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第十話 馬鹿な子ども

 その日の夜、自室のベッドに腰掛け、ユミルは落ち着かない様子で枕を抱えていた。

 一緒に寝ようと言われた。ルドルフに。

 拒めなかった。どうしても。

 あの必死な碧眼を見たら、どうしたって。

 でも、いざそのときが近づくと、緊張する。

 だって、ルドルフは自分が好きなのだ。

 不意にノックの音が響いて身体が跳ねる。

「ひゃい!?」

「失礼する」

「あれ、あんた……」

 ひっくり返った返事をしてしまったが、入室してきたのはルドルフではなくあの公爵だ。

「なんでいるんだ? コルトゥール公爵」

「いや、君が殿下と同衾すると聞いてな」

「なんで、どっから」

「王宮の使用人は割と口が軽いぞ。

 まあ、俺に対してだけ口が軽いのかもしれないが」

 うっすらと笑いながら近づいてきたエイデスを見て、ユミルはじとりとした目になる。

「わかった。あんた、悪い男だろう」

「失礼な。これでも妻一筋だ」

「でもモテるだろう」

「否定はしない」

 エイデスの返答に「やっぱり悪い男じゃん」と内心思った。

「いいのか?

 年頃の男女が同衾などして、なにもないほうが珍しい」

「それは」

「君はそういうことに案外疎そうだから、一応忠告だ。

 男は、惚れた女を手に入れるためなら悪にだってなるぞ」

 やんわりとした制止に、意外に思った。

 どうしてこの人が、そんなことするんだろう。

「ハイドみたいに?」

「ほう? ジキル博士とハイドを知っているか」

「あんたも知ってるんだ」

「俺とジドールは知っているな。人から聞いた」

 ユミルにとって悪の代名詞のような名だが、案外有名なのだろうか。

「そう」

「ではこの話は知っているか?

