9話 記憶の断片
時刻は夜の8時より少し前。
鳳雅は担当クラスの生徒、奥村春貴の話を聞くため職員室の廊下に出る。
「どうしたのかな? 何か質問?」
「あ、いえ……えっと、そうじゃなくて」
春貴は俯いたまま言い淀み、鞄を持つ手に力を込める。
それ以上言葉の出ない様子に、鳳雅は困ったように首を傾げた。
「談話室に行きましょうか? その方が、落ち着いて話せるでしょうから」
「は、はい」
春貴は上目遣いで鳳雅を見上げ、後をついて談話室へと入っていく。
「どうぞ」
椅子を引いて春貴を座らせると、鳳雅は向かいの席に腰かける。
「落ち着いたら話してください。何でも相談に乗りますよ?」
鳳雅は優しく微笑み、春貴の言葉を待った。
春貴はしばらくキョロキョロと視線を動かし、太股に置いた手を固く握る。
「……あの」
「ん?」
数分後、ようやく出た言葉に、鳳雅は体を前に屈めて耳を傾ける。
「俺、特進クラスを……辞めたいんですけど」
「えっ、それは……どうして、かな?」
春貴の言葉に驚き、鳳雅は目を見開いた。
鳳雅が担任のクラスは1年の特進クラスで、授業内容は他のクラスに比べ難しい。
これまでは入学試験のボーダーラインを越えた生徒のみが対象だったが、今年度から希望者であれば学力関係なく入れるように変更された。
正直なところ、春貴の学力はそれには及ばず、全体で見ても下のレベル。
それでも授業態度はとても真面目で、鳳雅に質問に来ることもよくあった。
真面目で勉強熱心な生徒だと思っていた春貴が、その決断に至った経緯。
考えうる様々な可能性が、一瞬のうちに鳳雅の頭に浮かんでいく。
(どうしてそんな事を……確かに授業内容は厳しいけど、今回のテストでは点数も上がっていた。僕の指導が至らなかった? いや、他の生徒からの評価は良いし、そんな筈は。イジメ……は可能性が低いか? 生徒同士の仲は、僕が見る限り悪くない。そもそも皆必死で、他に干渉する余裕もなさそうだし)
「……俺、頭良くないから。特進の授業に、付いていけないんです」
ポツポツと話し始める春貴に、鳳雅はハッと我に返った。
「そ、そんなことないですよ。奥村さんは真面目で、よく頑張っていますし。まだ採点途中ですが、テストの点数も前回よりアップしていましたよ? 付いていけていないなんて、そんなことは」
必死にフォローする鳳雅だが、その言葉は春貴には響かない。
春貴はぎゅっと結んだ口を開き、鳳雅の話を遮った。
「本当は入りたくなかったんです! 特進クラスなんてっ」
勢いよく放たれた言葉に、鳳雅は面食らったように硬直する。
こんなに感情を露にする春貴を見たのは、これが初めてだった。
「……奥村さんは、どうして特進クラスを希望したんですか?」
心を落ち着かせるように息を吐き、鳳雅は慎重に話をする。
春貴は不安に顔を歪め、数秒の沈黙の後言葉を絞り出す。
「俺は……この学校に入るだけでも必死だった。点数もギリギリで、進路担当の先生にも絶対無理だって言われたけど……母さんが、頑張りなさいって。俺なら絶対受かるって、いつも励ましてくれて……だから俺、母さんを喜ばせたくてめちゃくちゃ頑張った。けど、もう限界なんです! 特進クラスも、母さんの薦めで希望したけど……もうこれ以上、俺には出来ないって、わかったから」
鳳雅は彼の言葉を静かに聞き、間を置いて話をする。
「……そうだったんですね。そんなに悩んでいた事に気付かなくて、すみません。けど、結論を急がなくても……もう少し、考えてみませんか? せっかく結果も出てきていますし、授業の質問ならいくらでも付き合いますから」
話を聞いて、春貴はすっと視線を逸らす。
「今でも、いっぱいいっぱいなんです。それに、授業はどんどん難しくなってくし……夏休み前からずっと考えてたんです」
