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生き物としての終わり

 次の依頼主は、こじんまりと商売を営んでいる老夫婦だった。

 山を一つ越えた先にある故郷に帰るそうだ。


「若い頃はね、もっと無茶な道も通ったのよ」


 荷台で穏やかに笑う老婦人に、セイラは思わず身を乗り出す。


「え、じゃあ今は安全な道を選んでるんですか?」


「そうねえ。……無理はしないようにって、決めたの」


 婦人はちらりと御者席に座る夫を見た。


 老商人が、苦笑しながら肩をすくめる。


「昔は止めても聞かなかったくせにな」


「だって、あなたがいたもの」


 何気ないやり取り。


 でもそこにある空気は、温かくて、やわらかい。


(いいな……)


 こんなふうに、誰かとずっと一緒にいられたら。


 自然に笑い合えて、隣にいるのが当たり前な、そんな関係。


 ふと視線を感じて振り返ると、オーウェンと目が合った。


 少しだけ、目を細めている。


 ――まるで、その光景を“懐かしむ”みたいに。


 街道は、ゆるやかな丘を越えて続いていた。


 夕暮れが近い。空は薄く赤みを帯び、影が長く伸びている。


 荷車の揺れは穏やかで、道も悪くない。順調な行程のはずだった。


「……少し、休もうか」


 御者台に座っていた老人が、小さくそう言った。


「ええ、そうね。休憩しましょう。無理しないで。ちょうどいい場所があるわ」


 婦人は慣れた手つきで荷車を止め、木陰へと誘導する。


 その一連の動きがあまりにも自然で、セイラは少しだけ遅れて違和感に気付いた。


(……あれ)


 老人は、荷車から降りるときに一瞬よろめいた。


 ほんのわずかな、気を抜けば見逃してしまうほどの揺れ。


 それでも、セイラの胸はざわつく。


「大丈夫ですか?」


 駆け寄って思わず声をかけると、老人は笑った。


「ああ、年には勝てんね」


 軽い調子で、冗談のように言う。


「すぐ良くなるさ。少し休めばね」


「そうね、少しだけ休みましょう」


 妻もまた、同じように微笑んだ。その手は、老人の腕を支えるようにしっかりと掴んでいる。


 荷馬車から少し離れた大木の下で、木陰に敷かれた布の上に、老人は横たわる。


 風が、静かに通り抜けた。草が擦れる音と遠くで鳥が鳴く声がする。


 どこにでもある、穏やかな夕方の景色。


――なのに。


「……ねえ」


 婦人が、小さく呼びかける。


「少し顔色が悪いわ」


 返事は、すぐには返ってこなかった。代わりに、浅い呼吸の音が聞こえる。


セイラは一歩近づいた。


「……あの」


 無意識に喉が乾く。何かおかしいと、もうわかっているのに。


「回復の薬、持ってます。あと、少しだけど治癒も――」


 言いながら手を伸ばしかけて、


「大丈夫よ」


 やわらかい声が、それを止めた。婦人は穏やかな顔で、首を横に振る。


「ありがとう。でも、いいの」


 その言い方が、あまりにも落ち着いていて、セイラは言葉を失った。


「……いい、って」


 思わず繰り返す。


「街まであともう少しですし、体力を回復して、あと少しだけ頑張れば――」


「この人ね」


 妻は、セイラの言葉をやさしく遮った。


「昔から、こういう顔をするの。無理をしてるときの顔」


 セイラは息を呑んだ。


「でもね、本人は絶対に認めないのよ。大丈夫だって、いつも笑って」


 小さく笑う。その笑みは、ひどく穏やかで。


「だから、わかるの。もう、長くないって」


 ――理解が、追いつかない。


「そんな……」


 言葉が、うまく出てこない。


 こんなふうに、あまりにも静かに、終わりが来るなんて。


「ねえ」


 妻が、そっと老人の手を握る。


「もう少しだけ、一緒にいようって言ったでしょう?」


 その声は優しくて、けれどほんの少しだけ、震えていた。


 老人の瞼が、かすかに動く。


 ゆっくりと開いて、妻を見る。


 焦点はぼやけているのに、その視線だけは確かに届いていた。


「……ああ」


 かすれた声。


「言ったな」


 短い言葉。


 それでも、確かに返事だった。


 妻の指が、ぎゅっと強くなる。


「来年も、この道を通ろうって」


「……ああ」


 もう一度、同じ返事。

 

