子ども部屋へ向かった。


彰吾は、その後ろ姿を睨み続けた。


この日を境に、二人は互いを話し合いの相手ではなく、憎しみの対象だと思うようになった。



彰吾は書斎へ入り、机の前に座った。


香織に親権が渡れば、いずれ再婚したとき、浮気相手の男に父親の役目まで奪われる。


そんなこと、絶対に許せない。


香織にも、あの男にも手を出せない場所へ、マリアを連れていく。


彰吾は、以前届いたメッセージを思い出した。


送り主は、前の職場で世話になった先輩。


現在はアメリカの企業で、開発チームを率いている。


彰吾はすぐにスマートフォンを取り出し、過去のメッセージを探した。


『アメリカで働ける技術者を探している。興味があれば連絡してほしい』


そして、迷うことなく返信を打った。


『この話を詳しく聞かせてもらえませんか?』


彰吾の中では、もう計画が動き始めていた。



寝室では、香織も同じように、マリアを自分が引き取るために何が必要なのかを考えていた。


彰吾は仕事をしながら、一人でマリアを育てるつもりだ。


それなら、自分は先に新しい家庭を作ればいい。


夫婦二人でマリアを育てる形を作れば、自分のほうが有利になる。


香織は、そう考えた。


香織はスマートフォンを手に取り、コウスケへ電話をかけた。


『もしもし、どうした?』


香織は膝の上で手を握る。


「私と結婚してほしい」


『はあ?』


電話越しに、コウスケの間の抜けた声が聞こえた。



数日後。


彰吾は、アメリカで働く先輩とオンライン通話をしていた。


『連絡をくれて嬉しいよ。正直、彰吾ならすぐにでも来てほしい』


「ありがとうございます。ただ、一つ確認したいことがあります」


『何だ?』


彰吾は少し間を置いた。


「六歳の娘がいます。もし働くことになったら、娘も一緒に連れていきたいんです」


先輩は驚く様子もなく頷いた。


『会社としては問題ない。家族帯同の手続きも、学校探しも支援できる』


『法的な問題が片づいているなら、会社側の受け入れは問題ないよ』


彰吾はほっとした。


『期間は一年間限定だ。現地の開発チームを立て直して、日本側との連携を作ってもらいたい』


先輩は画面に資料を映した。


住居は会社が用意。


医療保険も会社が負担する。


子どもの学校や生活についても、専門の担当者が支援するという。


彰吾は画面を見つめた。


「そこまでしてもらえるんですか?」


『世界中から人材を集めてる会社だからな』


先輩は笑って続ける。


『それに、簡単に代わりが見つかる仕事じゃない』


そして、報酬額を口にした。


彰吾は思わず聞き返す。


「一年で、そんなにもらえるんですか?」


『成功報酬まで含めれば、今の年収の数倍になる』


金額だけではない。


娘と暮らす住居も、学校も、仕事の環境も用意されている。


彰吾の中で、ただの思いつきだった計画が、現実へ変わっていく。


『どうする?』


「ぜひやらせてください」


『分かった。こちらから正式なオファーを出す。来月から渡航準備に入ってくれ』


「ありがとうございます」


通話が終わる。


黒くなった画面に、彰吾の顔が映った。


その顔に、もう迷いはなかった。



駅前の喫茶店。


香織は、コウスケを呼び出していた。


向かいに座ったコウスケは、面倒そうにコーヒーを飲んでいる。


「この前の話だけど」


「ああ、結婚してほしいってやつ?」


香織は小さく頷いた。


「マリアと三人で暮らしてほしいの」


コウスケが、香織をちらりと見る。


「俺が、マリアちゃんの父親になるってこと?」


「そう」


「うーん……」


コウスケは黙り込み、何かを計算するように視線を動かした。


彰吾と離婚すれば、香織は財産分与を受ける。


家も香織のものになるかもしれない。


マリアを引き取れば、毎月養育費も入ってくる。


そこへ自分が住めば、家賃を払わずに暮らせる。


コウスケは、自分に都合のいい未来を頭の中で組み立てた。


「まあ、いいけど」


コウスケは軽い口調で答えた。


香織がわずかに表情を緩める。


しかし、コウスケはすぐに付け加えた。


「でも、婚約するのは、親権が決まってからにしよう」


「どうして?」


「俺にだってさ、心の整理ってもんがあるのよ」


「お願い、結婚する予定があった方が、親権にも有利かもしれないの」


「予定があるって言えばいいじゃん」


コウスケは悪びれもせず、コーヒーを口へ運んだ。


「親権が取れて、家のことも決まってからでいいじゃん」


香織は眉をひそめる。


コウスケは笑ってごまかした。


香織も、この男が何を考えているのか分からないほど愚かではなかった。


自分ではなく、その先にある家や金を見ている。


それでも今は、利用できるものは利用するしかない。


「分かった」


香織は小さく答えた。



その夜。


マリアが眠ったあと、彰吾と香織はいつものようにキッチンのテーブルを挟んだ。


「話がある」


彰吾が先に口を開いた。


「何?」


「一年間、アメリカで働くことになった」


香織の表情が止まる。


「……アメリカ?」


「来月から準備に入る。渡航は三か月後だ」


「そう。じゃあ、マリアは置いていくのね」


彰吾は香織をまっすぐに見た。


「いや、マリアも連れていく」


香織が勢いよく立ち上がった。


「ふざけないで! 何、馬鹿なこと言ってるの!」


「馬鹿なことじゃない。住む場所も学校も、会社が用意してくれる」


「私に相談もせず、勝手に外国へ連れていくつもりなの?」


「親権を取ったら、マリアも連れていく」


「まだ親権は決まってないでしょ!」


「だから、親権は俺がもらう」


彰吾は目をそらさなかった。


織は、震えるほど強く拳を握りしめた。


「だったら、私も話がある」


「何だよ」


「コウスケと結婚する」


彰吾は、一瞬その言葉の意味を理解できなかった。


「……は?」


「マリアは、私とコウスケの二人で育てる」


彰吾も椅子から立ち上がった。


「お前、自分が何を言ってるか分かってるのか?」


「分かってる」


「あの浮気男を、マリアの父親にするつもりか!」


「勝手に外国へ連れていこうとする人よりましよ!」


「どこがだよ!」


「少なくとも私は、日本で今までどおり暮らさせてあげられる!」


「あんなやつと暮らすことの、どこが今までどおりなんだ!」


「彰吾には関係ない!」


「マリアのことだぞ! 関係ないわけないだろ!」


彰吾はテーブルを叩いた。


「本気で結婚するつもりだったなら、どうして何年も不倫なんかしてたんだよ!」


「マリアがあの人を父親と呼ぶのが嫌なんでしょ?」


「だったら、親権を私に渡して、口を出さなければいい」


二人の怒鳴り声が、静まり返った一階に響いた。


彰吾は、香織からマリアを遠ざけるために、アメリカ行きを決めた。


香織は、彰吾にマリアを渡さないために、コウスケとの結婚を決めた。


どちらも、マリアのためだと言い張った。


だが本当は、相手にだけは渡したくなかった。


「もう、お前と話しても無駄だ」


彰吾が吐き捨てる。


香織も冷たい目を返した。


「それはこっちの台詞よ」


「だったら、第三者に決めてもらうしかない」


「ええ。裁判所でも何でも行けばいい」


夫婦だけで話し合える段階は、もう終わっていた。


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