 ヘンリー・ジキル博士は自分の中の悪を滅ぼそうとして悪に飲み込まれた。

 こんな言葉がある。

 深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ」

 エイデスは諭すように、聞いたことのない言葉を告げる。

「気をつけるといい。

 悪を覗き込みすぎて、悪にならないようにな」

 そう言って、エイデスはユミルから距離を取った。

「だから、君はあまりジドールを信用するな」

 それだけ言って、エイデスは部屋を出ていく。

「別に」

 ユミルは枕を抱いたまま、口元を埋めてくぐもった声で呟いた。

「信用なんか、してないよ」

 そう、思いたかった。




 夕食の後、シャワーを浴びて部屋に戻ると、ベッドの上にメモがあった。

 ルドルフの文字だ。

『部屋に来るように』

 そう書かれていて、落ち着かない気持ちになる。

 ルドルフの寝室に続く扉をノックする。

 すぐ返事があった。

「殿下」

「ああ、来たか」

 扉を開けると、少しほっとした顔をしたルドルフがこちらを見た。

 彼はベッドに腰掛け、本を膝の上に開いていた。

「はい……」

「こっちに来い」

「……」

 緊張したまま歩み寄って、すとん、と少し離れた位置に腰を下ろす。

「髪が濡れているな」

「シャワーを浴びたばかりなので」

「そうか。……緊張しているか?」

「いえ、別に」

 そう答えながらも、つい手を握りしめてしまう。

「嘘を吐くな。手がこわばっている」

 優しい声で言ったルドルフが、小さく口元を緩ませた。

「よかった」

「え」

「これでも、男として意識されなかったら傷つくところだ」

 どくん、と心音が大きく脈打った。

「そんな、……ちゃんと、男として見てますよ。……殿下のことは」

「そうか」

「はい」

 頷いた。そう、ちゃんと男として見ている。

 例え、グレイに重ねていても。

「髪、拭ってもいいか?」

「……い、いえ、そんなことを殿下にさせるわけには」

「俺がしたいんだ」

 真剣な声。自分より大きな手が肩に触れる。

「駄目か」

「……いえ」

 そんな声で言われて、嫌とは言えずに頷いた。

 肩にかけていたタオルで、ルドルフがユミルの髪を優しく拭う。

 心拍数が速い。

 落ち着け。彼はグレイじゃないんだ。重ねるな。

 そう言い聞かせているのに、鼓動が収まらない。

「柔い髪だな」

「ああ、抜けやすいんですよ」

「俺は好きだな」

「は、はあ」

 さらっと言われて、また鼓動が速くなる。

「俺は好きだ」

 言うなり背後から抱きしめられた。

「で、殿下」

「そう怖がらないでくれ」

「怖がっては、ないです。

 緊張してるだけで」

「うん、わかってる。そんなところも可愛い」

 砂糖菓子のように甘い声が囁く。顔が熱い。

「なあ、」

 耳元で響いた声。肩を押されてベッドの上に倒れ込むと、ルドルフが覆い被さってきた。

「いつから、俺を一人の男として見てくれていた?」

「え」

「いつからだ?」

「それ、は」

 違う。一人の男として見ていない。見れていなかった。

 一人の人間としてすら。

「僕は」

「リュイシュン」

 ぎしり、と胸が軋む。いつからか、ルドルフにその名で呼ばれるたび。

「俺は、お前を本当の名で呼びたい。

 呼ばせてくれないか」

「……っ」

 真摯な顔をして告げたルドルフに、息を呑む。

「だ、駄目、です。

 駄目です、それは、それだけは」

「どうして?」

「それは、その」

 言えない。どうしても。

 返答に窮したユミルに、不意にルドルフは表情を曇らせた。

「………………そうか」

 それだけ零して、ユミルの隣に横になる。

 覆い被さっていた身体がなくなって、ユミルは戸惑った。

「殿下?」

「俺は、他人が自分を見る目には聡いほうだ。

 どういった感情か、意味か、それくらいはわかる」

「は、はあ」

 こちらを見ずに、自分に背を向けたままルドルフは話す。

「お前の目は、ずっと真っ直ぐだった。

 それが好ましかった。

 心地良かった。

 でも、違ったんだな」

 確信したような声に、心臓がどくりと嫌な音を立てる。

「お前は、俺を見ていなかった」


『殿下が大事なら、お前もちゃんと傷つきなさい』


 ジドールの声が蘇る。

「俺は、お前の好きな男に、似ているんだな」

「そ、っそれ、は」

 うわずった声は、そのまま図星の反応だ。

 勢いよく起き上がったルドルフが、ユミルの肩を掴む。

 唇が重なった。

 一度離れて、もう一度触れる。

「や、で、殿下、ま、」

「好きだ」

「っ」

「好きなんだ」

 必死な声が、まなざしが目の前にあって、自分はただ気圧されるだけだ。

「どうしても、駄目なのか。

 俺では」

 悲痛な声が耳を打つ。

「お前の、好きな男がもう死んでいてもか」

 その言葉に、息が止まった。

「それ、どうして」

 擦れた声が口からこぼれた。

「……宰相から聞いた」

「……そう、ですか」

 胸が痛い。どうしようもなく。

「すみません。殿下。

 やっぱり今日、一緒には寝られません」

 その肩を押して、自分から遠ざける。

「リュイシュン」

「ごめんなさい」

 精一杯の拒絶で背を向けた。

 もう、ルドルフの顔は見られなかった。




 朝、宰相の執務室に彼が来たのを待って、ユミルは室内に飛び込んだ。

「おや、おはよう。無事で済んだかい?」

 こちらを見て笑ったジドールに無言で近づいて、思い切り手を振り上げると、その頬を叩いた。

「なんで殿下に言った!」

 容赦ない平手打ちに、ジドールはわずかに驚いたようだがすぐ平静に戻って、こちらを見下ろしてきた。

「なにをだい?」

「グレイが死んでいることだよ!」

「ああ、そのこと?

 全く、駄目じゃないか殿下。そのことを言わないでくれって釘を刺しておいたのに」

 他人事のように話すジドールの胸ぐらを掴む。

「どうして」

「それはこっちの台詞だよ」

 詰りかけた声を、ジドールの低い声がぴしゃりと叱る。

 その手袋を嵌めた手が、肩に置かれた。

「どうして私なんかを信用したんだい?」

 その冷淡な言葉に息が止まる。

「私はお前の仇だよ?

 よく信用出来ると思ったね?」

 頭を殴られた気がした。

 わかっていたのに。忘れたわけではなかったのに。

 昨夜、ルドルフの口から聞いた時、自分は確かに「裏切られた」と思ったのだ。

 裏切るもなにも、そもそもジドールは最初から自分の敵だったのに。

「それに私は言ったよね?

 ちゃんと本当のことを殿下には言いなさいって。

 面影を重ねて、殿下を身代わりにして、自分の心を埋めていた卑怯者に殴られる謂われなんてない」

「……っ」

 怜悧なナイフのような言葉が、容赦なくユミルの心を抉る。

 誤ったように、目の前の男を信用してしまった自分ごと。

「反論出来るならしてご覧。

 倍の正論で返してあげる」

「わ、かってるよ。

 僕だって卑怯者だって」

 わかってる。自分だって卑怯だ。

 ジドールに裏切られたと思って、そのショックを建前にルドルフから逃げた。

 自分だって卑怯だ。

「だけど、四年前あんたがグレイを殺さなければ、こんなことにならずに済んだ!」

 それでも最後の意地でそう叫んで、部屋の扉を開けると走り去る。

 執務室に残されたジドールは、叩かれた頬に手を当てて、ため息を吐く。

「全く、なんで私に絆されたんだ?」

 背後の窓に寄りかかって、弱々しく養い子を詰った。

「本当にその通りだよ。馬鹿な子」


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