踏襲しよう
殿下が本を読んでいる。表紙のタイトルは『有能な部下の育て方』。野心のあるいい選出だと言えるだろう。藍色の髪が風を受けて揺れた。画になる。爽やかな昼下がりの読書シーンだ。
そこにぎこちない動きで歩いてくる少女が一人。サクラだ。
彼女は殿下の近くで逡巡したように立ち止まると、何度か深呼吸をしたらしかった。
ゆっくりと口を開くと、
「こ、子羊唄う野原の奥に、狼一匹ジャン・バルジャン」
歌い始めた。皇国東部の村の子守唄。俺は木陰から音もなく拍手する。
声は多少上ずって震えてはいるが、これは原作通りの展開だ。
問題の殿下がぱらりとページをめくる。サクラは胸に手を当てて歌を続けた。
「草が欲しいと羊が鳴けばジャン・バルジャンがやってくる」
調子が整ってくる。俺は手に汗握りながら殿下の様子を注視していた。
ぱらり。ページを捲る。顔を上げもしない。いや、まさか?
青い瞳はただ無感情に文字を追っているように見えた。
「眠る羊よ跳べよ夜ごと、ジャン・バルジャンが追ってくる」
歌はそろそろ二周目に入る。
第二皇子殿下は顔を上げなかった。
ぱらり。ページを捲って一言。
「止めさせろ」
「はい、ただいま」
俺は即座に答えて木陰から歩み出た。
「えっ、え?」
サクラが殿下と俺とを交互に見る。俺はニコリと彼女を安心させるように微笑んで、両手を広げた。
「殿下、この者の歌はいかがでしたか? ゴクラクセキセイと聞き紛うほどのものでは?」
「眠気を催して不愉快だ」
「左様でしたか」
殿下は即答し、俺は困った顔をした。まぁ確かに今の殿下は夜間きちんと睡眠を取っている訳で、眠くもないときに子守唄を聞かされても仕方ないだろう。
仕方がないので、
「連れていけ」
「はい」
俺は死刑宣告を受ける前にサクラの腕を掴んで中庭から速やかに退去した。
退去する間にも掴んだ腕が暴れる。
「な、何するの、放して!」
「ああ、悪かった。怪我をしたか?」
外廊下まで来たところでパッと手を離した。
サクラは顔を真っ赤にして俺を睨む。
「どうして邪魔したの!」
「俺に命令したあの方がネロ第二皇子殿下で、俺の将来を担ってくれる命綱だからだ」
「もう少しでネロ様が見てくれるかもしれなかったのに!」
「ハハ、ハ」
「何笑ってるの!?」
俺は久しぶりに声を上げて笑ってしまって、彼女をますます怒らせたようだった。
だってこの子、危うく死刑になるところだったのに。
指先で目尻の涙を拭って改めて向き直る。
「いや、失礼。君は大胆だな。前会ったときとは印象が違うよ」
「え」
そのとき、サクラは奇妙な表情をした。
桜色の瞳の奥で瞬間的にチラついたのは疑惑と、隠し切れない動揺だ。
ああ、と、合点がいった。この少女、覚えていないのだ。
「1年も前のことだからな。思い出せなくても気にしなくていい」
「そ、そうなの?」
「一度見たら忘れない顔だってよく言われるが、君は違うみたいだな。君は偏見がないから」
「何か前と違うところがある?」
グイと顔を寄せてくる少女から一歩距離を取って、俺は少し考えた。
違うところと言えば、全体的にかなりだが。
「たとえば君が貴族の俺に気安く口を利いているところとか」
教えてやると、サクラは円い目をキョトンとさせて首を傾げた。
「だって、学園では身分は不問なんでしょ?」
「君の性格なら最初はもっと控えめに行動するものかと思っていた」
「何で私の性格まで知ってるの?」
「秘密。ところで」
俺は答えて、彼女と同じ向きに首を傾げる。
「どうしてあの方がネロ第二皇子殿下だと知っていたんだ?」
円い目が無警戒に瞬きをする。
「見ればわかるでしょ?」
自慢げに胸を張る彼女はまるきり無邪気だった。
俺は目を細める。
「どうして殿下に会いに来た?」
「そう! それはね……」
彼女は言いかけて、はたと俺の目を見た。
「何で知りたいの?」
「単純な興味だよ、個人的な」
風が吹く。俺がサクラに一歩近づくと、その分だけ彼女は遠ざかった。
「答えないと言ったら?」
「答えさせるさ」
「誰かッたすけ」
少女の叫びを片手で塞いで木陰に引きずり込む。
助けを求める絶叫と荒い息遣いが掌に当たった。
俺は昔たまに暴力を振るっていたダークな時代を思い出してセンチメンタルな気持ちになったが、更生したので、彼女の耳に囁きかける。
「しー、静かに。安心しろ。君が本物の『サクラ』か確認するだけだ。ちょっと頭がクラクラするかもしれないが、素直に答えてくれればいい。この薬は安全だよ、大丈夫、君なら分かるはずだ」
手の中で薬瓶の蓋を開けた。湧き出てきた白い煙がしゅるしゅると少女の身体に巻き付いていく。
「ふ、う……!」
「西部の氷結洞窟にだけ咲く花。知ってるだろ? さあ、息を吐いて」
「う、う、あ、いや」
「深く」
煙は不定形の形をして彼女の呼吸を待っている。そういう魔術の自白剤だ。
どういう目的で殿下に近づいたのか。何故ここに来たのか。
『サクラ』は原作通りの存在なのか。この女何を知っている?
「吸って」
俺は彼女の目を覗き込む。
瞬間、バリ、と奇妙な音が響いた。
「は」
遅れて衝撃を認識した。視界が白く点滅する。鼓膜の奥でキンと耳鳴りがする。
頭蓋の内側が激しく揺らされたように痛んだ。指先が痺れる。
俺はよろめいて、初めて自分が攻撃されたことに気づいた。
青天の霹靂。電撃魔法だ。
「だ、誰か助けてッ!」
歪んだ聴覚でも聞こえる少女の高らかな悲鳴と共にざわめきが聞こえてくる。
気づけば結構な数の生徒の影が集まっているのが見えた。
ふと、唇を温い液体が伝った。ハンカチで拭うと、白いレースがじわりと真っ赤に染まる。
鼻から血が垂れていたのだった。流石にちょっとダメージが入ったみたいだ。
少女は人の群れを背に立って悲痛に叫ぶ。
「あの人がっいきなり来てッ薬を吸わされそうになったんです!」
俺は血を拭って、用済みのハンカチを捨てた。
「ただの自白剤にそう目くじら立てるなよ。話したくないことでもあるのか?」
「嘘よッ殺すつもりだった!」
「ハハ、殺すわけないだろ、こんなところで……」
俺はにこやかに両手を広げて答えた。
俺は連行された。




