8話 幻影と本当の心
「……精神科医、失格か」
藍は湯船に浸かり天井を見上げる。
昼間の宰斗に対する言動は、どう考えても精神科医としてありえない。
そもそも、これまでの自分の感情も、既に医者としては異常と言える。
——俺に、君を愛させてよ
不意に自分の言葉が蘇り、藍はムズムズと顔を歪める。
「……はっず!!」
藍は突然大声を上げ、耐えられないように両手で顔を覆った。
「やばいって、恥ずかしすぎでしょ俺! しかも、おんぶまでしてさぁ! はぁ……酒井くんに見られてなくて良かった」
自分の行いが次々とフラッシュバックし、藍は軽い自己嫌悪に呑まれていた。
そのまま湯船に顔を半分沈め、ブクブクとゆっくり息を吐く。
(……でも、俺はああしたかった。彼の体、気持ちに触れたかったから)
しばらくして湯船の中から立ち上がり、藍はポタポタと水面に落ちる雫を見つめる。
なぜ、そこまで宰斗に惹かれているのか。理由は自分でもわかっていない。
けれどこうなった以上、もう主治医としてまともな判断は難しい。
精神科医が患者に恋愛感情を持てば、中立的な治療が出来ないとされている。
それは禁忌で、最も制御の難しいこと。
(自分には無用の心配だと思ってたのに……まさか、男が相手なんてな)
藍は嘲るように笑い、浴槽を出た。
フェイスタオルで体や頭を拭きながら、あえて気持ちを切り替えようと別のことを考えてみる。
(そういえば、また学会の時期だな。まだ何も準備してないけど、そろそろ臨床データまとめておかないと)
「……今日は酒井くんが当直か。宰斗くん、眠れてるかな」
考えていることとは別のことを口走り、藍は頭を拭く手を止めハッとする。
「はぁ……こりゃ重症かも」
藍は深いため息を吐き、むしゃくしゃとタオルで頭を擦った。
◇
宰斗はベッドで布団にくるまり、床頭台に置かれたデジタル時計をじっと見つめる。
無音で増えていく秒数。
眠れない時は、それを見つめるくらいしかやることはない。
スマホなどの通信機器は禁止され、娯楽は兄の鳳雅が持ってきた数冊の本だけ。
しかし、そもそも娯楽を楽しむ心の余裕などはない。
それに肝心の本は、ビリビリに破られ読むことは難しい。
(……あ、4時44分44秒)
同じ数字が並ぶ瞬間だけ、僅かに心が動く。
宰斗はもう何時間も、こういった事を繰り返していた。
(痒い)
宰斗は何気なく右手の甲を引っ掻く。
すると処置のガーゼが外れ、硬くかさぶたになった傷跡が露になった。
ざらざらとした触り心地に、宰斗は無意識に藍の手を想像する。
「ざらざら……カサカサの手……冷たいけど、ほんのり暖かい……事あるごとに、俺の顔、体に触る、触れる」
(でも、不快じゃない……何でだ?)
取り留めの無いことをブツブツと呟き、頭の中では藍の顔や、昼間のことがループする。
顔をしかめ寝返りを打つと、藍に後ろから抱きしめられた時のことが浮かんだ。
(あの時……何も出来なかった。抗おうと思えば、いくらでも出来たの筈なのに)
「まさか、あいつの言葉を真に受けてるのか……甘い、耳触りのいいだけの言葉を……くだらない」
(愛情なんか存在しない……あの家で、俺は嫌という程それを味わっていた……何も、誰の心も信用できない。そう、決めたんだよ)
今までの考え、思いが揺らぐ。
自分が壊れていくような感覚。
いったい、今までの自分は何だったのか。
脳内には、これまで自分が嘲笑い、故意に傷つけた者の顔が次々と浮かんでいく。
『先生……先生は優しくて、いつも笑ってくれて……なのにどうして、そんな酷いことを言うの?』
——佐伯、真美。教育実習中、俺に告白しようとした女生徒。馬鹿だと思った。取り繕うのが面倒で、だから笑ってやった。本当の俺を見せてやったんだ。
『全部嘘なんでしょ? その笑顔や、優しい言葉も。じゃあ、本当の先生は何? 本当だと思ってるその姿も、偽物なんじゃないんですか?』
——偽物? 俺が? この気持ちも全部、嘘?
『だってそうでしょ? ずっと偽り続けている人だもの。他人を嘲笑ってるその姿も、偽物かもしれないじゃない』
佐伯真美は断続的に、楽しそうな笑い声を上げる。
本来の彼女とは似ても似つかない邪悪な笑顔。
心の中で、彼女の幻は不躾に宰斗に詰め寄っていく。
——違う……これが本当の俺だ! 愛情だなんだの、ただの思い込みと執着。自己満足に過ぎないんだよ!
