夫婦喧嘩
数か月がたった。
クリスマスの一件から、マリアは以前より彰吾に甘えるようになっていた。
三人でデパートへ出かけた帰り。
重い買い物袋を持ち、屋上の駐車場へ向かっている途中で、マリアがぐずり始めた。
「やっぱり、水色がよかった」
彰吾と香織が振り返る。
先ほどまで、香織と子ども服を選んでいた。その話らしい。
「何言ってるの。マリアがピンクがいいって言ったんでしょ」
「でも、水色の方が欲しくなっちゃったの」
「いつもそうじゃない。自分で決めたあとに、やっぱり嫌だって」
香織の声が少しずつ強くなる。
「今日はピンクで我慢しなさい」
「じゃあ、いらない。そんなの捨てる!」
マリアも負けずに声を上げた。
「交換しに戻る?」
彰吾が少し離れた場所から言う。
「今から戻ったら、またレジに並び直しじゃない。冗談じゃないわ」
「もうやなの!」
マリアの目に涙が浮かぶ。
香織が、買った服を取り出してマリアの足元に投げつける。
「ふざけんな! だったら、お前が変えてこい!」
香織自身も、口にした直後に息を呑んだ。
それでも謝れず、険しい顔のまま立っている。
マリアが声を上げて泣き出す。
「おい、やめろよ」
彰吾が二人の間へ入った。
香織は彰吾を睨んだあと、何も言わず車へ向かう。
彰吾は床に落ちた服を拾い、マリアの頭をなでた。
「大丈夫。帰ろうな」
マリアを後部座席へ乗せ、彰吾は無言で車を出した。
◇
家に着くまで、誰も口を開かなかった。
マリアを子ども部屋で遊ばせ、彰吾と香織は買ってきた物を片づける。
彰吾が低い声で言った。
「なあ。さっきのは、さすがにないんじゃないか?」
香織が手を止める。
「何が?」
「マリアへの態度だよ。あんな言い方しなくてもいいだろ」
「あのくらい大したことないわよ。何でも子どもの言うとおりにはできないから」
「言うことを聞くかどうかじゃない。服を投げつけて、泣かせる必要はなかっただろ」
「私だってストレスがたまってるの!」
彰吾は香織の正面へ立った。
今までなら、香織の怒りが冷めるまで放っておいた。
今日は引けなかった。
「お前のストレスをマリアにぶつけるなよ!」
「ぶつけてない」
「じゃあ、さっきのは何なんだよ。マリアまで同じ言葉遣いをするようになったら、どうするんだ」
香織の表情が変わる。
「あのさ。一年もたたないうちに、子育てを分かったような顔しないでくれる?」
「分かった気になんかなってない」
「私は、あんたがいない間、五年間ずっと一人で育ててきたの」
「俺だって、遊んでたわけじゃないだろ」
「仕事を理由にして、全部私に任せてたじゃない」
「でも、お前は専業主婦だろ! 共働きの家だって、みんな子育てしてるじゃないか」
口にした瞬間、言いすぎたと思った。
香織の顔から表情が消える。
「だったら、あんたが全部やればいいでしょ!」
香織は持っていた買い物袋を床へ放り出した。
中身が大きな音を立てて散らばる。
彰吾と香織は、これまで大きな喧嘩をしたことがなかった。
どちらも感情を抑え、言わなくていいことは飲み込んできた。
本音を出せば、夫婦関係が壊れると分かっていたからだ。
だが今は、二人とも引こうとしない。
「パパ、ママ……やめて」
小さな声が聞こえた。
二人が振り返る。
キッチンの入り口に、マリアが立っていた。
怒鳴り声を聞き、二階から下りてきたらしい。
「ごめんなさい」
大粒の涙が、マリアの頬を流れる。
「マリアが水色がいいって言ったからでしょ。マリアが謝るから、喧嘩しないで」
彰吾は言葉を失った。
自分はマリアのために怒っていたはずだった。
それなのに、マリアは自分のせいだと思っている。
彰吾はすぐにマリアのそばへ行き、強く抱きしめた。
「そんなことない。マリアは何も悪くないよ」
「ほんとう?」
「うん。パパとママが勝手に喧嘩しただけ。ごめんな」
彰吾は無理に笑顔を作る。
「もう怒ってないから、大丈夫」
マリアは涙を拭きながら、香織を見た。
香織は何も言わず、顔をそらす。
そして、二人の横を通り過ぎ、キッチンから出ていった。
マリアはその後ろ姿を、不安そうに見つめていた。
◇
彰吾は、香織が床へ放り出した食材を一つずつ拾っていった。
――だったら、あんたが全部やれ。
さっき言われた言葉が、頭に残っている。
確かに、彰吾がすべてを一人でやっているわけではない。
仕事へ行っている間は、香織がマリアの面倒を見ている。洗濯も掃除も、気づけば終わっていることが多い。
他人から見れば、今でも半分ずつくらいなのかもしれない。
彰吾は夕食を作り、マリアと二人で食べた。
それでも香織は、寝室から出てこなかった。
◇
マリアを寝かせたあと、彰吾は寝室のドアをノックした。
返事はない。
中へ入ると、香織はベッドにうつ伏せになっていた。
「さっきは悪かった」
「何が?」
「専業主婦なんだからって言ったこと。五年間、ほとんど任せっきりだった俺が言っていいことじゃなかった」
香織は枕に顔を伏せたまま、何も言わない。
「分かったような気になってた。ごめん」
彰吾は返事を待ったが、香織は黙ったままだった。
諦めて寝室を出ようとする。
「ねえ」
彰吾が振り返る。
「私のこと、どう思ってる?」
彰吾は答えられなかった。
大学時代から付き合ってきた恋人。
マリアの母親。
そして、自分を裏切っている妻。
どれも今の香織だった。
彰吾が視線を落としていると、開いたドアからマリアが顔を出した。
「おばさんだと思ってる」
香織が勢いよく起き上がり、枕を投げた。
飛んできた枕が彰吾の顔へ直撃した。
「いてっ!」
マリアは笑いながら廊下へ逃げていく。
「待ちなさい、マリア!」
香織もそのあとを追った。
家の中に、マリアの笑い声が響く。
◇
しばらくして、香織がキッチンへ戻ってきた。
「カレー、食べる?」
彰吾が聞く。
香織は黙って頷き、食べ始めた。
結局、香織から謝罪の言葉はなかった。
それでも、皿に残ったルーまできれいに食べる。
「ごちそうさま」
それだけだった。
だが、彰吾は少しだけ気持ちが軽くなった。
まだ、俺たちは家族だ。
しかし、夫婦なのかと聞かれたら、どうなのだろう。
その問いへの答えだけは、見つからなかった。




