第三話 名前
それから数日が経過した。
「殿下。殿下のあだ名候補を考えてきたんですけどどれがいいですか」
よく晴れた日の午後。王太子の私室でソファに腰掛け、書物を読んでいた王太子に、ユミルが一枚の紙を差し出した。
その紙を受け取って、王太子は紙面に目を走らせ、胡乱な目つきになった。
「……待て」
「はい」
「なんだ、この、ペットの名前のようなあだ名は」
「ペットの名前です」
きっぱりと答えたユミルに王太子の目が怪訝なものになる。
「は?」
「孤……うちの庭にいた、ペットの名前を選んできました」
危ない危ない。孤児院って言うところだった。
ペットって言うか、飼ってないのに勝手に庭にいた鳥とかうさぎとかの名前なんだけど。
「カァ、チョビ、ミィ…………」
「あ、駄目ですか」
「むしろなぜ大丈夫だと思った?」
「すみません。うちの人間、みんなネーミングセンスが死んでて」
うちっていうか、あの孤児院の子どもたちだけど。自分含む。
内心を隠して答えたら、王太子はなんとも言えない間の後、顔を手で覆う。
「……知らなかったな。非の打ち所がない宰相だと思っていたが、ネーミングセンスがこんなだったとは」
あ、要らん濡れ衣着せてしまった。これ大丈夫かな。
まあ、魔法契約に影響しなきゃいいか。あの人、人を孤児と言う割に人道に反した扱いをしないんだよな。まあ、目的のためかもしれないけど。
「却下だ」
「却下ですか」
「むしろなぜいけると思った?」
「案外いけなくて残念です」
「正直に言うな」
正直に答えると、王太子がげんなりした顔でツッコんだ。
「すみません。じゃあ考え直して来ます」
「そうしてくれ……。ペットの名はなしだ」
「はい」
素直に頷いたユミルは、不意に王太子が自分をじっと見つめていることに気づく。
「なんでしょう?」
「お前は?」
「はい?」
主語のない問いに、ユミルはきょとんとしてしまう。
「お前の名は、誰が名付けた」
その言葉に、ユミルは胸が締め付けられるのを感じた。
リュイシュン、という偽名はジドールが名付けた。
だけど、ユミルという名前をつけてくれたのは、グレイだった。
孤児院に来たばかりの頃、自分には名前がなくて、またひどく荒んで世界に絶望していた。
そんな自分に手を差し伸べ、欲も打算もない笑顔を見せてくれた。
『じゃあ、君はユミルだ』
そう、自分に名前をつけてくれた。
あのときの喜びを、どう表せばいい。
思わず泣きそうになって堪えると、王太子が目を瞬いた。
「どうした?」
「……いえ、その、……名前を、もらった時を、思い出してしまって」
「もらった時?」
切れ切れの涙声で答えたユミルに、王太子は疑問を呈する。
名前は、生まれた時につけられるものではないか、という意味だろう。
「……その、僕は生まれ育った家ではあまりいい暮らしをしていなくて、名前も、その、好きなものではなくて」
自分はジドールの遠縁の子ということになっているから、不自然ではないはずだ。
ローゼンベルク公爵家の血を引く家は様々で、末端には男爵家もある。
「父上に引き取っていただいた時に、この名をいただいたんです。
そのときのことを、思い出しました」
「……そうか。その名は、お前にとって良い名なんだな」
わずかに和らいだまなざしを向けられて、どうにか誤魔化せたとホッとする。
「だから、もったいないですよ」
「もったいない?」
「自分の名前を呼んでもらうのって、自分の存在を肯定してもらうことなんです。
だから、名前を呼んでもらえないのは、もったいないです」
胸に手を当てて告げると、王太子がその碧眼を見開く。
さながらなにかに見惚れたように、一杯に。
「……お前は、強いな」
なにを思ったのだろう。そう零して、王太子は視線を逸らした。
「聞いたよお前。殿下にあだ名をつけるつもりだって?」
その日の午後、王宮にある宰相の執務室を訪れたユミルに、開口一番ジドールが愉快そうに言った。
「駄目かよ」
「駄目じゃないけど、いい度胸してるね」