『……どうして怒ってるの? 宰斗』
——暁那
いつの間にか佐伯の姿は消え、次に現れたのは高校時代の同級生、望月暁那だった。
暁那は憐れむような表情で、宰斗を覗き込む。
そして、落ち着いた声で話し始める。
『本当の事なんでしょ? なのにどうして、怒る必要があるの? どうして苛つくの? あの時、僕のアパートに来た時も、笑ってたけど苛ついてた。僕の体に触れた手も、唇も……乱暴で、酷く苛々してたんだ』
——苛ついてなんかない! ただ、わからせてやろうと思っただけだ!
『辛いんでしょ? 愛されなかったことが。本当は寂しくてしょうがないんだよ……どんなに努力しようと、愛されようとしても、母親は、両親は絶対に君を見てくれないから』
——違う!! 俺は誰にも期待なんてしていない! ただ、あいつらにわからせたいだけだ! 俺の存在を……俺を認めさせて、後悔させるために!
『でも、苦しいのは何故? そうやって生きてきたのに、どうして今、苦しんでいるの?』
——それは……終わったから……俺の目的、存在証明が……もう、出来ないから……ただの、屈辱が続くだけ
宰斗の言葉に、暁那は不意に笑顔を見せた。
『そう……僕も苦しんでるんだよ? 少しはわかった? 僕の気持ち……君が散々傷つけてきた人たちの気持ちが』
——うるさい……うるさいうるさいウルサイ煩い! 消えろ……キエロ、消えろよ!!
心の中で叫ぶと幻は消え、また暗い静かな病室に戻った。
「……くそっ」
宰斗は体を丸め、布団の中で震えていた。
自分の本心、今までどうやって生きてきたのかさえ、わからなくなっていた。
——「色んな感情を僕にぶつけなよ……今まで周りに隠していた、君の本心を」
心の中で、藍が真っ直ぐに自分を見据える。
「俺の本心? 知らねーよ、そんなの……わからねぇんだよ」
呟く声は不安に満ちて、子供のように心細く震えていた。
◇
「来栖先生、まだ残りますか?」
「あ、はい。もう少しで終わるので」
放課後、鳳雅は職員室の机に向かう。
2月の末。
ちょうど学期末試験が終わり、教師たちは日々遅くまで残り各クラスのテストの採点に追われていた。
「早いですね。私はまだまだかかりそうで、明日に持ち越しですよ。では、お先に失礼します」
「えぇ、お疲れさまです」
挨拶の後、鳳雅はペンを置き、椅子にもたれて背伸びをする。
教師として働き始めて4年。クラス担任を任されて2年目になる。
仕事自体に慣れたものの、やることは山ほど出てくる。
どれだけ早く作業をこなしても、残業の多さは相変わらずだ。
けれど、生徒たちの成績を上げることは、やりがいと達成感を与えてくれる。
鳳雅は教師という仕事が好きで、自分でも天職だと思っていた。
「そうだ……一応母さんに連絡しておこう」
鳳雅はスマホを手に、疲れた顔で文章を打つ。
母は精神的に不安定で、宰斗ともに不安の種。
仕事中に連絡は控えるように伝えているが、この日も既に20件以上も通知があった。
「もう、二週間以上は経つな」
宰斗の面会を禁止されてから、病院からの連絡はない。
藍と話をしてからと言うもの、鳳雅は自分の家の事を深く考えるようになった。
両親に信頼され、愛されていた自分。
自分に追い付こうと、勉強を頑張っている弟。
鳳雅はそれを認めていたし、気持ちを伝えていたつもりだった。
なのに、医者ではあるが他人である藍に告げられたのは、宰斗が自分に怯えているということ。
(いったい、いつから宰斗は……何に、怯える必要がある?)
「わからない……」
堂々巡りだった。
いくら理由を考えても、鳳雅には宰斗を理解できなかった。
鳳雅は昔から、他人を深く理解できない。
表面上の感情を読み取ることは出来ても、相手の心を考え、慮ることが出来ない。
昔からそれに気付くことはなく、両親の宰斗に対する態度も、躾による厳しさの範囲だと思っていた。
だが、優秀で人当たりもいい鳳雅に、周囲の人間は自然と一線を置く。
それゆえに、それを指摘する人間はいなかったのだ。
「あ……続きやらなきゃ」
ほんの数分の休憩を終え、鳳雅は再びペンを握る。
その時、ひとりの生徒が職員室のドアを開けた。
「……あの」
「奥村さん? まだ残ってたんですか」
「すみません。ちょっと、話を聞いてもらいたくて」
鳳雅のクラスの男子生徒、奥村春貴。
目立たない生徒で、成績は下から数えた方が早い。
彼とはあまり話をしてこなかったが、自分を頼ってのことならと、鳳雅は優しい笑顔で応じた。
「大丈夫ですよ。外で話しましょうか」
「はい、ありがとうございます」
奥村は不安げな瞳で鳳雅を見上げ、小さな声で返事をした。




