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お泊まり保育

幼稚園のお泊まり保育の日。


年長組の園児たちは、昼から翌朝まで幼稚園で過ごす。


先生の話では、毎年二割ほどの子が寂しさに耐えられず、夜中に迎えを呼ぶらしい。


彰吾は外せない会議があり、マリアを見送ることができなかった。


朝、玄関でマリアの前にしゃがむ。


「無理しなくていいんだぞ。寂しくなったら、すぐ帰っておいで」


彰吾は、今にも泣きそうな顔で言った。


「何言ってるの、パパ。マリア、もう六歳なんだよ!」


マリアは自信満々に胸を張る。


「いやいや。六歳で外泊なんて、まだ早いよ」


「絶対に大丈夫だから。心配しないで」


香織が呆れた顔で口を挟む。


「もう。マリアが弱気になるようなこと言わないの」


彰吾は後ろ髪を引かれる思いで、会社へ向かった。


「絶対に帰ってこないからね!」


背後からマリアの声が飛んでくる。


彰吾は振り返り、大きく手を振った。


「分かった。楽しんでこい!」



昼過ぎ。


香織はマリアを幼稚園まで送っていった。


園庭には、大きな荷物を持った園児と保護者が集まっている。


子どもたちは楽しそうに走り回り、その横で親たちが名残惜しそうに写真を撮っていた。


アイリとリンカの母親が、手を振りながら近づいてくる。


香織も笑顔で手を振り返した。


「今日は彰吾さん、来ないの?」


「うん。会社で外せない会議があるんだって」


「そうなんだ。残念」


「彰吾に何か用があった?」


「この前、マリアちゃんがしてた髪形を教えてもらおうと思ってたの」


アイリの母親が残念そうに言った。


「そうなんだ……」


香織は少し驚きながら答える。


その後も、ほかのママ友や幼稚園の先生から声をかけられた。


しかし、話題に出るのはどれも彰吾のことだった。


「演劇会のセット、すごかったですよね。うちの主人も、また声をかけてほしいって言ってました」


「うちの子、彰吾さんにかけっこのコツを教えてもらってから、すごく速くなったんですよ」


「今度、園のお便りをデータ化できないか、彰吾さんに聞いてもらえますか?」


香織は笑顔で頷いていた。


それなのに、自分の居場所が少しずつなくなっていくような気がした。


胸の奥に、わずかな寂しさが残る。


以前なら、マリアのことは何でも香織へ尋ねられた。


誰と仲がいいのか。


家では何をして遊んでいるのか。


誰も彰吾のことなど、ほとんど知らなかったのに。


「香織さん」


後ろから声をかけられた。


振り返ると、リオンの母親・紗季が立っている。


「よかったら、一緒に帰りませんか?」


「ええ、ぜひ」



リオンもマリアと同じ年長組で、今夜は幼稚園へ泊まる。


「今夜は静かになりますね」


紗季が笑った。


「静かすぎて、逆に落ち着かなさそう」


「分かります。いつもいる子どもがいないと、何をしていいのか分からなくなりますよね」


二人で歩きながら、香織は以前から気になっていたことを尋ねた。


「紗季さんは、再婚とか考えないの?」


紗季は少し考え、首を横に振る。


「今のところは、あまり」


「それだけ美人なら、声をかけてくる人もいるでしょ?」


紗季は困ったように笑った。


「私を好きになってくれるだけじゃ、駄目なんです」


前を向いたまま、静かに続ける。


「リオンのことまで、自分の子どもみたいに大切にしてくれる人じゃないと」


「そうなんだ。なかなかいないよね」


「そうですね」


紗季は少し笑い、香織を見た。


「彰吾さんみたいな人なら、私もリオンも幸せになれたかもしれませんけど」


香織の足が、わずかに止まった。


「彰吾が?」


「自分の大切なものを、誰よりも先に守ろうとする人じゃないですか」


紗季は、先日の帰り道を思い出したように目を細める。


「リオンが彰吾さんの手を握ったのも、何か感じたのかもしれません」


そして、少し笑った。


「だから、マリアちゃんも香織さんも羨ましいです」


