EP 7
「眩しい夢」
夕日も沈みかけ、ポポロ村の広場はオレンジ色の静寂に包まれていた。
農作業を終えた村人たちは足早に家路につき、行き交う人は誰もいない。
そんな無人の広場の片隅で、ぽつんと置かれた木製のみかん箱の上に立ち、一人で歌い続けている少女がいた。
「♪だから私は、銀河の果てまで歌って行けるわ――だから、何処までもついて来てね♡」
リーザ・シーラン・リヴァイアサン。
小豆色の芋ジャージに使い古した健康サンダルという、アイドルらしからぬ出で立ちの彼女が、手作りのメガホンマイクを両手で握り締め、誰もいない空間に向かって深々と一礼した。
パチパチパチ、と。
俺は気づけば、広場の端に立ち止まって拍手を送っていた。
定時退社を心に誓い、一刻も早く風呂とビールにありつきたいはずだった俺の足を止めるほど、彼女の歌声には不思議な引力があった。
「……あ。スポンサー様」
俺の拍手に気づいたリーザが、みかん箱の上からぱっと顔を輝かせた。
「お疲れ。良い歌だった」
「本当ですか!? ふふっ、当然ですわ! 私の歌声は深海のマナを帯びて……じゃなくて、天性のアイドルオーラが滲み出ているんですの!」
えっへん、と胸を張るリーザ。
だが、その足元の空き缶には、硬貨一枚すら入っていない。
「……毎日、ここで歌ってるのか? 観客がいなくても」
「ええ。私にとって、ステージの規模や観客の数は関係ありませんの。たった一人でも聞いてくれるなら、私は全力で歌い切りますわ」
リーザはみかん箱からピョンと飛び降りると、俺の前に立って翡翠色の瞳を真っ直ぐに向けてきた。
「スポンサー様。私がステージに立って歌うと、何が起こるかご存知ですか?」
「なんだ? 魔法のバフでもかかるのか?」
「いえ、そんなチャチなものじゃありません。私は、ファンたちの『時間』を奪うことができるんですの」
リーザの表情から、いつものドジでお茶目な色がスッと消えた。
「みんな、仕事や生活で辛いことや、明日の生活費の計算とか、考えなきゃいけないことが山ほどあるはずです。でも、私が歌っているその瞬間だけは、全部忘れて、私だけを見てくれるんですの」
彼女の瞳の奥に、ある種の狂気に似た執着の炎が揺らめいているのが見えた。
「だから私は……ファンたちの『世界』そのものになりたいんですの。彼らの視線も、可処分時間も、お財布の中身も、感情のすべてを吸い尽くして、私という概念で脳を埋め尽くしてやるんですわ」
(……とんでもなく強欲で、恐ろしいアイドル宣言だな)
だが、リーザは悪びれる様子もなく、ふわりと微笑んだ。
「その代わり、彼らの人生に『宇宙一の幸せな時間』を味わわせてあげますの。それが、アイドルである私の覚悟ですわ」
俺は、ハッとした。
社畜時代の俺の時間は、常に会社と上司に奪われ続けていた。
深夜残業、休日出勤、終わりの見えない理不尽な業務。そこに見返りなどなく、ただ魂がすり減っていくだけの虚無の時間。
もしあの頃、どうせ奪われるのなら、その代わりに「宇宙一の幸せな時間」を約束してくれる存在がいたとしたら、どれほど救われただろうか。
俺は小さく息を吐き出し、ぽりぽりと頭を掻いた。
「……俺には、そんな眩しい夢なんてないよ」
「え?」
「世界をどうこうしたいとか、誰かを幸せにしたいとか、そんな大層な目標はない。ただ定時で帰って、平穏に生きたいだけだ。だから……せめて、お前のそのバカみたいにデカい夢を、応援するよ」
俺の言葉に、リーザは一瞬目を丸くして、それからパァッと花が咲いたような笑顔を見せた。
「スポンサー様……! 嬉しいですわ! では、早速スポンサーとしての初仕事をお願いしますの!」
リーザがパチンと指を鳴らすと、何もない空間から、掃除機のホースが接続された「木製の古びた賽銭箱」がドスッと現れた。
「はい、お賽銭をお願いしますわ!! 御縁(五円)が積もれば山となりますの!!」
ズゴゴゴォォッ! と掃除機型賽銭箱が猛烈な吸引音を立て始める。
(情緒が台無しだよ!! 感動の余韻を三分くらい残せ!)
俺は呆れながら財布を取り出し、中からピカピカの五円玉を取り出して賽銭箱へ放り投げた。
チャリーン、という小気味良い音が鳴る。
「よし。俺の就業時間はとっくに終わってるから、帰るぞ」
「ああっ、スポンサー様!? もう一枚、せめてもう一枚お願いしますわぁーーッ!」
リーザの情けない叫びを背中で聞き流しながら、俺はポポロ・コーポへの帰路についた。
* * *
夕闇が完全に広場を包み込んだ後。
一人取り残されたリーザは、賽銭箱の中にポツンと転がっている一枚の五円玉を、そっと手に取った。
いつもなら「ちぇっ、たった五円ですの」と舌打ちしてポケットに突っ込むところだが、今日の彼女は違った。
その五円玉を両手で包み込み、胸の奥にぎゅっと抱きしめる。
「……スポンサー様」
ギャグのように明るく振る舞っていた彼女の表情が崩れ、エメラルドグリーンの瞳から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出した。
「……生まれて初めて、私の歌を、最後まで聞いてくれた人ですわ」
深海から親善大使として陸に上がり、誰にも見向きもされず、泥水を啜りながらみかん箱の上に立ち続けてきた。
その孤独と屈辱を、ただ一人、最後まで見届けてくれた男がくれた五円玉。
それは彼女にとって、どんな宝石よりも価値のある、たった一つの希望だった。
* * *
翌日の夕方。
リーザの路上ライブには、信じられないことに観客の姿があった。
しかも、一人ではない。三人に増えている。
だが、その中に一人、ニタニタと下品な笑みを浮かべる、柄の悪い男が混ざっていることに、この時の俺たちはまだ気づいていなかった。
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