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定時退社したい元社畜の【福利厚生】無双〜極貧アイドルや借金女神のスポンサーにされてスローライフが送れません〜  作者: 月神世一


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EP 8

「丁寧語でキレる男」

夕暮れのポポロ村中央広場。オレンジ色に染まる空の下、みかん箱の上で懸命に歌うリーザの前に、今日は三人の観客が集まっていた。

だが、その中の一人の男が発した下品なヤジが、静かな空気を不快に濁していく。

「おいおい! なんだその貧乏くせえ芋ジャージは! アイドル名乗るならもっとマシな服着てこいよ!」

男は、真新しい革鎧を着込んだ駆け出しの冒険者風だった。無駄にジャラジャラと装飾品をつけており、酒の匂いを漂わせている。

他の二人の観客(農家の老夫婦だ)は、男の剣幕に怯えて後ずさっていた。

「♪五円! 五円! 御縁! 御縁! ハイッ! ……えっと、ご意見ありがとうございますの! でも私、このジャージの通気性、とても気に入っておりますわ!」

リーザは引きつった笑顔を浮かべながらも、必死に歌を続けようとしていた。

だが、男は面白くなさそうに舌打ちをする。

「ケッ、愛想の悪いガキだ。だいたいなんだよ、その足元の汚え木箱はよ! こんなゴミの上で歌って、金がもらえるとでも思ってんのか!」

男がブーツの底で、リーザの足元にある『みかん箱』を思い切り蹴り飛ばした。

「あっ……!」

バキィッ!

鈍い音とともに、長年の酷使で脆くなっていたみかん箱の板が真っ二つに割れた。

足場を失ったリーザは、為す術もなく前のめりに転倒し、石畳に強く手と膝を打ち付けた。

「あははははっ! ざまぁねえな! ゴミ箱はお似合いのゴミ捨て場に帰れってんだよ!」

男の下劣な笑い声が響き渡る。

リーザは擦りむいた両手を見つめたまま、地面に座り込んでいた。

他人が見れば、ただの薄汚れた木箱だ。スーパーの裏に捨てられていた廃材に過ぎない。

だが、彼女にとっては違う。

泥水を啜りながら、それでも夢を諦めずに立ち続けた、たった一つの『ステージ』だったのだ。

「私の……ステージが……」

ポロポロと、リーザの翡翠色の瞳から涙がこぼれ落ちた。

「おいおい、泣くなよ。ほら、お詫びにこの銅貨でもくれてやるか――」

男がニヤニヤと笑いながらリーザの頭に手を伸ばそうとした、その時だった。

「――お客様。当ステージへの破損行為は、ご遠慮いただけますでしょうか」

広場に、極めて丁寧な、だが背筋が凍るほど冷ややかな声が響いた。

男が振り返ると、そこには黒いスーツを着た男――早川陸斗が立っていた。

(……ああ、なるほど。今の俺は、猛烈に怒っているらしい)

俺は自分自身の感情を、どこか客観的に分析していた。

営業マン時代、理不尽なクレームや酔っ払いの恫喝には数え切れないほど対応してきた。怒りに任せて声を荒らげるのは三流だ。

本気でキレた時ほど、俺の脳内は「クレーム処理・危機管理モード」へと切り替わり、言葉遣いはどこまでも慇懃無礼なビジネス敬語になる。

口元には完璧な営業スマイルを貼り付けているが、目は一切笑っていない。

その異様な気配に、男は一瞬たじろいだが、すぐに虚勢を張って声を荒らげた。

「あぁ!? なんだてめえは! こんなゴミ箱一つ蹴ったくらいで文句あんのか!?」

「ええ、大いにありますとも。こちらは弊社の専属タレントが使用する、極めて重要な営業機材です。故意による器物損壊、ならびにタレントへの暴行未遂、および営業妨害。これらに対する損害賠償請求の準備に入らせていただきますが、よろしいでしょうか?」

「はぁ!? なにワケ分かんねえ言葉並べてんだ! ナメてんのかコラァ!!」

男が逆上し、腰の剣の柄に手をかけようとした瞬間。

俺は一歩踏み込み、手元にあった『ルナミス新聞(朝刊)』を筒状に硬く丸め、男の鼻先にピタリと突きつけた。

「……ッ!?」

「剣を抜けば、過剰防衛ではなく正当防衛の要件を満たします。ポポロ村の自警団に引き渡す前に、この場で少々『物理的な説得』を行わざるを得なくなりますが……どうしても抜かれますか?」

丸めただけの新聞紙。だが、その先端は男の急所である鼻柱を正確に捉え、一ミリのブレもなかった。

男は冷や汗を流し、息を呑んだ。

(な、なんだこのプレッシャーは……!? こいつ、ただのスーツ姿のくせに、俺が動くより早く急所を制圧してやがる……!)

剣の柄を握る男の手が、カタカタと震え始める。

追い討ちをかけるように、俺はポータル画面の【健康診断】を起動し、男のステータスを読み上げた。

「それに、お客様。顔色が優れませんね。……慢性的な寝不足と、過度の緊張による胃酸過多。さらに、右膝の古傷が痛んでいるはずです。そんな不完全な体調で私に刃向かえば、一生歩けない後遺症が残る可能性が高いと推測されますが」

「ひぃっ!? な、なんで俺の右膝のことが……!?」

心を見透かされたような言葉に、男は完全に戦意を喪失した。

ペタンと尻餅をつき、怯えた目で俺を見上げる。

「な、何なんだよてめえは……!」

「ただの、スポンサーです」

俺が見下ろしながら冷たく告げると、男は「ひぃぃっ! お、覚えてろよ!!」と情けない捨て台詞を吐き、転がるように広場から逃げ出していった。

「申し訳ありませんが、当方の記憶容量が不足しておりまして。お客様の無意味な脅迫を保存するスペースはございません」

俺は遠ざかる男の背中に向かって、深々と、そして最高に皮肉を込めた一礼を送った。

広場に再び静寂が戻る。

俺は丸めた新聞紙をポケットに突っ込み、地面にへたり込んでいるリーザの前にしゃがみ込んだ。

「……立てるか?」

「ス、スポンサー様……」

「ステージ機材の管理不行き届きだな。怪我はないか」

俺は【救急箱】から取り出した清潔な白いハンカチを、彼女の涙で濡れた頬へと差し出した。

リーザは震える手でハンカチを受け取ると、ギュッと握りしめ、顔を真っ赤にしてぽろぽろと涙をこぼした。

「ごめんなさい……私の、みかん箱が……大事な、ステージが……」

「気にするな。形あるものはいつか壊れる。……それに、あの箱はお前の才能には少し小さすぎた」

慰めの言葉を探していると、ふと、先ほどの男が逃げ去った足元に、一枚の硬質なカードが落ちているのに気がついた。

拾い上げて裏面を見ると、そこにはギラギラとした金色の箔押しで、こう刻まれていた。

『サメジマ・アドベンチャー・サロン プラチナ会員証』

(……アドベンチャー・サロン? 情報商材屋か何かの匂いがするな)

前世の嫌な記憶がフラッシュバックする。

ああいう、弱者を食い物にしてイキり散らす輩の背後には、ろくでもない組織が絡んでいるのが相場だ。

俺はカードをスーツの内ポケットにしまい込み、無惨に砕け散ったみかん箱の残骸を見下ろした。

「……箱、もうちょっと頑丈なのにするか」

次なるステージの設営計画を頭の片隅で組み上げながら、俺はリーザに手を差し伸べた。

読んでいただきありがとうございます。

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