「そんなに前から……ご両親には、相談したんですか?」
「いえ、まだ何も」
「そうですか。言いにくい気持ちはわかりますが、ご両親の相談なしには決められません。もし話しにくいなら、僕も交えて話す場を持ちますから」
「……はぁ」
春貴の曖昧な返事に、鳳雅は努めて穏やかな笑みを向けた。
すると、春貴は遠慮がちに鳳雅を見つめる。
「先生は、昔から勉強が得意だったんですか?」
「……えっ」
鳳雅は言葉に詰まった。
正直な事を言っても、春貴の気持ちに寄り添えるわけでもない。
かといって嘘をつくような事でもない。
鳳雅は一瞬考え、真剣な表情で口を開く。
「僕の場合は、新しい事を学ぶのが好きで、勉強は苦じゃありませんでした。だけど、理解が出来ず苦手意識を持ってしまう、奥村さんの想いもわかります。でも僕は、諦めなければ努力は必ず報われると……そう思ってるんですよ」
それは常々思っている本心だ。
どんな人間も、努力をすれば必ず報われる。
病気や障害、それがある場合を除けば、皆が自分と同じように出来るはず。
普段あえて口にすることはないが、そういう信念が鳳雅の根本にはある。
しかし、春貴の表情は徐々に曇り、苦い笑みを浮かべていた。
「……やっぱり。先生に、俺の気持ちはわかりませんよね」
まるで、崖から突き落とされた感覚だった。
諦めたような声と、確かに張られた分厚い壁。
春貴の態度からそれを感じ、鳳雅は何も言い返すことが出来なかった。
「ごめんなさい。もう帰ります」
「……あっ、奥村さん!」
呼び止めた時には、もう既に戸は閉められていた。
鳳雅は力なく椅子にもたれ天井を仰ぐ。
「傷つけてしまった……のか?」
親しみやすく頭も切れる鳳雅は、働きだしてすぐに生徒からの評判も良かった。
それが今、自分のクラスの生徒から、明らかな拒絶を示された。
初めて他人から拒絶され、鳳雅は担任としても個人としても、どうすればいいのかわからなくなっていた。
◇
3月の初め。
外来の診察が終わり、喫煙所で休憩していた藍のスマホが鳴る。
「……はい、ほずみです」
「あ、先生。休憩中にすみません」
「大丈夫です。病棟の方で何か?」
「いえ、実は先程、来栖さんのご家族からお電話がありまして。先生にお話があるとの事ですが、診療中でしたので一旦切らせて頂いたんです」
「あぁ〜」
看護師の話を聞きながら、藍は呑気に声を上げる。
曖昧な藍の応答に、看護師は困惑したように話す。
「えっと……先生? どうしましょう、面談なら日程を調整してもいいですか?」
「あぁ、そだね。電話でも構わないなら、医局に内線繋いで? 面談がいいなら日曜でいいよ。ちょうど当直明けだし、向こうも仕事だろうからその方がいいでしょ」
「あ、わかりました。では、そのように伝えてみます」
「うん、よろしく」
的確な指示に安心したのか、看護師は明るい声で電話を切った。
藍は電子タバコを吸い込み、長いため息を吐く。
そして、ガラス扉に目をやり、自分の姿を鋭く睨んだ。
「そろそろ本題に入ってみるか」
灰皿に吸いかすを放り、藍は足早に喫煙所を出た。
その後、医局で待つ藍のもとに内線が鳴る。
気合いを入れて受話器を取るも、内容は看護師からの面談日程の報告だった。
「それでは、日曜の午前中に面談の方よろしくお願いします」
「は〜い、わかりました」
呑気な声で電話を切り、藍はデスクの上で頬杖を付く。
「……三日後」
藍は卓上のカレンダーを見つめ、しばらく考え込むように指で机を鳴らしていた。
◇
土曜日の晩。
当直の藍は、休憩前に気になる病室を見て回る。
「だいたいいつも通りか……あっ」
見回りを終えようとした時、藍は自分の足が自然と宰斗の病室に向かっている事に気付く。
「一応見とくか」
