EP 10
「定時退社の、はずだった」
時計の針が、ゆっくりと頂点に向かって進んでいく。
十七時五十九分五十八秒、五十九秒――そして、十八時ジャスト。
空中に浮かぶポータル画面から『ピコン』という小気味良い音が鳴り響いた。
【本日の就業時間を終了します。お疲れ様でした】
画面の端で点灯していた緑色のランプが消え、ステータスがオフラインに切り替わる。
「よし……! 今日も無事に定時退社だ」
俺は誰に言うでもなくガッツポーズを決め、ネクタイを緩めながら大きく伸びをした。
前世のブラック企業時代、十八時なんていう時刻は「午後の業務の折り返し地点」でしかなかった。そこから終電までの六時間が本当の戦いであり、定時で帰る奴など都市伝説の類だった。
だが、ここは異世界。俺のスキル【福利厚生】が定めた絶対の労働基準法が守られる、夢のようなホワイト労働環境だ。
俺は一直線に浴室へと向かい、一番風呂の準備を始めた。
数日前にリーザによって無断で「肉椎茸農園」に改造されかけた浴槽は、俺の厳重な清掃と消毒により、無事に本来の白さと清潔さを取り戻している。
湯船にたっぷりと熱いお湯を張り、肩までしっかりと浸かる。
「はぁぁぁ……生き返る……」
思わず親父臭い声が漏れた。
適度な疲労感をお湯に溶かしながら、目を閉じる。肉椎茸まんの屋台は今日も完売し、リーザのステージも大成功に終わった。
トラブルもなく、クレームもなく、完璧な一日だった。
風呂から上がり、冷蔵庫(支給品で購入した魔導式の保冷庫だ)の中でキンキンに冷えている麦酒の瓶を一瞥する。
(……とりあえず、火照った体を冷ましがてら、外の空気を吸ってから最高の状態でこいつを開けるか)
俺はタオルで髪を拭きながら、ポポロ・コーポの自室のベランダへと出た。
初夏の夜風が火照った肌を撫でていく。
ポポロ村の夜は静かだ。だが、今日の静寂は、いつもとは何かが違っていた。
「……静かすぎるな」
普段なら、村のあちこちから夕飯の支度をする匂いや、酒場でドワーフたちが騒ぐ声、あるいは畑から変な作物の叫び声が聞こえてくるはずなのだ。
ふと、眼下の畑を見下ろすと、いつもなら土から頭を出してペチャクチャと村の不倫ゴシップを撒き散らしている喋る香味野菜『ガーリッ君』が、今日は様子がおかしかった。
「……オ、オジサン……」
泥にまみれたガーリッ君が、小刻みに震えながら俺を見上げている。
「どうした。今日は随分と大人しいじゃないか。隣の奥さんの浮気調査はどうしたんだ」
「……アカンねん。今日は、そんなん言うとる場合ちゃうねん……。なんか、山のほうから、めっちゃヤバい『死の匂い』がしてきよる……。ワシ、今日はもう深くまで潜って寝るわ……」
言うが早いか、ガーリッ君はズボボボッと自ら土の奥深くへと潜り込み、完全に姿を消してしまった。
(……あのウザ絡みしてくる野菜が、本能で恐怖している?)
俺の総務としての危機管理センサーが、ピリッと反応した。
嫌な予感を抱えたまま、俺はサンダルを突っかけてコーポの一階へと降りた。
村の中央広場の方へ歩いていくと、オレンジ色の街灯の下に、村長のキャルルが一人で立っていた。
「村長。こんな時間まで、残業ですか」
俺が声をかけると、キャルルはビクッと肩を揺らして振り返った。
その表情は、いつもの明るく快活な彼女とは打って変わり、酷く険しいものだった。頭頂部の純白の兎耳が、まるで高性能のレーダーのようにピンと直立し、ポポロ山の方向へ向かって小刻みに震えている。
「リクト君……。いえ、残業というわけではないのですが」
キャルルは自分の腕を抱くようにして、山を睨みつけた。
「山が、泣いているんです。……私の耳には、聞こえるんです。分厚い岩の向こう側で、何かがギリギリと爪を立てて、外に出たがっているような、そんな嫌な音が」
彼女の『絶対嘘発見器』とも言える超感覚は、人間の心音だけでなく、大地の微細な異変すらも捉えているらしい。
その時、広場の奥から、重い蹄の音が駆け寄ってきた。
「村長! いるか!」
息を切らして現れたのは、自警団リーダーのマンミアだった。彼女の表情もまた、尋常ではない焦燥に駆られていた。
「マンミアさん。どうしたんですか、そんなに慌てて」
「つい先程、ポポロ山を巡回していた警備隊から報告が入った。……以前からヒビが入っていた古代の封印石だが、その亀裂が急激に拡大しているらしい。内部から濃密な瘴気が漏れ出しており、いつ決壊してもおかしくない状況だ!」
(……なるほど。これがファンタジー世界特有の『フラグ』というやつか)
俺は内心で冷静にツッコミを入れながら、マンミアに尋ねた。
「マンミアさん。最悪のシチュエーションを想定したいのですが、その封印が解かれた場合、何が出てくるんですか?」
「記録によれば、太古に封じられた凶悪な魔獣……おそらく、災害指定クラスの化け物だ。もし村に向かってくれば、家屋は蹂躙され、甚大な被害が出る」
災害指定クラス。
その言葉を聞いた瞬間、俺の脳内で『BCP(事業継続計画)』のファイルが自動的に開かれた。
前職の総務部で、俺は地震や火災などの大規模災害を想定し、会社の資産と社員の命を守るためのマニュアルを何度も改定してきた。
もし、この村が魔獣に蹂躙されればどうなるか。
俺の平穏な生活拠点であるポポロ・コーポは破壊され、肉椎茸まんのサプライチェーンは寸断され、リーザが歌うためのステージも木っ端微塵になる。
そんなことは、俺の『福利厚生』が許さない。
「村長、自警団の戦力で迎撃は可能ですか」
「やってみなければ分かりません。ですが、相手が規格外の魔獣となれば、村への被害をゼロに抑えるのは不可能です……」
キャルルが悔しそうに唇を噛む。
俺は深く息を吐き、二人に告げた。
「状況は理解しました。情報の共有、ありがとうございます」
俺は広場に二人を残し、きびすを返してポポロ・コーポの自室へと戻った。
部屋の冷蔵庫を開け、よく冷えた麦酒の瓶を取り出す。
表面に結露した水滴が、蛍光灯の光を反射してキラキラと輝いている。
テーブルに麦酒を置き、栓抜きの縁を引っ掛けた。
プシュッ、と小気味良い音を立てて蓋を開ける――寸前で、俺の手はピタリと止まった。
(……待て)
もし、今夜から明日にかけて、その「災害」が村を襲うとしたら。
俺が今、ここでアルコールを摂取し、判断力を鈍らせることは、危機管理の観点からして正しい行動だろうか?
否。いざという時に避難誘導もできず、ポータル画面の操作も誤るような「酔っ払った総務」など、ただの足手まといだ。
「…………」
俺は無言のまま、栓抜きをそっとテーブルに置いた。
そして、麦酒の瓶を握りしめ、冷蔵庫の奥深くにそっと戻し、扉を閉めた。
俺の平穏な定時退社ライフは、どうやら危機に瀕しているらしい。
被害を最小限に抑えるためには、事前の根回しと、完璧な避難計画の策定が不可欠だ。
俺は窓の外の暗い山を睨みつけ、小さく呟いた。
「明日の朝イチで、村長に相談だ」
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。




