迫る危険と高鳴る鼓動
山道は、日が落ちると急激に冷え込んだ。
行商の荷車はゆっくりと斜面を登っている。今回の護衛依頼は、ここからが本番だと聞かされていた。
「この辺りはな、最近“群れ”が出るんだ」
依頼主の男が、小声で言った。
「普通の魔物じゃない。統率が取れてる」
セイラは頷きながら、周囲に意識を巡らせる。
気配は少し前からずっとある。複数で、散らばらずに固まっている。
統率が取れている、という商人の言葉に間違いはない。
(囲まれてる……?)
ぞくりと、背筋が粟立つ。
その瞬間。
「来るよ」
隣で、オーウェンが静かに言った。
次の瞬間だった。闇の中から、一斉に影が飛び出す。
一体じゃない。三、いや五――
「っ!」
セイラは即座に前に出た。荷車を守る位置。
飛びかかってきた一体を、ぎりぎりでいなして剣を振るう。
浅い。
すぐに二体目が来る。
(多い……!)
連携している。
一体が注意を引き、別の個体が死角から来る。
「セイラ」
後ろから、オーウェンの声。
落ち着いている。いつも通りのはずなのに――
「右、三歩」
反射的に動く。次の瞬間、そこを牙が掠めた。
(っ、危なかった……)
オーウェンの指示は的確だ。それなのに。
(追いつかない……!)
どうしたって、数が多すぎた。
一体ずつなら対処できる。でも、同時に来られると、どうしても遅れる。
息が上がって、視界が狭くなる。
「下がって」
――間に合わない。
一瞬の判断の遅れ。死角から飛び込んできた影に、気付くのが遅れた。
(しまっ――)
牙が、迫る。避けられない。
そう思った瞬間、空気が、変わった。
音が消えたみたいに、静まる。
「……触るな」
低い声だった。聞いたことのない、温度。
次の瞬間、視界が追いつかない。
何が起きたのか、理解する前に――
すべてが終わっていた。
魔物たちが、動きを止める。まるで見えない糸で引き裂かれたみたいに、その場に崩れ落ちる。血が遅れて噴き出す。
音が戻る。風が流れる。セイラは、その場に立ち尽くした。
呼吸を忘れたまま。
「……え」
声が、うまく出ない。
さっきまで、確かに囲まれていたはずなのに。
一瞬で。本当に、一瞬で。すべてが終わっていた。
そして、目の前に、オーウェンがいた。
後ろにいたばすなのに、いつの間にか、距離も、時間も無視したみたいに。
その手が、セイラの腕を強く掴む。
「……無事?」
声は低いまま。
けれど、その指先がわずかに震えていた。
初めて見る表情だった。穏やかでも、余裕でもない。何かを押し殺しきれていない顔。
「……っ」
セイラは答えようとして、言葉を失った。
代わりに、胸の奥に奇妙な感覚が広がる。
――安心している。
ありえないほど。さっきまで、確かに死を感じていたのに。
今は、何も怖くない。息がすっと通って、鼓動が、ゆっくりになる。
理由がわからない。
ただ。
オーウェンにしっかりと掴まれている場所から、じわじわと熱が広がっていく。
守られている、なんて言葉じゃ足りない。もっと根本的な。
「……セイラ」
名前を呼ばれる。
その瞬間、さらに深く沈むような安心感に襲われる。
「怪我は」
問いかけに答えなければいけないのに。
セイラは、オーウェンを見上げたまま、動けなかった。
(この人といると)
思考が、ゆっくりと形になる。
(何かが、おかしい)
怖いはずなのに、怖くない。
近くにいると、離れたくないと思ってしまう。理由なんて、ひとつもないのに。
「……ない、です」
遅れて答える。声が少し掠れていた。
オーウェンは、それを聞いてようやく息を吐いた。
張り詰めていた空気が、少しだけ緩む。
「……よかった」
小さく呟く。その声には、はっきりとした安堵が滲んでいた。それから、はっとしたように手を離す。
触れられていた場所が、急に冷える。
(……あ)
一瞬だけ、物足りなさがよぎる。自分でも驚くくらい、はっきりと。
オーウェンは視線を逸らした。ほんのわずかに、眉を寄せている。
「……少し、やりすぎた」
ぽつりと零す。
セイラは周囲を見た。
地面に転がる魔物たち。その状態を見て、言葉を失う。
“やりすぎた”で済む光景じゃない。
(この人……)
改めて理解する。
強い、なんて言葉じゃ足りない。もっと、違う。制御していたものが、今――
「……さっき」
セイラは、ゆっくりと口を開いた。
「怒って、ましたか」
オーウェンがわずかに目を見開く。
沈黙。数秒だけ、間があって。
「……そう見えた?」
曖昧な返答に、セイラは小さく頷いた。
「いつもと、違ったから」
オーウェンは少しだけ困ったように笑った。
「……かもしれないね」
それだけ言って、話を終わらせようとする。
けれど、セイラの胸には、はっきりと残っていた。
あの瞬間。自分に牙が届きかけたとき。
――空気が変わった。
この人の何かが、確かに外れた。
そして、触れられた瞬間の、あの安心。
(やっぱり、おかしい)
そう思う。でも同時に。
(……嫌じゃない)
むしろ、もう一度、触れられたいとすら思ってしまう。
その感情に、自分で戸惑いながら、セイラは何も言えなくなった。




