お泊まり保育
幼稚園のお泊まり保育の日。
年長組の園児たちは、昼から翌朝まで幼稚園で過ごす。
先生の話では、毎年二割ほどの子が寂しさに耐えられず、夜中に迎えを呼ぶらしい。
彰吾は外せない会議があり、マリアを見送ることができなかった。
朝、玄関でマリアの前にしゃがむ。
「無理しなくていいんだぞ。寂しくなったら、すぐ帰っておいで」
彰吾は、今にも泣きそうな顔で言った。
「何言ってるの、パパ。マリア、もう六歳なんだよ!」
マリアは自信満々に胸を張る。
「いやいや。六歳で外泊なんて、まだ早いよ」
「絶対に大丈夫だから。心配しないで」
香織が呆れた顔で口を挟む。
「もう。マリアが弱気になるようなこと言わないの」
彰吾は後ろ髪を引かれる思いで、会社へ向かった。
「絶対に帰ってこないからね!」
背後からマリアの声が飛んでくる。
彰吾は振り返り、大きく手を振った。
「分かった。楽しんでこい!」
◇
昼過ぎ。
香織はマリアを幼稚園まで送っていった。
園庭には、大きな荷物を持った園児と保護者が集まっている。
子どもたちは楽しそうに走り回り、その横で親たちが名残惜しそうに写真を撮っていた。
アイリとリンカの母親が、手を振りながら近づいてくる。
香織も笑顔で手を振り返した。
「今日は彰吾さん、来ないの?」
「うん。会社で外せない会議があるんだって」
「そうなんだ。残念」
「彰吾に何か用があった?」
「この前、マリアちゃんがしてた髪形を教えてもらおうと思ってたの」
アイリの母親が残念そうに言った。
「そうなんだ……」
香織は少し驚きながら答える。
その後も、ほかのママ友や幼稚園の先生から声をかけられた。
しかし、話題に出るのはどれも彰吾のことだった。
「演劇会のセット、すごかったですよね。うちの主人も、また声をかけてほしいって言ってました」
「うちの子、彰吾さんにかけっこのコツを教えてもらってから、すごく速くなったんですよ」
「今度、園のお便りをデータ化できないか、彰吾さんに聞いてもらえますか?」
香織は笑顔で頷いていた。
それなのに、自分の居場所が少しずつなくなっていくような気がした。
胸の奥に、わずかな寂しさが残る。
以前なら、マリアのことは何でも香織へ尋ねられた。
誰と仲がいいのか。
家では何をして遊んでいるのか。
誰も彰吾のことなど、ほとんど知らなかったのに。
「香織さん」
後ろから声をかけられた。
振り返ると、リオンの母親・紗季が立っている。
「よかったら、一緒に帰りませんか?」
「ええ、ぜひ」
◇
リオンもマリアと同じ年長組で、今夜は幼稚園へ泊まる。
「今夜は静かになりますね」
紗季が笑った。
「静かすぎて、逆に落ち着かなさそう」
「分かります。いつもいる子どもがいないと、何をしていいのか分からなくなりますよね」
二人で歩きながら、香織は以前から気になっていたことを尋ねた。
「紗季さんは、再婚とか考えないの?」
紗季は少し考え、首を横に振る。
「今のところは、あまり」
「それだけ美人なら、声をかけてくる人もいるでしょ?」
紗季は困ったように笑った。
「私を好きになってくれるだけじゃ、駄目なんです」
前を向いたまま、静かに続ける。
「リオンのことまで、自分の子どもみたいに大切にしてくれる人じゃないと」
「そうなんだ。なかなかいないよね」
「そうですね」
紗季は少し笑い、香織を見た。
「彰吾さんみたいな人なら、私もリオンも幸せになれたかもしれませんけど」
香織の足が、わずかに止まった。
「彰吾が?」
「自分の大切なものを、誰よりも先に守ろうとする人じゃないですか」
紗季は、先日の帰り道を思い出したように目を細める。
「リオンが彰吾さんの手を握ったのも、何か感じたのかもしれません」
そして、少し笑った。