看護師から引き継ぎはしているので、だいたいの状態は見ずともわかる。
本来夜は異変のない患者を見に行くことはないのだが、藍はどうしても彼の様子が気になっていた。
「……失礼するよ」
ノックをして病室のドアを開けると、室内はすでに真っ暗だった。
(暗っ! 寝てるのかな? まだ9時前だけど)
よく目を凝らすと、ぼんやりとベッドに腰かけた宰斗の姿が見えた。
「わっ……起きてたの!?」
「……何だよ。こんな時間に寝れるわけねぇだろうが」
声を上げた藍が部屋の電気をつけると、宰斗は眩しそうに目を細めて文句を言う。
「起きてるなら明かりくらいつけたら? 気持ちも落ち込んじゃうし、見つけたら怖いじゃない」
「知るか。どうせ消灯で電気消すだろ」
「そうだけどさぁ」
藍は何気ない話をしながら、自然な流れで宰斗の隣に座る。
「おい、何座ってんだよ」
「ん? ちょっとお話しようと思って」
にっこりと微笑む藍を、宰斗は不審な眼差しで見つめる。
だがそれ以上は何も言わず、静かに俯いた。
「来栖くん、来週中に一般病棟に移る事になったよ」
「は? 一般病棟?」
宰斗は顔を上げて藍を見る。
「そ、最近は落ち着いてるみたいだし。行動範囲を広げた方が、リラックス出来るかもしれないから。まぁ、食事の方はまだ少ないけど……外に出るようになれば、食欲も湧いてくるかもしれないでしょ?」
藍が説明をする間、宰斗はふっと顔を背けて黙っていた。
「……不安?」
藍は宰斗の顔を覗き込み声をかける。
するとしばらくして、低く小さな声が聞こえた。
「……別にどうでもいい」
藍は優しく微笑むと、宰斗の背中に手をあてる。
「大丈夫。きっと近いうちに、元の生活に戻れるよ」
背中を擦りながら声をかけると、宰斗の体はピクリと揺れた。
「……えは……いのかよ」
「へ?」
「お前はいないのかよ……その、一般病棟に」
ふてぶてしく聞こえた声に、藍の頬は徐々に赤くなる。
そして、込み上げる笑いを堪えて激しく肩が揺れ始めた。
「な、何笑ってんだよ!」
「ひっ……別に、笑ってないよ」
「嘘つけよ! めちゃくちゃ笑ってるじゃねーか!」
宰斗に突っ込まれ、藍は堪えきれずに声を上げて笑いだす。
苛立ちを露にする宰斗をよそに、藍はひとしきり笑った後、息を整えて話をする。
「はぁ……ごめんごめん。大丈夫、僕もいるよ。ってゆーか、一般病棟は同じ階だし。ここは同じフロア内で閉鎖部屋と一般部屋に分けられてるんだよ」
藍の説明を聞き、宰斗は無言のまま一気に顔を紅潮させる。
「もしかしてさ、僕がいない階に行くとでも思って心配だった?」
「う、うるせぇ! 別にそんな意味で言ったんじゃ……もう寝る!」
宰斗は藍を押し退け、逃げるようにベッドに潜り込んだ。
(まさか……こんなかわいい反応されるなんて。様子見に来て良かった)
背を向ける宰斗を見下ろし、藍は口元を押さえて満足そうに微笑んでいた。
そしてまた、ゆっくりとベッドに腰を下ろし、布団の上から宰斗の体を擦る。
大事なものに触れるように優しく、愛おしそうに。
「ねぇ、顔見せて?」
耳元で囁くと、宰斗は苛立ったように藍の方を向く。
「……チッ、早く出ていけ」
振り向いた宰斗に、藍はそのまま唇を重ねる。
薬を飲ますための力業ではなく、軽く触れるだけの優しい口づけ。
宰斗は驚いて目を見開き、そのまま固まってしまっていた。
「おやすみ……よく眠れるといいね」
放心状態の宰斗を背に、藍は何事もなかったように病室を出ていった。
しばらくして我に返った宰斗は、ポカンとしたまま布団に潜り込む。
「初めてじゃ、ない」
記憶の中に埋もれていた以前の感覚が、宰斗の頭にぼんやりと甦る。
それは、暴れる自分を押さえつけ、無理矢理に唇を塞ぐ藍の姿だった。




