あるようでない氷
目が覚めると、そこは彼の見知った天井だった。
体の重力で後ろに引っ張られる感覚、これは彼自身が横たわっていることを意味していた。
この木目調の模様はいつでも、心地よい目覚めを与えてくれたと振り返る。またそれは何故かと問われれば、彼が久しぶりにここで起きることをしたからである。
少しの間、彼は自分の部屋を目の届く範囲で見回した。
日差しの方へと目を向けると、十字の木片できっちり4つに分けられた窓があり、朝の光を教えてくれる。今度は反対側に頭を動かすとほとんど何もない殺風景な空間に白いタンスがどんと構えられていた。
まさにここは波留の自室である。
しかし、 この自室で起床するという前提の記憶がすっかり抜けてしまっていたことに気がついた彼は、前日に起きたことを必死になって脳内に戻した。
そしてあやふやになっていたひもが、ほどけていくように波留は次々と思い出していったのだ。少女の回収を目論む謎のユークリッド人、空間掌握に耐性のある人間、本織愛理。ホデルでの一連の事件を除いてーー
「あんた、一体いつまで眠ってんのよ!早く起きないと一生寝かしつけるわよ!」
木製の扉を壊さんとする勢いで開けたのは、いうまでもなく波留のパートナーである戸桜芽依だった。その表情には5000年くらい待ち続けた後のような狂気が立ち込めていた。
あまりの怒りっぷりに歯をがたがたさせながら怯える波留。いつもなら何か適当で正論っぽい言い訳を思い付くのだが、今に限っては目覚めたばかりで頭も働かないのでどうしようもなかった。
思わず適当ではなくテキトーに言い返してしまったのである。
「うん、そうだね。君の通りだと思うよ」
波留としては全面的に芽依に賛成であることを伝えたかったのだが、彼女の言葉を聞かなかったばっかりにやらかしてしまった。
「へえ、あんたが言いたいことって、まとめると死にたいってことよねえ」
「まとめすぎだよ!」
そんな感じで突っ込みを入れた波留。こちらとしてはまとめた内容を否定しない彼にもまた、突っ込みたい心境である。
「もう……いいわ。ばかばかしい」
さすがの芽依も呆れてしまったようである。
「それそうとさ芽依、なんで僕はここにいるんだい?」
「はあ?とうとう記憶喪失になっちゃったの?3人でカミクシアに来たじゃない。実際こうやって私達の家にいるんだから」
「うーん、それは分かるよ。でもカミクシアに戻る前しか記憶がないんだ。不思議だね」
それもそうである。波留はバスタブに後頭部を打ち付けた挙げ句、ポーターに連れて行かれる時に首を絞められて魂がどっかにいきかけたのだから。記憶の1つや2つ忘れていてもなんらおかしくない状況だった。
そしてこれらの暴力行為を行ったのは、紛れもない芽依なのだから彼に対して怒る権利はあまりないのだがこれでは面目が崩れてしまうとでも思ったのだろう。
「不思議ね……」
いろんな思考が交錯して結局、相づちを打つだけだった。
「まあ、朝御飯だから早く来なさい。愛理も待ちわびてるわ」
これを言いに来るだけでどれだけ怖いんだよ、と芽依にまた恐れる波留なのであった。
とにかくもみんなが待っているなら早くせねばと波留は、スウェットの下だけを着ると一目散にダイニングルームへと向かった。
そしてテーブルの前に来てみると、あれだけ待っているようなことを言っておきながら、女子2人組は既に朝食を食べ始めていた。
波留が来たのに気づいた愛理はおはようございます。とパンを頬張ったまま挨拶してきた。
波留としては少しイラっときたが、無視すると愛理の隣の低身長少女がうるさそうなので、返しておく。
すると調子に乗り始めたのか、愛理はそのまま話し始めた。
「大丈夫ですか?かなり寝てたみたいですけど」
「うん、そこは大丈夫。ところで……」
彼の言葉はあっさりと愛理の遮られる。
「それはそうと、この家すごいです!まるで写真で見たヨーロッパの家そのまんまじゃないですか!煙突もあるし、床が木でできてるし」
「まあ、カミクシアでは本織さんの世界でいう産業革命の時代を保とうとしてますからね。ここら辺の気候ではこうならざるを得ません。でもね……」
愛理は食べ終わった瞬間に次の料理を口に詰めているので言い出す暇も与えてくれなかった。
「そうなんですか。カミクシアっていいとこですよね。芽依さんも可愛いですし、ここの地域のリーダーっていう人も良い人でしたし。ハゼンさんでしたっけ」
その問いかけには芽依が答えた。
「そうよ。まあ一言で言うと善良の塊みたいなものだけどね」
相変わらず毒の染み込んだ言い方である。
しかし、2人の何気ない会話を波留は聞きのがしていなかった。
「え?まさかハゼンに会ったの?」
少しアクセントのおかしい口調で彼はそう問いた。今のが事実であれば厄介なことである。でも返ってきた答えは
「もちろん会いに行ったわ。住民登録も終わったしね」
こうだった。
彼らの現在住んでいる集落というものは、実のところ本物ではない。
なぜなら、この地域は他人から見るとユークリッド人達のならず者が集まっているだけだからである。
「嘘でしょ、だって新たな住民を受け入れるには有識者で集まるって」
普段は落ち着いている波留が微量ながら声を荒げて反論した。軽く叩かれたテーブルが揺れ、それにつれて紅茶もゆらゆらと波を打った。
「そんなことは金輪際言ってられないわ。日々保護されてここに来る人間は日を追って増しているの。私達が任務に行っている間にもここに連れられる人は何十人にもなるわ。彼らにはもう居場所がない人もいる……そんな困っている人に居場所を与えてあげるのは悪いことかしら?」
「そうじゃなくて……ハゼン一人に任せるのがいけないと思う。確かに彼はこの反首都制府組織を作ったメンバーだよ。でもそれは僕たちも同じで、この地域を作ったのも僕たちだよ」
「とりあえずその反首都制府っていうのやめなさい。カミクシア保全組織の方が絶対にクリーンなイメージよ!」
ここで捕捉すると、波留と芽依だけがユークリッド人に襲われている人間を助けているわけでないのだ。2人は首都制府の意向に反対する者達が集まる組織に属し、そこで一つの構成員として戦っていのである。
この組織の総構成員数は約200人。みんながそれぞれ所属していた地域を抜けてここに集まったのである。
そして2人の喧嘩はやがてこの組織の名称合戦へと変位していくのであった。
「イメージと名前は関係ないよ。大事なのは士気、戦うこころだよ。何かに反抗してるってやる気でない?」
「やる気こそ関係ないわよ!クリーンな感じにすればもっと首都制府を止めたいユークリッド人が集まって来るかも知れないじゃない!」
こんな感じで波留と芽依の口喧嘩は永遠に続く、若しくは芽依の銃弾で終わると思われたが、意外にもこれを止めたのはしばらく黙って朝食にありついていた愛理だったのだ。
今にも爆発しそうな両者に向かって彼女はボソッと何気なくこう呟いた。
「口喧嘩なんかしちゃって、なんか夫婦みたい。ていうか同じ家で一緒に暮らしてる時点で完全に夫婦漫才だね……」
その瞬間、部屋の空気が固まったように、一生懸命動いていた2人の口がピタリと止んだ。まるで宇宙を破壊するボタンを間違えて押してしまったような白けにも関わらず、愛理だけが静かに紅茶をすすっていた。