 その声はさっきよりもさらに弱くなっていた。


 風が、また通り過ぎる。


 セイラはその場に立ち尽くしたまま、何もできなかった。


 何かしなければと思うのに、何をしていいかわからない。


(まだ、間に合うはずなのに)


 そう思ってしまう。


 だって、さっきまで普通に話していた。少し休めば、またいつも通りになるはずだと。


なのに。


「……ねえ」


 妻が、もう一度呼びかける。


 今度は、さっきよりも小さく。


「ちゃんと、見てる?」


 問いかけるような声。


 老人はわずかに息を吸って、


「……見てる」


と答えた。


その指が、ほんの少しだけ動く。それが――最後だった。


 呼吸が、途切れる。


 あまりにも静かに、何の前触れもなく。


 風が止まった気がした。


 音が、遠のく。


 セイラは瞬きすら忘れて、その光景を見ていた。


 信じられない、という感情すら追いつかない。


 ただ、現実だけがそこにある。


 妻は、しばらく何も言わなかった。ただ手を握ったまま、じっと見つめている。


 やがて、ゆっくりと息を吐いて。


「……困った人ね」


 小さく、そう言った。


 泣き声は、なかった。


 ただ、その声だけが、ほんの少しだけ揺れていた。


 セイラは、そこでようやくオーウェンの存在を思い出した。


 少し離れた場所に、彼は立っていた。


何もせず、何も言わず、ただ、静かにこちらを見ている。


「……どうして」


 気付けば、声が出ていた。


「どうして、何も……」


 助けられたはずだと、どこかで思っていた。


 この人なら、何でもできると。


 けれど。


 オーウェンは、ゆっくりと首を振った。


「これは、そういうものじゃない。……止められるものじゃない」


 淡々とした声。


 感情がないわけじゃない。ただ、揺れていない。


「……そんなの」


 セイラは言葉を失う。


 納得できない。だが、否定もできない。


 目の前で起きたことが、すべてだった。


 オーウェンは、少しだけ視線を落とした。


「生き物はね」


 ぽつりと、言う。


「こうやって終わる」


 あまりにも簡単に、あまりにも静かに。


 その言い方が――あまりにも、慣れていて。


 セイラの背筋に、冷たいものが走った。


(この人は)


 何度も、これを見てきたのだ。見送ってきたのだ。


 数えきれないほど。


 だから、こんなにも静かでいられる。


 その事実が、ひどく怖かった。


 同時に、どうしようもなく、胸が締め付けらた。


「これは、そういうものなんだ」


 抗えないもの。終わるもの。どうしようもないもの。


 セイラは、言葉を失った。


 ***


 その後、オーウェンが老商人の代わりに御者を行い、老夫婦を故郷まで送り届けた。

 

 婦人は最後まで夫の手を離すことはなかった。

 セイラは手伝えることがあれば、と申し出たが、婦人は最後まで気持ちだけで充分だと言い、依頼料が支払われた。


 セイラとオーウェンはそこから少し離れた、山間で休憩することになった。 

 

