離婚
夜になり、彰吾はマリアに夕食を食べさせた。
自分と香織の分は、当然のように作らなかった。
食事が終わる頃になって、香織がようやく寝室から出てくる。
マリアが不思議そうに見つめると、香織は優しく笑い返した。
何かを感じ取ったのか、マリアはぐずることもなく、夜の八時にはベッドへ入った。
◇
彰吾が子ども部屋から出ると、香織は食卓に座って待っていた。
彰吾も正面の席へ腰を下ろす。
長い沈黙が続いた。
やがて、香織が深く頭を下げる。
「ごめんなさい」
それは、浮気を許してほしいという意味ではなかった。
これまで彰吾を騙していたことへの謝罪だった。
彰吾は何も言わず、頭を下げる香織を見ている。
「どうして、気づいていたのに何も言わなかったの?」
香織が小さな声で尋ねた。
彰吾は少し間を置いて答える。
「マリアと会えなくなると思ったから」
香織はゆっくりと頷いた。
再び、長い沈黙が訪れる。
彰吾は視線を落としたまま、静かに言った。
「離婚しか……ないと思う」
香織の目から、数滴の涙が落ちた。
「あんなところを見られたら……何も言えないよね」
震える声で呟く。
彰吾は目をそらした。
「香織は、どう思う?」
香織の頭に、お泊まり保育の夜が浮かんだ。
二人で手をつないで歩いたこと。
最近になって、少しだけ夫婦へ戻れたような気がしたこと。
もう少し早く、彰吾をきちんと見ていればよかった。
そう思っても、もう遅かった。
長い沈黙のあと、香織は口を開く。
「分かった。離婚しましょう」
◇
翌日、彰吾は会社を休み、区役所で離婚届を受け取った。
自宅へ戻ると、マリアのいないところで香織へ見せる。
香織は離婚届を見つめ、小さく頷いた。
彰吾がその場を離れようとすると、香織が呼び止める。
「ねえ、マリアにはいつ話すの?」
彰吾は壁のカレンダーへ目を向けた。
「次の土曜日にしよう。それまでは、普通に過ごそう」
香織は黙って頷いた。
土曜日まで、二人はマリアに笑顔で接した。
しかし、彰吾と香織が目を合わせることはなく、必要なこと以外は何も話さなかった。
夜、食事をしながらマリアが言う。
「ねえ、今度みんなで動物園に行きたい」
彰吾は小さく笑って頷いた。
香織も、何も知らないマリアへ微笑み返す。
三人の家庭は、消える寸前のシャボン玉のように、かろうじて形を保っていた。
◇
土曜日。
三人は朝から動物園へ出かけた。
マリアは大喜びで園内を走り回り、彰吾と香織がそのあとを追いかける。
動物と一緒に写真を撮り、小さなヒヨコを手のひらに乗せた。
キリンの檻の前では、通りかかった人に頼み、三人で写真を撮ってもらった。
昼になると、香織が作ったおにぎりを並んで食べる。
「また三人で来ようね」
マリアが笑顔で言った。
彰吾と香織は、少し遅れて頷いた。
「うん」
何をしていても、これが三人で過ごす最後の日になるかもしれないと思うと、胸が痛んだ。
まだ日が暮れる前だったが、三人は少し早めに動物園を出た。
帰りの車で、遊び疲れたマリアはすぐに眠った。
彰吾と香織は、一度も言葉を交わさないまま、自宅へ戻った。
◇
夜。
ソファで眠っていたマリアが、大きなあくびをしながら目を覚ました。
キッチンのテーブルには、彰吾と香織が並んで座っている。
「マリア、こっちおいで」
香織が手を引き、二人の間に座らせた。
冷蔵庫からジュースを取り出し、コップへ注ぐ。
マリアはまだ眠そうな顔で、それを嬉しそうに飲んだ。
彰吾が香織を見る。
「話そうか……」
香織は小さく頷いた。
「マリア」
「なに?」
彰吾は何度か口を開きかけたが、言葉が出てこなかった。
動物園で笑っていたマリアの顔が頭に浮かぶ。
それでも、いつまでも黙っているわけにはいかない。
「実はね。パパとママは、別々に暮らすことになったんだ」
マリアはきょとんとしている。
彰吾は、もう一度言い直した。
「パパとママが、違うお家に住むってこと」
「どうして?」
マリアが首をかしげる。
「パパとママはね。一緒にいると、喧嘩しちゃうようになったんだ」
「でも、パパとママは仲良しだよ」
彰吾は言葉に詰まった。
香織が膝の上で、両手を強く握る。
「ママが、もうパパと一緒にいられないことをしちゃったの」
彰吾が香織を見る。
「分かんないよ。なんで一緒にいられないの?」
「ごめんね。ママが全部悪いの」
香織の目から、大粒の涙がこぼれた。
「パパ、ママはなんで泣いてるの?」
彰吾の目にも涙が浮かぶ。
「パパとママは別々に暮らすけど、二人ともマリアのことは大好きだから」
マリアは不安そうに、二人の顔を見つめた。
彰吾と香織は、同時にマリアの小さな手を握る。
「パパもママも、マリアのことが一番大事なんだ」
「じゃあ……」
マリアは二人の顔を交互に見た。
「マリアは、どっちと暮らすの?」
彰吾と香織は、同時に顔を上げた。