思わずムッとして返したら、ジドールは椅子に腰掛けたまま机を挟んで向かいに立つユミルを見上げた。
「普通に考えて王太子にあだ名つけるって、お前が公爵家の後継ってことにしてもとんだ不敬だよ?」
確かに、そうなのかもしれない。
だけど、あのままはなんか、嫌だ。
「だって、名前がないのは、なんか、……嫌じゃないか」
「嫌」
「僕は元々孤児なんで、親に愛されない孤独感は知ってるし」
目を瞠ってオウム返したジドールを見て、少し拗ねた顔をしながら答える。
「名前すらつけてもらえない寂しさは、知ってるつもりだから。
いや、王太子殿下は、僕たちみたいな孤児みたく、本当に名前がないって意味じゃないだろうけど」
「お前は、それをどういう意味だと受け取った?」
不意にジドールは机に腕を突いて、顔から笑みを消して聞いて来た。
「……なにか、理由があって名前を呼ばれたくない、あたりじゃないかと」
「ふむ。まああながち外れじゃない」
ジドールはその返答に、少し感心したような声で肯定した。
「そう。本当に名前がないわけじゃない。ただ、呼ばれてはいけない理由がある。
そんなところだ」
「でも思いつかないんだよ。王太子につけるような、格調高い名前」
「一から名付けようとするからわからなくなるんだ」
どうせ僕が孤児だから、と拗ねた心地になったユミルに、ジドールは馬鹿にするでなく柔らかな声で教える。
「昔の偉人の名前とか、そういうのから取ればいい。
この国や他国の歴史について、お前にはみっちり叩き込んだはずだぞ」
「……昔の偉人の名前」
揶揄うような口調ではない。だからこれは、優しい教示。
本当に変な男だ。
自分が殺したい仇なのに、そう知っているくせに、自分に知識を授けるときの言葉も表情もいつも真摯だ。
この男は、一体なにがしたいのだろう。
なぜ、ただの孤児だったグレイたちを殺したのだろう。
「ああ、戻って来たか」
ジドールの執務室を出て王太子の私室に戻ると、王太子は立ち上がっていた。
「ついてこい」
「どちらに?」
「剣の鍛錬だ」
王太子はそう答えて部屋を出る。その後をついて歩いた。
「まあ、俺の相手になってくれる奴なんていないだろうがな」
「それは、王太子殿下ですし」
「お前、……本当になにも知らないんだな」
「……?」
心底、と言った口調の王太子にユミルは首をかしげる。
王太子はそれ以上話す気はないのか、視線を前に戻した。
「それはいい。いっそローゼンベルク宰相にお相手願えればいいが、あの人は頑なに応じてくれないからな」
「言ってみましょうか?」
「うん?」
「父上に、王太子殿下が言ってましたよって」
疑問もなく口にしたユミルに、王太子は目をはちりと瞬かせてまたユミルを見る。
「お前、なんの迷いもなく言うな」
「なんの迷いもなく言いました」
「こう、遠慮とか、抵抗とかないのか?
父親とはいえ実親ではないのに、仮にもこの国の宰相に」
「いえ、全然」
だって、実際あいつはグレイたちの仇だし、遠慮なんてする気さらさらない。
「……嘘ではないみたいだな」
王太子は足を止め、ユミルの顔を見て確かめるように呟いた。
その言葉に嘘が一片もないことを感じ取ったらしい。
「……いいな。俺もお前のように振る舞えたらいいのに」
「……殿下?」
「いや、なんでもない」
不思議そうに呼んだユミルに、王太子はふる、と首を横に振って笑った。
そのまま王宮を出て、王立騎士団の鍛錬場まで歩く。
王太子が鍛錬場に足を踏み入れると、鍛錬場にいた騎士たちがざわめいた。
「で、殿下」
「試合の様子を見に来ただけだ。畏まらずとも良い」
「で、ですが」
ちょうど開けた場所で試合を行っているところだったようだ。
だがほかの騎士たちは、動揺を隠せないように王太子を見る。
「…………」
「も、申し訳……」
拒否の言葉を口にしようとした騎士は、王太子の視線に臆したように視線を逸らした。
なんだ?
畏まってるって言うより、……怯えてる?
そりゃあ、王太子殿下なんだから緊張するのは当然だと思うけど、それにしたってなんか、まるで殺されそうになったみたいな青ざめ方だぞ?
