マリアの手
クリスマスイブの夜。
リビングには、小さなクリスマスツリーが飾られていた。
天井の照明を少し暗くし、ツリーに巻かれた電飾だけを光らせている。
テーブルには、香織が用意したローストチキンとサラダ。
彰吾が仕事帰りに受け取ってきたケーキも並んでいた。
「メリークリスマス!」
マリアがシャンメリーの入ったグラスを持ち上げる。
「メリークリスマス」
彰吾と香織も、それぞれのグラスをそっと合わせた。
三人で夕食を囲む。
半年前まで、彰吾がこの時間に家にいることなどほとんどなかった。
仕事を終えて帰宅する頃には、マリアはいつも眠っていた。
起きているマリアに会えるのは、朝の身支度と、たまの休日くらいだった。
去年のクリスマスも、香織が撮影した動画をあとから見ただけ。
「マリアは、サンタさんに何をお願いしたの?」
彰吾がスマートフォンで撮影しながら聞いた。
「うふふ。ないしょ」
「魔法のステッキじゃないの?」
彰吾が笑いながら尋ねる。
「それもいいんだけどね……」
――えっ、違うの?
彰吾は焦った。
手紙には、確かに『まほうのすてっき』と書いてあったはずだ。
「いっぱいのグミもいいな」
「そっか」
あとで、こっそりコンビニへ買いに行こう。
彰吾はそう決めた。
マリアがショートケーキの苺を食べ終えると、彰吾は自分の苺を皿へ置いてやる。
何も言わず、香織も同じようにした。
親になった時点で、苺は食べられないものと思った方がいい。
しかし、マリアは二つの苺へ手を伸ばさなかった。
「どうした? 苺、食べないの?」
「うん。おなかいっぱい」
「珍しいな」
彰吾が額へ手を当てようとすると、マリアは嫌がるように顔をそらした。
「マリア、眠い」
マリアは小さな声でそう言った。
彰吾は、香織を見る。
「なんか、調子わるそうじゃないか?」
香織は、食器を片付けている。
「うーん。昨日から興奮して寝れなかったからかな」
「ちょっと、気になるな。少し寝かせようか」
彰吾はマリアを抱き上げ、ソファに寝かせた。
念のため体温を測った。
「いくつ?」香織が聞いてくる。
体温は三十七度一分。
微熱というほどでもない。
しかし、あれだけ好きだった苺を食べなかったことが気になる。
「少し寝かせれば、大丈夫でしょ」
「うん…」
彰吾は、マリアをパジャマに着替えさせて毛布をかけた。
◇
一時間ほどがたった。
マリアはまだソファで眠っていた。
その横で、香織がスマートフォンを確認していた。
画面を見たあと、何気ない口調で言う。
「マリアも寝てるし、ちょっと出てくるね」
彰吾が顔を向ける。
「今から?」
「うん、ママ友にクリスマスプレゼント渡す約束してて」
「ママ友ってだれ?」
幼稚園関係のママ友なら、彰吾もほとんど顔と名前を知っている。
わずかな間が空いた。
「彰吾の知らない人。赤ちゃんサークルのときの人」
そう言って、香織はソファから立ち上がる。
「明日じゃ駄目なの?」
「そんなに時間かからないから」
「せめて、マリアが起きるまで待てない?」
「三十七度一分でしょ。平熱みたいなものよ」
香織はすでに上着を手にしていた。
――あの男に会うのか。
今日だけは行くなと言いたかった。
しかし迷っている間に、香織は家を出て行ってしまった。
◇
彰吾は、クローゼットに隠してあるクリスマスプレゼントを確認した。
それからソファへ戻り、マリアの様子を見る。
頬が先ほどより赤い。
呼吸も荒くなっていた。
彰吾は慌てて熱を測る。
三十九度二分。
「嘘だろ……」
さっきまで三十七度台だった。
「マリア。マリア、大丈夫か?」
彰吾が声をかける。
「うん……」
マリアは少しだけ目を開け、小さな声を出した。
「病院に連れていかなきゃ」
すぐに救急相談へ電話をかけ、症状を伝える。
高熱。
