決裂
親権についての話し合いは、何日たっても終わらなかった。
平行線の話し合いに、二人の我慢も限界へ達していた。
ある日の夕方。
彰吾が仕事から帰ると、香織が冷たい声で話しかけた。
「今日、マリア、具合が悪くなって幼稚園を早退したんだけど」
「えっ。なんで連絡しなかったんだよ」
「送っていったときに、どうして気づかなかったの?」
「朝は普通だっただろ」
「少し熱っぽかったし、食欲もなかった」
「だったら、そのとき言えよ」
「毎日世話してるなら、自分で気づくべきじゃない?」
香織は彰吾を冷たく見つめた。
「そんな人に、マリアを任せられないんだけど」
そう言って背を向ける。
「ちょっと待てよ」
彰吾が肩へ手をかけた。
「触らないでよ!」
香織が怒鳴る。
彰吾は驚いて手を離した。
声が低くなる。
「お前、クリスマスイブに何をしたか忘れたのか?」
香織の動きが止まる。
「マリアが熱を出して苦しんでたとき、お前は――どこで、何してたんだよ!」
香織は振り返り、彰吾を睨みつけた。
「「だから何? 今、その話する必要ある?」」
二人はしばらく睨み合った。
「マリアが寝てるから、静かにして」
香織は吐き捨てるように言い、子ども部屋へ向かった。
彰吾は、その後ろ姿を睨み続けた。
この日を境に、二人は互いを話し合いの相手ではなく、憎しみの対象だと思うようになった。
◇
彰吾は書斎へ入り、机の前に座った。
香織に親権が渡れば、いずれ再婚したとき、浮気相手の男に父親の役目まで奪われる。
そんなこと、絶対に許せない。
香織にも、あの男にも手を出せない場所へ、マリアを連れていく。
彰吾は、以前届いたメッセージを思い出した。
送り主は、前の職場で世話になった先輩。
現在はアメリカの企業で、開発チームを率いている。
彰吾はすぐにスマートフォンを取り出し、過去のメッセージを探した。
『アメリカで働ける技術者を探している。興味があれば連絡してほしい』
そして、迷うことなく返信を打った。
『この話を詳しく聞かせてもらえませんか?』
彰吾の中では、もう計画が動き始めていた。
◇
寝室では、香織も同じように、マリアを自分が引き取るために何が必要なのかを考えていた。
彰吾は仕事をしながら、一人でマリアを育てるつもりだ。
それなら、自分は先に新しい家庭を作ればいい。
夫婦二人でマリアを育てる形を作れば、自分のほうが有利になる。
香織は、そう考えた。
香織はスマートフォンを手に取り、コウスケへ電話をかけた。
『もしもし、どうした?』
香織は膝の上で手を握る。
「私と結婚してほしい」
『はあ?』
電話越しに、コウスケの間の抜けた声が聞こえた。
◇
数日後。
彰吾は、アメリカで働く先輩とオンライン通話をしていた。
『連絡をくれて嬉しいよ。正直、彰吾ならすぐにでも来てほしい』
「ありがとうございます。ただ、一つ確認したいことがあります」
『何だ?』
彰吾は少し間を置いた。
「六歳の娘がいます。もし働くことになったら、娘も一緒に連れていきたいんです」
先輩は驚く様子もなく頷いた。
『会社としては問題ない。家族帯同の手続きも、学校探しも支援できる』
『法的な問題が片づいているなら、会社側の受け入れは問題ないよ』
彰吾はほっとした。
『期間は一年間限定だ。現地の開発チームを立て直して、日本側との連携を作ってもらいたい』
先輩は画面に資料を映した。
住居は会社が用意。
医療保険も会社が負担する。
子どもの学校や生活についても、専門の担当者が支援するという。
彰吾は画面を見つめた。
「そこまでしてもらえるんですか?」
『世界中から人材を集めてる会社だからな』
先輩は笑って続ける。
『それに、簡単に代わりが見つかる仕事じゃない』
そして、報酬額を口にした。
彰吾は思わず聞き返す。
「一年で、そんなにもらえるんですか?」
『成功報酬まで含めれば、今の年収の数倍になる』
金額だけではない。
娘と暮らす住居も、学校も、仕事の環境も用意されている。
彰吾の中で、ただの思いつきだった計画が、現実へ変わっていく。
『どうする?』
「ぜひやらせてください」