「困りますよ、殿下」
「ライ部隊長」
不意に軽薄そうな声が聞こえた。
王太子から離れた位置でにこりと笑ったのは体格の良い騎士だ。
「ほら、みんな緊張しているじゃないですか。
王太子殿下ともあろう御方が、こんなところに来たらいけませんよ」
なんだろう。笑っているのに、すごく嫌な感じだ。
こう、心の底から相手を馬鹿にしているような、そんな笑い方。
「なぜ来たらいけない?」
「そりゃあ、……みんな怖いですから。
わかるでしょう?」
ライ部隊長はわざとらしく周囲の騎士たちに視線を巡らせ、彼らが王太子と決して視線を合わせないのを確認してにたりと笑む。
「ご自覚くださいよ。
あなたの、お立場ってものを」
なんだろう。話の内容はよくわからないけど、あの男の言い方とか表情、本当に嫌な感じ。
それに王太子に意見するって言うのに跪きもしないで、かなりの距離を取って話しかけてる。
そういえば、ほかの騎士たちも一定距離から近寄ってこないな。
なんだ、一体。この、気味の悪い感じ。
「あっ!」
不意に試合を行っていた騎士が焦った声を上げる。
その振るっていた剣の先が折れている。
折れた刃先が王太子のほうに飛んでくるのが視認出来た。
「あ、」
その瞬間、あのジドールに執拗に丁寧に剣術を叩き込まれた身体が勝手に動く。だが間に合うかわからない。
思わず口を開ける。
「…っミィ!」
地面を蹴って跳んで、間に割って入ると自分の剣の鞘で弾き飛ばす。
「大丈夫ですか! 殿下!」
着地して王太子を振り返ったユミルに、周囲の騎士たちがどよめく。
ユミルの反射神経とその移動速度に驚嘆したのだ。
「お前、」
「はい、殿下」
不意に王太子が口を開く。鞘ごと抜き放った剣を腰に戻して、ユミルは王太子に向き直った。
そんなユミルを王太子はじっと見つめ、低い声で問う。
「今、俺を猫の名前で呼んだか……?」
「あ、」
言われて気づいて、ユミルは「しまった」と声を漏らす。
「猫?」「猫の名前?」「そういえば『ミィ!』って聞こえた」などと周囲の騎士たちもざわめいている。
あのライ部隊長は言葉を失っていた。
「す、すいません殿下が猫っぽいって意味じゃなくてですねこう咄嗟に反射的にと言いますか焦った結果であってその名前が似合ってるとかいう意味じゃなくて」
「ふっ」
慌てて弁解したユミルだったが、不意に王太子は堪えきれないという風に吹き出した。
「ふ、あははははは」
「で、殿下?」
「こ、この俺を猫の名前で呼ぼうなんて、そんな馬鹿は世界中探してもお前くらいだ」
「は、はあ……、誠に、申し訳……」
愉快そうに笑う王太子に、ユミルは「とりあえず許してもらえるのかな」と顔を引きつらせながら考える。
「まあ、邪魔をしたな。皆。
俺の新しい護衛騎士だが見ての通り、ローゼンベルク宰相の教え子でかなりの腕の持ち主だ。仲良くしてやれ。
行くぞ。リュイシュン」
「は、はい」
王太子は来た時と打って変わって、すがすがしい表情で騎士たちに言い、ユミルを促して王宮のほうに歩き出した。
「あ、あの、本当に怒ってないですか……?」
王宮までの道を歩きながら、ユミルが恐る恐る話しかけたが、王太子の返事はない。
「……殿下?」
「いや、少し、思い返していた」
やっと返ってきた声は、どこか安堵したような響きだ。
「甚だ不本意な名ではあったが、……誰かに『俺』と認識した上で名を呼ばれたのは、随分久しぶりだったと。
うん、悪い心地ではない」
そう呟いた王太子の口元が、少し緩む。
「殿下」
「猫の名前は遠慮したいがな」
そう断って、王太子はこちらに向き直る。
「で、ちゃんとした俺の名前は考えついたのか?」
『昔の偉人の名前』
そういえば、いいなって思った名前はあった。
「ルドルフ」
思わず口にした名前に、王太子は目を瞬く。
「ルドルフって言うのは、どうですか」
「お前、それは知った上で言っているのか?」
わずかに硬くなった声で問われる。
「ルドルフというのはこの国の昔の」
「国民を大量虐殺した罪で処刑された王の名前ですよね。
でも、その罪は冤罪で、本当は流行病にかかった国民を治療しようと療養施設を整備した偉大な王だって」
「ああ、そうだ。療養施設に入れられた国民たちを虐殺したのは、王位を狙う王弟の仕業だった。
だが、今の世ですら、ルドルフが本当に成そうとしたことを知っているものは少ない。
そんな王の名が似合いだと言うのか?」
剣呑なまなざしをこちらに向ける王太子の目を真っ直ぐ見つめ返して、ユミルは口を開く。
「だって、民のことを心から思いやって救おうとした王様なんでしょう?
殿下、いつも難しい書物を沢山読まれてますよね。
特に福祉とか他国の病気の治療法とか、そういう本当に弱い民のためのことを学ばれてらっしゃる」
『おれが養子になったら、この孤児院や近くのほかの孤児院にも寄付して、教育受けられるようにしてくれるってさ』
脳裏に蘇ったのは、あの日のグレイの言葉。
「本当に弱い民のために、懸命に学ばれる殿下のことを私は尊敬しております。
だから今も、真実を知る人々から敬愛されている、王の名であなたを呼びたい」
一片の嘘もない言葉を口にしたユミルに、それを実感して王太子が息を呑む。
そして、口元を手で覆った。
「……参ったな」
そう、苦笑を浮かべて零す。
「困ったことに、嬉しい」
その声音は、初めて聞くくらい優しかった。
「いいだろう。俺をその名で呼ぶことを許す」
「あ、ありがとうございます!」
「……お前は、優しいな。リュイシュン」
ぽつりと零された呟きと笑みが、確かに胸を打った。




