エピローグ
一か月後。
アメリカへ出発する日がやってきた。
リビングには、大きなスーツケースが二つ並んでいる。
彰吾が荷物を確認する横で、マリアは小さなリュックを背負い、部屋の中を落ち着きなく歩き回っていた。
「パパ、これも持っていっていい?」
マリアが大きなぬいぐるみを持ち上げる。
「いや、もう入らないよ。昨日選んだやつだけにして」
「えー。持っていきたい」
そのとき、玄関の扉が開いた。
「ただいま。酔い止め買ってきたよ」
香織が買い物から戻ってくる。
「おかえり」
以前のような刺々しさはない。
二人は、普通に言葉を交わせるようになっていた。
香織はスーツケースの横へしゃがみ、マリアの服が入っている袋を確認する。
「下着、ちゃんと入れた?」
「入れたよ」
「羽織るものもある?」
「あるよ」
香織が彰吾を見る。
「薬は、すぐ出せる場所に入れてね」
「分かってるって」
彰吾は笑いながら答えた。
香織は、持ってきた袋をスーツケースへ押し込む。
周囲を見回したあと、声を落とした。
「ねえ」
「ん?」
「離婚届は、どうしたらいいの?」
彰吾は荷物から手を離す。
「帰国してからでいいだろ」
「一年後?」
「ああ。今はまだ、出す必要もない」
香織は頷いた。
「分かった」
そこへ、再び玄関の扉が開く。
「こんちはー」
大きなあくびをしながら、コウスケが入ってきた。
彰吾の表情がわずかに曇る。
香織は彰吾のそばへ寄った。
「荷物の手伝いもあるから、呼んだの。ごめんね」
「大丈夫だよ」
コウスケは大きなボストンバッグを床へ置き、二人の空気を気にすることなくリビングへ入ってくる。
「まだ行かないの?」
「もう少しだから」
「じゃあ、待ってるね」
そう言ってソファへ座り、スマートフォンを取り出した。
準備が終わると、香織はマリアの前へしゃがむ。
「マリア」
「うん」
娘の肩に手を置く。
「パパの言うこと、ちゃんと聞いてね」
「うん」
「お友達をたくさん作って、学校のことも電話で教えて」
「毎日電話する」
香織は笑おうとした。
しかし、うまく笑えない。
「ママも電話するからね」
「うん」
香織はポケットから、小さな人形を取り出した。
手のひらに収まるほどの、古いウサギの人形。
「これ、ママが子どものころに持ってたの」
マリアが受け取る。
「ママの?」
「寂しくなったら、持ってて」
マリアは人形を胸へ抱いた。
「ママも寂しくなったらどうするの?」
香織の唇が震える。
「ママは大人だから、大丈夫」
マリアは何も言わず、香織へ抱きついた。
香織も強く娘を抱き締める。
二人とも泣くのを我慢していた。
それでも、涙は止まらなかった。
ソファでは、コウスケが退屈そうにスマートフォンを眺めている。
彰吾は後ろから、その姿をしばらく見つめていた。
やがてコウスケへ近づく。
「なあ、ちょっといいか」
「ん?」
「車だけど、帰国するまで好きに使ってくれていい」
コウスケはすぐに顔を上げる。
「マジで? あの車?」
「ああ。後でキーを渡す」
「助かるわ。ありがとね」
嬉しそうに笑うコウスケへ、彰吾が顔を近づけた。
香織には聞こえない声で尋ねる。
「香織と結婚するつもりはあるのか?」
コウスケは一瞬だけ目を丸くした。
「結婚かあ……。俺さ、実は年下の方が好きなんだよね」
にやけながら答える。
「そうか……」
彰吾は、それ以上何も言わない。
コウスケは再びスマートフォンへ視線を戻した。
「まあ、しばらくはここで世話になるけどね」
彰吾は黙ってコウスケを見つめる。
やがてコウスケが立ち上がった。
「なんか長くなりそうだな。トイレ借りるわ」
そのまま廊下へ向かう。
彰吾は、テーブルに残されたスマートフォンをちらりと見た。
続いて、廊下へ出る。
コウスケがトイレへ入り、扉が閉まった。
彰吾は無言のまま、壁に立てかけられていたマリアの室内滑り台の段ボール箱へ手をかける。
バタンという音。
倒れた段ボール箱が、トイレの扉と壁の間へ挟まった。
彰吾は位置を少しだけ調整する。
それから、何食わぬ顔でリビングへ戻った。
◇
「そろそろ時間だよ」
彰吾の言葉に、香織がマリアから離れる。
「もう行くの?」
「うん。電車が遅れたら間に合わなくなるから」
三人は玄関へ向かった。
そのとき、廊下の奥から音が聞こえる。
ドン。
ドン。
「おい。開けてくれ」
コウスケの声だった。
香織は不思議そうにトイレへ近寄る。
「どうしたの?」
「ドアが開かないんだよ」
香織がドアの下を見る。
ドアと壁の間に、大きな段ボール箱が挟まっていた。
「ああ、これのせいね」
段ボール箱を取ろうと、香織が手を伸ばす。
「ママー!」
「ちょっと来て!」
玄関から、マリアと彰吾の大きな声が聞こえた。
香織は段ボール箱から手を離し、玄関へ戻る。
「どうしたの?」
マリアが一枚の紙を両手で持っていた。
「これ」
香織が受け取る。
航空券だった。
そこには、香織の名前が書かれている。
「ママの飛行機のチケットだよ」
香織は何度も名前を確認した。
それから彰吾を見る。
彰吾は笑っていた。
「もう時間がないよ。一緒に行くかどうか、すぐ決めて」
「どうして……」
香織が口元を押さえる。
彰吾は上着のポケットから、三人のパスポートを出して見せた。
「ほら。どうする?」
マリアが香織の手をぎゅっと握る。
ドン、ドン、ドン。
トイレの扉を叩く音が聞こえた。
香織は一度だけ、廊下の奥を振り返る。
それから、マリアの手を握り返した。
「行くに決まってるじゃない!」
香織は笑いながら、二人をまとめて抱き締めた。
マリアが嬉しそうな声を上げる。
「やばい! 本当に時間がない!」
三人は慌てて家を飛び出す。
最後に香織が玄関の鍵を閉めた。
◇
その夜。
真っ暗で、外の様子すら分からないトイレの中。
扉を叩く音だけが、誰もいない家に響いていた。
ドン。
ドン。
「なあ、開けてくれよ」
返事はない。
「ドッキリなんだろ?」
ドン。
ドン。
「本当は、誰かいるんだろ?」
コウスケの声が、少しずつ弱くなる。
「頼むから、開けてくれよ……」
「なあ……もしかして、マジで誰もいないのか……?」
泣きそうな声が、暗い家の中へ消えていった。
◇
飛行機の中。
窓側にマリア。
中央に彰吾。
通路側に香織が座っている。
マリアと香織は、左右から彰吾へ寄りかかるように眠っていた。
客室乗務員が、彰吾へ毛布を差し出す。
「よろしければ、お使いください」
「どうもありがとう」
彰吾は毛布を受け取った。
その瞬間、彰吾は目を大きく見開く。
「あっ、しまった!」
客室乗務員が驚いて振り返る。
「どうかなさいましたか?」
「コウスケに、車のキーを渡すの忘れてた」
「……そうですか」
事情が分からず、客室乗務員は困ったように笑う。
彰吾は少し考えた。
「まあ、いいか」
窓の外には、雲が広がっている。
彰吾は目を閉じ、眠る二人へ体を預けた。
もう、日本に忘れたものは何もなかった。
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妻が浮気してたの忘れてた【完】