「だから、マリアちゃんも香織さんも羨ましいです」
香織は、うまく返事ができなかった。
彰吾を褒められたことは、悪い気がしない。
それなのに、別の女性が彰吾との家庭を想像したことが、なぜか面白くなかった。
「じゃあ、また明日」
分かれ道で手を振り、香織は一人で家へ向かう。
帰宅してからも、紗季の言葉が頭から離れなかった。
――香織さんが羨ましい。
本当に、自分は羨ましがられるような妻なのだろうか。
◇
夜になり、彰吾が帰宅した。
玄関を開けるなり、ネクタイを緩めながら尋ねる。
「幼稚園から連絡は?」
「まだ来てない」
「本当に泊まれるのかな」
「まだ始まったばかりでしょ」
彰吾は落ち着かない様子で、テーブルに置かれた香織のスマートフォンを見る。
「連絡が来たら、すぐ教えてくれよ」
「分かってるって」
夕食には、焼き魚と煮物が並んでいた。
彰吾は席に着き、少し驚いた顔をする。
「焼き魚なんて久しぶりだね」
「マリアがいたら、絶対に食べてくれないからね」
「ありがとう。俺が好きなの、覚えてたんだ」
香織は何も答えず、ご飯をよそった。
二人で向かい合って食事を始める。
マリアのいない食卓は、妙に広く感じられた。
いつもなら、食べ物をこぼした、野菜を残した、口に入れたまま話すなと、何かしら声をかけている。
今夜は、驚くほど静かだった。
「それにしても、もう六歳か」
彰吾は、棚に飾られたマリアの誕生日写真を眺めた。
「あっという間だったね」
「今でも、生まれた日のことははっきり覚えてるよ」
「本当に?」
「香織の陣痛が始まっても、なかなか生まれなくてさ」
「結局、四十八時間もかかったんだよね」
香織が懐かしそうに笑う。
「出産って、すごく痛かったはずなのに、もう痛みは思い出せないんだよな」
「えっ? あのときのこと覚えてないの?」
「何が?」
「俺が腰をマッサージしてたら、『お前じゃ無理だから看護師呼んでこい!』って怒鳴ったじゃん」
「嘘。全然覚えてない」
彰吾は声を上げて笑った。
「ずっと病院の外は大雨だったのに、マリアが生まれてから窓を見たら、晴れ間が差してたんだよな」
彰吾は目を細める。
「あの光景は、一生忘れないかも」
香織はしばらく彰吾を見つめたあと、立ち上がった。
キッチンから缶ビールを二本持ってくる。
「飲む?」
「飲みたいけど、幼稚園から連絡が来るかもしれないからな」
彰吾は少し考え、香織を見る。
「どう思う?」
「たぶん、帰ってくると思う」
「だよなあ」
彰吾は苦笑し、缶ビールを開けた。
「今日はマリアを信じてみるか」
「そうね」
香織も缶を開け、二人で軽く合わせた。
◇
深夜0時。
テーブルの上に置かれたスマートフォンが鳴った。
彰吾が慌てて電話に出た。
「はい」
『マリアちゃん、アウトです』
先生の疲れた声が聞こえた。
「分かりました。すぐ迎えに行きます」
電話を切り、彰吾は香織へ向かって首を振った。
「やっぱり駄目だった」
「タクシーで行くの?」
「いや。歩いていくよ」
彰吾が玄関で靴を履いていると、香織も上着を羽織った。
「香織は家にいていいよ」
「私も行く」
「一人で大丈夫だよ」
彰吾が玄関のドアを開ける。
香織はその後ろから外へ出てきた。
「一人じゃ寂しいでしょ」
彰吾は少し驚いた顔をする。
二人は並んで、夜の住宅街を歩き始めた。
しばらく進んだところで、香織が彰吾の手を握った。
彰吾は驚いて足を止める。
「どうしたの、急に」
香織は前を向いたまま答えた。
「別に。いつも三人で手をつないでるじゃない」
「そうだけど」
「今は、間にマリアがいないだけ」
香織は照れたように笑った。
彰吾も小さく笑い、その手を握り返す。
二人は手をつないだまま、マリアの待つ幼稚園へ向かった。




