忘れてた!
いつもの朝。
「パパ、髪まだ?」
「動かないで。もう少しだから」
彰吾は、マリアの髪を三つ編みにしていた。
「ララ、ラララー」
マリアがテレビのキャラクターに合わせて歌い、身体を揺らす。
「だから、動くなって!」
そう言いながらも、彰吾は手慣れた様子で三つ編みを完成させた。
すかさず、香織がマリアの前へお茶漬けを置く。
マリアが食べようとすると、彰吾が横から水を少し足して冷ました。
「テレビの数字が"8"になるまでに食べような」
彰吾が画面の時刻を指さす。
「彰吾、かばん取って」
キッチンから香織の声が飛んできた。
彰吾がマリアのかばんを持っていくと、香織は弁当箱のふたを少しだけ開ける。
中には、マリアの好きなキャラクターをかたどった弁当が入っていた。
「かわいいじゃん」
彰吾がくすっと笑う。
「でしょ?」
「なんでパパとママ、笑ってるの?」
マリアが不思議そうに尋ねた。
「何でもないよ。お昼までのお楽しみ」
香織はそう言って、マリアの三つ編みを指先でつついた。
◇
玄関で、香織はスーツ姿の彰吾と制服姿のマリアを見送っていた。
「今日さ、幼稚園へ迎えに行ったら、そのまま実家に寄ってくるよ」
「ああ、マリアの誕生日プレゼントを取りに行くの?」
「うん。夕飯もごちそうになってくる」
「あ、待って。お土産も持っていって」
香織は急いでキッチンへ向かい、小さな紙袋を手に戻ってきた。
中には、箱入りの和菓子が入っている。
「はい、これ」
「ありがとう。じゃあ、何かあったら連絡する」
「うん。二人とも気をつけてね」
「パパ。さっきからマリアの靴、踏んでるよ」
「あ、本当だ」
彰吾が足元を見る。
玄関には、マリアの靴がいくつも散らばっていた。
「っていうか、たまには片づけようよ」
「いつかやる」
「絶対やらないやつだな」
「はいはい。遅れちゃうよ。早く行って」
「行ってきまーす!」
彰吾とマリアの声が重なる。
「行ってらっしゃい」
ドアが閉まり、二人の足音が遠ざかっていった。
◇
夕方。
彰吾は仕事を終え、幼稚園へマリアを迎えに行った。
門から出てきたマリアは、彰吾を見つけるなり走ってくる。
「パパ!」
勢いよく跳びついてきたマリアを、彰吾は難なく受け止めた。
「今日ね、イエス様のお話をしたんだよ」
「へえ。面白かった?」
「うん!」
マリアは園舎の壁にある十字架を見上げる。
「でも、なんであそこに張りついてるのかな」
「たぶん、ポケットにティッシュを入れたまま洗濯機に入れたからじゃないか」
「それは、ママが本気で怒るやつだね」
二人が幼稚園を出ようとしたところで、彰吾のスマートフォンが鳴った。
画面には、母親の名前が表示されている。
「もしもし。今から行くところだけど」
『彰吾、今日は来ない方がいいわ』
「どうしたの?」
『お父さんがね、検査したらインフルエンザだったのよ』
「ええ、マジで?」
彰吾は、隣で手をつないでいるマリアを見る。
『マリアちゃんにうつしたら大変だから、今日はやめておきなさい』
それなら仕方がない。
「分かった。父さんにも、お大事にって伝えて」
彰吾は電話を切った。
「マリアちゃん」
マリアが彰吾を見上げる。
「残念。ばあばの家はなしになりました」
彰吾がおどけた口調で告げる。
マリアは取り乱さなかった。
目を細め、静かに言う。
「じゃあ、シールブック二つ買って」
彰吾は苦笑した。
「分かったよ」
◇
家に到着した。
玄関のドアが閉まると、マリアは彰吾からシールブックの入った袋を奪い取った。
「おーい。手洗いとうがいしてからだぞ」
「はーい!」
そう返事をしながら、リビングへ走っていく。
「まったく……」
彰吾は手に持ったままのお土産を見る。
――これ、冷蔵庫に入れた方がいいのかな。
靴を脱いで家へ上がる。
「おーい、香織!」
呼んでも返事はない。
リビングでは、マリアがすでにシールブックを広げていた。
「ママは?」
「知らない」
あれ、二階にいるのかな。
階段を上り、子ども部屋をのぞく。
誰もいない。
そして、隣の寝室のドアを開ける。
「香織、このお土産なんだけど――」
◇
そこには、ベッドの脇で下着姿でズボンを履こうとしている若い男がいた。
彰吾の言葉が止まる。
ベッドへ目を向けると、香織が下着姿のまま、シーツで身体を隠していた。
三人とも動かない。
彰吾は、もう一度部屋を見渡した。
どこかで見たことのある男。
驚きで口を開けたままの香織。
閉め切られたカーテン。
一つずつ目に入ってくるのに、意味がつながらない。
――いったい、これは何なんだ?
男もどうしていいか分からないらしく、片足だけズボンへ突っ込んだ姿で固まっている。
「はっ!」
彰吾は、ようやく思い出した。
細い身体。
茶色い髪。
耳のピアス。
男を指さす。
「元スイミングコーチ!」
コウスケの肩が跳ねた。
「そうだ! すっかり忘れてた!」
続いて、香織を指さす。
「香織、おまえ浮気してるんじゃん!!」
今度は香織の身体がびくりと揺れた。
なぜか彰吾は笑っていた。
あまりにも忘れていた自分がおかしかった。
彰吾がコウスケへ近づく。
「は、はは……ど、どうも。初めまして」
彰吾の顔から笑みが消えた。
次の瞬間、彰吾は片足立ちのコウスケの膝を、真横から思いきり蹴り払った。
「うがっ!」
体勢を崩したコウスケは半回転し、そのまま床へ叩きつけられる。
ドゴン!
コウスケはあまりの痛みで声が出ない。
彰吾は茶色い髪をつかみ、無理やり顔を上げさせる。
「おい!このガキ!」
「今すぐ俺の家から出ていけ! ぶち殺すぞ!」
「ひっ……」
コウスケは頷いた。
香織は息をのみ、声も出せずにその様子を見ている。
コウスケは足を引きずりながら服を拾い、寝室から逃げるように出ていった。
彰吾はそのあとを追い、玄関から出ていくまで見届けた。
マリアの様子を見ると、気にせずシールブックに夢中になっている。
寝室に戻る。
香織は、最初にドアを開けたときとほとんど同じ姿勢で座っていた。
顔は青ざめ、唇が震えている。
「待って……」
彰吾は床に落ちていた和菓子の紙袋を拾った。
「彰吾、待って」
「何?」
「違うの」
彰吾は言葉を遮った。
「マリアのことで、すっかり忘れてたよ」
「……え?」
「一年くらい前から知ってたから」
香織が目を見開く。
朝の慌ただしい支度。
幼稚園への送り迎え。
保護者たちとの付き合い。
幼稚園の行事。
病院、予防接種。
朝食・昼食・夕食・おやつ。
お風呂に寝かしつけ。
いつの間にか、彰吾の毎日はマリアのことで埋め尽くされていた。
香織の浮気など、本当に頭の奥へ追いやられていた。
許したわけではない。
終わったわけでもない。
ただ、思い出す暇がなかった。
彰吾は、しばらく香織を見つめた。
「香織……」
香織が顔を上げる。
「これ……離婚だな」
香織の表情が凍りついた。