香織は、うまく返事ができなかった。


彰吾を褒められたことは、悪い気がしない。


それなのに、別の女性が彰吾との家庭を想像したことが、なぜか面白くなかった。


「じゃあ、また明日」


分かれ道で手を振り、香織は一人で家へ向かう。


帰宅してからも、紗季の言葉が頭から離れなかった。


――香織さんが羨ましい。


本当に、自分は羨ましがられるような妻なのだろうか。



夜になり、彰吾が帰宅した。


玄関を開けるなり、ネクタイを緩めながら尋ねる。


「幼稚園から連絡は?」


「まだ来てない」


「本当に泊まれるのかな」


「まだ始まったばかりでしょ」


彰吾は落ち着かない様子で、テーブルに置かれた香織のスマートフォンを見る。


「連絡が来たら、すぐ教えてくれよ」


「分かってるって」


夕食には、焼き魚と煮物が並んでいた。


彰吾は席に着き、少し驚いた顔をする。


「焼き魚なんて久しぶりだね」


「マリアがいたら、絶対に食べてくれないからね」


「ありがとう。俺が好きなの、覚えてたんだ」


香織は何も答えず、ご飯をよそった。


二人で向かい合って食事を始める。


マリアのいない食卓は、妙に広く感じられた。


いつもなら、食べ物をこぼした、野菜を残した、口に入れたまま話すなと、何かしら声をかけている。


今夜は、驚くほど静かだった。


「それにしても、もう六歳か」


彰吾は、棚に飾られたマリアの誕生日写真を眺めた。


「あっという間だったね」


「今でも、生まれた日のことははっきり覚えてるよ」


「本当に?」


「香織の陣痛が始まっても、なかなか生まれなくてさ」


「結局、四十八時間もかかったんだよね」


香織が懐かしそうに笑う。


「出産って、すごく痛かったはずなのに、もう痛みは思い出せないんだよな」


「えっ? あのときのこと覚えてないの?」


「何が?」


「俺が腰をマッサージしてたら、『お前じゃ無理だから看護師呼んでこい!』って怒鳴ったじゃん」


「嘘。全然覚えてない」


彰吾は声を上げて笑った。


「ずっと病院の外は大雨だったのに、マリアが生まれてから窓を見たら、晴れ間が差してたんだよな」


彰吾は目を細める。


「あの光景は、一生忘れないかも」


香織はしばらく彰吾を見つめたあと、立ち上がった。


キッチンから缶ビールを二本持ってくる。


「飲む?」


「飲みたいけど、幼稚園から連絡が来るかもしれないからな」


彰吾は少し考え、香織を見る。


「どう思う?」


「たぶん、帰ってくると思う」


「だよなあ」


彰吾は苦笑し、缶ビールを開けた。


「今日はマリアを信じてみるか」


「そうね」


香織も缶を開け、二人で軽く合わせた。



深夜0時。


テーブルの上に置かれたスマートフォンが鳴った。


彰吾が慌てて電話に出た。


「はい」


『マリアちゃん、アウトです』


先生の疲れた声が聞こえた。


「分かりました。すぐ迎えに行きます」


電話を切り、彰吾は香織へ向かって首を振った。


「やっぱり駄目だった」


「タクシーで行くの?」


「いや。歩いていくよ」


彰吾が玄関で靴を履いていると、香織も上着を羽織った。


「香織は家にいていいよ」


「私も行く」


「一人で大丈夫だよ」


彰吾が玄関のドアを開ける。


香織はその後ろから外へ出てきた。


「一人じゃ寂しいでしょ」


彰吾は少し驚いた顔をする。


二人は並んで、夜の住宅街を歩き始めた。


しばらく進んだところで、香織が彰吾の手を握った。


彰吾は驚いて足を止める。


「どうしたの、急に」


香織は前を向いたまま答えた。


「別に。いつも三人で手をつないでるじゃない」


「そうだけど」


「今は、間にマリアがいないだけ」


香織は照れたように笑った。


彰吾も小さく笑い、その手を握り返す。


二人は手をつないだまま、マリアの待つ幼稚園へ向かった。


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