『分かった。こちらから正式なオファーを出す。来月から渡航準備に入ってくれ』
「ありがとうございます」
通話が終わる。
黒くなった画面に、彰吾の顔が映った。
その顔に、もう迷いはなかった。
◇
駅前の喫茶店。
香織は、コウスケを呼び出していた。
向かいに座ったコウスケは、面倒そうにコーヒーを飲んでいる。
「この前の話だけど」
「ああ、結婚してほしいってやつ?」
香織は小さく頷いた。
「マリアと三人で暮らしてほしいの」
コウスケが、香織をちらりと見る。
「俺が、マリアちゃんの父親になるってこと?」
「そう」
「うーん……」
コウスケは黙り込み、何かを計算するように視線を動かした。
彰吾と離婚すれば、香織は財産分与を受ける。
家も香織のものになるかもしれない。
マリアを引き取れば、毎月養育費も入ってくる。
そこへ自分が住めば、家賃を払わずに暮らせる。
コウスケは、自分に都合のいい未来を頭の中で組み立てた。
「まあ、いいけど」
コウスケは軽い口調で答えた。
香織がわずかに表情を緩める。
しかし、コウスケはすぐに付け加えた。
「でも、婚約するのは、親権が決まってからにしよう」
「どうして?」
「俺にだってさ、心の整理ってもんがあるのよ」
「お願い、結婚する予定があった方が、親権にも有利かもしれないの」
「予定があるって言えばいいじゃん」
コウスケは悪びれもせず、コーヒーを口へ運んだ。
「親権が取れて、家のことも決まってからでいいじゃん」
香織は眉をひそめる。
コウスケは笑ってごまかした。
香織も、この男が何を考えているのか分からないほど愚かではなかった。
自分ではなく、その先にある家や金を見ている。
それでも今は、利用できるものは利用するしかない。
「分かった」
香織は小さく答えた。
◇
その夜。
マリアが眠ったあと、彰吾と香織はいつものようにキッチンのテーブルを挟んだ。
「話がある」
彰吾が先に口を開いた。
「何?」
「一年間、アメリカで働くことになった」
香織の表情が止まる。
「……アメリカ?」
「来月から準備に入る。渡航は三か月後だ」
「そう。じゃあ、マリアは置いていくのね」
彰吾は香織をまっすぐに見た。
「いや、マリアも連れていく」
香織が勢いよく立ち上がった。
「ふざけないで! 何、馬鹿なこと言ってるの!」
「馬鹿なことじゃない。住む場所も学校も、会社が用意してくれる」
「私に相談もせず、勝手に外国へ連れていくつもりなの?」
「親権を取ったら、マリアも連れていく」
「まだ親権は決まってないでしょ!」
「だから、親権は俺がもらう」
彰吾は目をそらさなかった。
織は、震えるほど強く拳を握りしめた。
「だったら、私も話がある」
「何だよ」
「コウスケと結婚する」
彰吾は、一瞬その言葉の意味を理解できなかった。
「……は?」
「マリアは、私とコウスケの二人で育てる」
彰吾も椅子から立ち上がった。
「お前、自分が何を言ってるか分かってるのか?」
「分かってる」
「あの浮気男を、マリアの父親にするつもりか!」
「勝手に外国へ連れていこうとする人よりましよ!」
「どこがだよ!」
「少なくとも私は、日本で今までどおり暮らさせてあげられる!」
「あんなやつと暮らすことの、どこが今までどおりなんだ!」
「彰吾には関係ない!」
「マリアのことだぞ! 関係ないわけないだろ!」
彰吾はテーブルを叩いた。
「本気で結婚するつもりだったなら、どうして何年も不倫なんかしてたんだよ!」
「マリアがあの人を父親と呼ぶのが嫌なんでしょ?」
「だったら、親権を私に渡して、口を出さなければいい」
二人の怒鳴り声が、静まり返った一階に響いた。
彰吾は、香織からマリアを遠ざけるために、アメリカ行きを決めた。
香織は、彰吾にマリアを渡さないために、コウスケとの結婚を決めた。
どちらも、マリアのためだと言い張った。
だが本当は、相手にだけは渡したくなかった。
「もう、お前と話しても無駄だ」
彰吾が吐き捨てる。
香織も冷たい目を返した。
「それはこっちの台詞よ」
「だったら、第三者に決めてもらうしかない」
「ええ。裁判所でも何でも行けばいい」
夫婦だけで話し合える段階は、もう終わっていた。