反応が鈍い。
呼吸が速い。
電話口の指示を聞きながら、彰吾は必要な物をバッグへ詰めた。
子ども医療証。
母子手帳。
お薬手帳。
飲み物。
マリアを起こし、パジャマの上から赤いコートを着せる。
そのままバッグとマリアを抱え、外へ飛び出した。
車に乗り、教えられた夜間救急病院の場所を確認して発進する。
スマートフォンをホルダーへ差し、香織へ電話をかけた。
一コール。
二コール。
三コール。
四コール。
電話は出ることなく切られた。
再び発信する。
今度は二コール目で切られる。
「なんで出ないんだよ!」
彰吾はハンドルを強く叩いた。
気づいていないのではない。
香織は、着信を見て切っている。
『マリアの熱が上がった。これから夜間救急病院へ連れていく』
電話を諦め、メッセージを送った。
バックミラーで後部座席を見る。
マリアはぐったりして、頭を前に垂らしていた。
彰吾は信号待ちのたびに振り返り、身体の位置を直した。
「マリア、パパの声聞こえる?」
マリアが少しだけ目を開ける。
「サンタさん……」
それだけ言って、また目を閉じた。
「大丈夫。サンタさん、きっと来るから」
信号が青に変わる。
彰吾はアクセルを踏んだ。
目から涙がこぼれた。
◇
夜間救急病院へ到着した。
彰吾はマリアを抱き上げ、受付へ走る。
「もう病院に着いたから。大丈夫だからな」
声をかけても、マリアは反応せず、浅い呼吸を繰り返していた。
看護師へ状況を伝えると、すぐに診察室へ案内される。
検査を受け、点滴が始まった。
待っている間にスマートフォンを見る。
香織へ送ったメッセージには、まだ既読がついていない。
彰吾はスマートフォンをポケットへ戻した。
しばらくして、医師から命に関わる状態ではないと説明された。
急な発熱と脱水で、呼びかけへの反応が鈍くなっていたらしい。
大事には至らなかった。
その言葉を聞いた瞬間、彰吾は椅子へ深く座り込んだ。
膝に力が入らない。
ベッドでは、マリアが目を閉じている。
小さな手には、点滴の管がつながっていた。
彰吾はその手を握る。
「よかった……」
点滴が終わる頃には熱も少し下がり、呼びかけにもはっきり答えられるようになった。
医師から自宅で様子を見るよう告げられ、彰吾はマリアを連れて帰った。
自宅へ着いてマリアを寝かせても、香織から連絡はない。
結局、返信があったのは、病院から戻ってマリアを寝かせたあとの深夜0時だった。
『ごめん。今気づいた。マリア大丈夫?』
スマホを睨みつける。
『もう病院から帰ってきた。気にしなくていい』
それだけ返し、スマートフォンの電源を切った。
◇
彰吾はクリスマスツリーの下に、魔法のステッキを置いた。
それからマリアの部屋へ戻り、薄暗い部屋で寝顔を見守る。
しばらくして、家の前に車が止まった。
玄関の扉が開き、階段を駆け上がる音がする。
香織が子ども部屋へ飛び込んできた。
「ごめんね! メッセージに気づかなくて」
息を切らしながら言う。
――ふざけるな。
彰吾は立ち上がり、香織の胸ぐらをつかみそうになった。
熱のある娘を置いて、クリスマスの夜にあの男と会っていたに違いない。
電話には気づいていたはず。
それでも、帰ってこなかった。
香織は彰吾の横を通り、マリアの額をなでる。
その手の感触に、マリアがゆっくり目を開けた。
「あれ、ママ……おかえり」
「ごめんね、マリア。ママ、ここにいるよ」
彰吾は目を閉じた。
香織の顔を見れば、抑えられなくなりそうだった。
「私が代わるから」
香織が言う。
彰吾は黙って立ち上がろうとした。
そのとき、マリアが彰吾の手をつかんだ。
「……パパがいい」
彰吾は目を見開く。
それから、握られた小さな手を両手で包み込んだ。
マリアが、母親より父親を選んだ初めての日だった。




