親権
「マリアは、どっちと暮らすの?」
彰吾と香織は、同時に顔を上げた。
「えっと……それは」
彰吾は言葉に詰まる。
「まだ、決まってないんだ」
香織は黙ったまま、視線をそらしていた。
「この話はいったん終わりにして、お風呂に入ろうか」
「ママと入ろう」
香織はそう言うと、すぐにマリアの手を引いて立ち上がった。
彰吾は、その後ろ姿を見て嫌な予感がした。
◇
夜中。
リビングのソファで眠っていた彰吾の前に、香織が立っていた。
「彰吾、起きて」
彰吾は身体を起こす。
「こんな時間にどうしたの?」
薄明かりの中、香織は彰吾の目をまっすぐに見つめた。
さっきまでの寂しそうな表情は、もうどこにもない。
「今後のマリアのことだけど」
「うん……」
「マリアは、必ず私が引き取るから」
はっきりと言い切った。
彰吾が何か返すより先に、香織は背を向け、そのままリビングを出ていった。
やがて、階段を上がる足音が聞こえる。
彰吾はソファに座ったまま、しばらく動けなかった。
宣戦布告。
そう受け取った。
◇
翌日から、マリアの親権についての話し合いが始まった。
マリアが起きている間は、二人で協力して世話をする。
しかし、マリアが寝静まると、キッチンのテーブルを挟んで言い争った。
「マリアは私が引き取る」
「冗談じゃない。マリアは俺と暮らす」
「子どもが母親と暮らすのは当たり前だと思わない?」
「まったく思わない。それは香織が決めることじゃない」
「生まれてから五年間、中心になって育てたのは私よ。マリアのことは、私が一番分かってる」
「俺だって、この一年は食事、送り迎え、通院、幼稚園の行事までやってきた。仕事も育児に合わせて変えた」
「たった一年でしょ。それまでは、ずっと放置してたくせに」
「過去だけで決めるんじゃなくて、マリアのこれからを考えるべきだろ」
香織はテーブルの上で拳を握った。
「別に、マリアに会うなと言ってるわけじゃないでしょ!」
「偉そうに言うな。そもそも、離婚の原因はお前の浮気だろ」
「浮気と親権は別の話だから」
「どんだけ図々しいんだよ!」
「妻として悪かったことは認める。でも、母親として育ててきたことまで否定させない」
彰吾は言い返そうとした。
しかし、言葉が出てこなかった。
浮気をしたからといって、それだけで親権が決まるわけではない。
ここから先は、夫と妻ではなく、父親と母親の争いだった。
話し合いは、その日だけでは終わらなかった。
翌日も、その次の日も、マリアが眠ると二人は向かい合った。
結局、数日間話し合っても答えは出なかった。
決まったのは、親権が決まるまで、どちらもこの家を出ないということだけだった。
◇
朝。
香織がキッチンへ行くと、すでに彰吾がマリアの朝食を用意していた。
「今日は私がやるから」
「もうできてるよ」
香織は何も言わず、冷蔵庫からヨーグルトを取り出す。
その横で、彰吾がマリアの髪を結び始めた。
「今日のお迎えは私が行く」
「今日は俺の予定だっただろ」
「予定が変わったの」
「じゃあ、俺も行く」
二人の間に座るマリアが、不思議そうに顔を上げた。
「パパとママ、また喧嘩してるの?」
彰吾と香織は同時に口を閉じる。
「してないよ」
二人の声が重なった。
マリアは納得していない顔で、朝食を口へ運ぶ。
親権が決まるまで、どちらもこの家を出ない。
そして、どちらもマリアの世話を相手へ譲るつもりはなかった。
同じ家の中で、静かな争いが始まった。