 夜の野営地はやけに静かで、焚き火の音だけが、ぱちぱちと小さく弾けている。


 セイラは膝を抱えたまま、炎を見つめていた。


 昼間の光景が、頭から離れない。


 握られた手。返らなかった声。動かなくなった指。


「……あの」


 ぽつりと呟く。


 向かいに座るオーウェンが、ゆるやかに視線を上げた。


「人間って、あんなにすぐいなくなるんですね」


 自分でも、変な言い方だと思った。けれど、それ以外に言葉が見つからない。


 オーウェンは少しだけ考えるようにしてから、答える。


「竜人と比べれば、ね」


 あっさりとした声。


 それが逆に、少しだけ引っかかった。


「……慣れてるんですか」


 問いかける。何に対してかは、言わなくてもわかるはずだった。


 オーウェンは、ほんの一瞬だけ視線を焚き火に落とした。


 ぱち、と火の粉が弾ける。


「どうだろう」


 曖昧な返事。


「慣れた、とは少し違うかもしれない」


 その言い方に、セイラは顔を上げる。


「じゃあ……」


 言葉を探す。


「どう思ってるんですか」


 ――ああいうとき。


 続ける前に、オーウェンが小さく息を吐いた。


「昔はね」


 静かに、語り出す。


「いちいち覚えてたよ」


 意外な言葉だった。


「名前とか、顔とか。どこで会ったとか」


 炎の向こうで、その瞳がわずかに細められる。


「でも、そのうちやめた」


「……どうしてですか」


「多すぎるから」


 あまりにも簡単に、そう言った。


「全部覚えていたら、きりがない」


 淡々とした声音。まるで、当たり前のことを説明するみたいに。


 セイラは、言葉を失う。


 多すぎるから。それはつまり――


「……何人、いたんですか」


 気付けば、そんなことを聞いていた。


 オーウェンは少しだけ考えて、それから首を横に振る。


「数えたことはないよ」


「途中で意味がなくなる」


 意味が、なくなる。その言葉が、妙に冷たく響く。


「最初の頃はね」


 オーウェンは続ける。


「一人いなくなるたびに、ちゃんと悲しかった」


 炎が揺れる。その光が、彼の表情をわずかに照らした。


「でも」


 短く区切る。


「次が来る」


 その言葉に、セイラは息を呑んだ。


「また誰かと会って、少し話して、別れて」


「それが何度も続くと、だんだん」


 ほんのわずかに、言葉を選ぶ間。


「区別がつかなくなる」


 それは、悲しいというより、もっと違う、冷たい何かだった。


「気付いたら」


 オーウェンは、焚き火を見つめたまま言う。


「何も残らなくなってた」


 静かな声。感情の起伏は、ほとんどない。


「楽しかったはずのことも、思い出せない」


「誰と笑ったのかも、わからない」


 ぱち、と火が弾ける。


 その音だけがやけに大きく響いた。


「だから」


 少しだけ視線が上がる。


「考えるのをやめた」


「どうせ消えるなら、最初から残さなければいい」


 その言葉に、セイラの胸が強く締めつけられる。


「……そんなの」


 かすれた声が漏れる。


「そんなの、寂しくないんですか」


 思わず、問いかける。


 オーウェンは一瞬だけ目を瞬かせて、それから、ほんの少しだけ困ったように笑った。


「どうだろう」


 静かな返答。


「それすら、よくわからないんだ」


 ――ああ。


 セイラは息を呑む。


 この人は、寂しいことに慣れたんじゃない。寂しいと感じること自体を、手放してしまったんだ。


 その事実が、ひどく重くのしかかる。


「……じゃあ」


 喉の奥が、少しだけ詰まる。


 それでも、聞かずにはいられなかった。


「どうして、つがいに会いたいんですか」


 あんなふうに、何も残らなくなるなら。


 誰かと結ばれる意味なんて――


 オーウェンは、少しだけ考えるように視線を彷徨わせ、


「終わりがあるから」


と、言った。


「つがいと結ばれれば、ちゃんと終われる」


 炎が、揺れる。その光が、彼の横顔を照らす。


「誰か一人だけを覚えていられる。それで十分だと思ってた」


 オーウェンは、ゆっくりとこちらを見た。その瞳が、わずかに揺れている。


「でも」


 ほんの少しだけ、声が低くなる。


「君に会ってから、少し困ってる」


「……困ってる?」


 オーウェンは小さく笑った。


「楽しいんだ」


 その一言が、静かに落ちる。


「こうして話してる時間も、旅も」


「全部、ちゃんと残ってる」


 胸の奥が、どくんと鳴る。


「消えないんだよ」


 かすかに、自嘲めいた響き。


「これじゃあ、終われなくなるかもしれないね」


 焚き火が、大きく揺れた。


 セイラは何も言えなかった。ただ、じっと彼を見る。


 この人の500年は、空っぽだった。


 けれど今、そこに少しずつ何かが積み重なっている。


それがどれだけ危ういことなのか、なぜかわかってしまった。

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