7話 愛すること
「ふんふ〜ん、ふ〜ん♪」
藍は鼻唄を歌いながら、宰斗を背負って病棟内を悠々と歩く。
通り過ぎる患者は、それを不思議そうにじっと見つめた。
看護師に至っては、目と口を見開いたまま固まり、だらだらと冷や汗を流す始末。
藍はそれを気にも止めずに、笑顔で会釈を返していった。
「お疲れさま。あ、今中庭って開いてる?」
藍に話しかけられた看護師は、一瞬時が止まったように立ち尽くす。
「へっ!? は、はい……ちょうど、伊藤さんが使って」
「そっか、ありがと」
爽やかな笑顔に誤魔化されかけたが、看護師はふと我に返り声を上げる。
「……って、ちょっと先生! その、どうして来栖さんが」
「ん? あぁ、ちょっとね。気分転換」
当然のような顔で返され、看護師は開いた口が塞がらなかった。
「気分転換って……なんでおんぶ?」
一方、ずっと背中に背負われていた宰斗は、ひたすら藍の肩に顔を埋めていた。
髪の分け目から覗く首は赤く染まり、しがみつく腕はふるふると震える。
公衆の面前で同じ男に背負われるという、羞恥心に駆られる行為。
宰斗はそれに耐えられず、ただ見られないよう顔を隠すしかなかった。
(外出たら静かになっちゃった……ま、いっか)
「ふ〜ん、ふふ〜ん♪」
藍は体をリズムよく揺らし、再び鼻唄を口ずさむ。
「……おい、その歌をやめろ」
背中で明らかに不機嫌な声が聞こえ、藍はチラリと視線を動かす。
「何で? 楽しくない?」
「くそが……耳障りなんだよ」
少し震えた低い声と息づかいが、藍の首もとをくすぐる。
「いや〜ん、くすぐったい」
「チッ、気色悪ぃんだよ!」
藍の悪ふざけに、宰斗は青ざめた顔で喚いた。
「ふふふ、元気になってきたじゃないの……さ、怒ってるうちに着いたよ」
藍は笑いながら、押し入るように肩で中庭の扉を開ける。
不貞腐れた宰斗が顔を上げると、ヒヤリと冷たい空気が吹き込んだ。
2月の下旬。
まだ身に染みる冬の風と共に、午後の日差しには春の気配を微かに感じる。
しばらくぶりの外の空気と日光を浴び、宰斗は目を細めまた顔を背けた。
「うー寒っ! 晴れてるけど、まだ結構冷えるねー」
よっこいしょと声を出し、藍は腰を屈めようやく宰斗を地面に降ろした。
裸足のままだった宰斗は、不機嫌な顔で足元を見る。
「……おい」
文句を言おうと顔を上げると、藍はにっこりと外用のサンダルを差し出した。
「どうぞ。裸足よりマシでしょ」
宰斗はそれを奪い取るように受け取り、地面に放って足をつっこむ。
「よし、じゃあこっち」
藍は宰斗の腕を引き、陽当たりの良いベンチの方へ歩く。
宰斗は半ば諦めた顔で、抵抗すること無くとぼとぼと足を進めた。
ここ6階には、広めに作られたバルコニーが造られている。
入院患者たちの憩いの場であり、作業療法の一貫で園芸や家庭菜園が行われる場所だ。
当然万が一を考え、使用時間以外は必ず施錠されているし、付き添い無しで患者が使用することはない。
ほんの限られた時間であっても、患者たちの癒しの空間として大切に扱われている。
(たくさんの花……冬も咲くのか)
宰斗はベンチの前に立ち、ぼんやりとした顔で辺りを見渡す。
身を寄せ合うように咲く小さい花々。大きく赤い花に、控えめな大きさのカラフルな花。
それらが階段上のラックの上に並べられ、どれも綺麗に色づいていた。
良く手入れされているが、特に珍しいものでもない普通の花壇。
しかし、宰斗はしばらくそこから目を離せなかった。
「綺麗だよね……園芸療法ってやつでね、ここの患者さんたちが育てたんだ」
藍はひとつの花を掬うように触れ、穏やかに目を細める。
宰斗はそれを眺め、黙ったままベンチに腰を降ろした。
「花とか全然わかんないんだけど、凄いよね。こんなに綺麗に育てられるなんて」
藍は話しながら、同じように宰斗の隣に座る。
大股を開きベンチにもたれる藍を見て、宰斗は怪訝な様子で話し始めた。
「……何がしたいんだよ。こんなとこに連れてきて」
「え? ただの気分転換だけど」
ポカンとした顔で返され、宰斗はイラつき徐々に声を大きくする
「そんな事……わざわざ男を背負ってまでやることじゃないだろ」
「せっかく連れてきてあげたのに、嬉しくないの?」
「誰が頼んだんだよ! あと嬉しいわけないだろうが!」
「……まぁ確かに、頼まれてはないね」
のらりくらりとした会話に、宰斗は怒りを露にしていく。
「お前、マジでいい加減にしろよ」
宰斗に鋭く睨まれ、藍はふと真面目な顔で彼を覗き込む。
「何で怒ってるの?」
煽りとは違った純粋な問いかけに、宰斗はぐっと息を飲む。
「死にたいんだよね? なのに、どうして怒るの?」
「……はぁ?」
意味がわからず、底知れない怖さから宰斗は半笑いで聞き返した。
「怒るのにも、エネルギーがいるんだよ」
宰斗の怯えた様子を察し、藍は微笑みながら体を離す。
「来栖くん、最近までよく暴れてたでしょ? 薬のせいもあるけど、それによってある程度思考が止まってたはずだ。余計なことを考えないように」
「……よく、覚えてない」
「だろうね。けど今は違う。気分が落ち着いて、そのせいで現状を過度に悲観して……自分の存在価値を見失っている」
淡々とした話に耳を傾け、宰斗は動揺から無意識に自分の胸を握りしめた。
その様子に目をやりながら、藍は冷静に話を続ける。
「でも、今は僕に対して怒ったり、呆れたりしてる。これって、実はすごく良い傾向なんだよ?」
藍は宰斗の背中をポンと軽く叩き、にっこりと微笑む。
宰斗は一瞬ピクリと跳ねたが、恐る恐る藍に視線を向けた。
「だからさ、余計なこと考える暇が無いくらい、色んな感情を僕にぶつけなよ……今まで周りに隠していた、君の本心を」
宰斗は下唇を噛み締め、悔しさの滲む目を背ける。
しばらくして振り絞った声は、か細く不安に震えていた。
「……何なんだよ、お前は」
「ん? 君のお医者さん」
軽い調子で返されても、宰斗は何も言わなかった。
藍は穏やかに笑ったまま、ゆっくりと彼の頭に手を伸ばす。
「なっ」
反射的に振り払おうとした時、藍は手に持った小さな葉を見せた。
「葉っぱ、髪についてた」
宰斗は戸惑いに目を見開いたまま、しばらく動きを止める。
藍はフッと軽く吹き出すと、くしゃくしゃと宰斗の髪を撫で回す。
「や、やめろ!」
「ははは、いいね。面白い」
宰斗が激怒してもなお、藍は笑い声を上げながら頭を撫で続けていた。
その時、ひとりの高齢者女性が二人に歩み寄り声をかける。
「まぁまぁ、ほずみ先生。駄目ですよ、お兄さんを苛めたら」
「え? あぁ! 伊藤さん、今日もご苦労様です」
女性に話しかけられ、藍はようやく手を止める。
その隙に宰斗は体を離し、ぐしゃぐしゃの髪を整えていた。
「来栖くん、こちら615号室の伊藤さん。ここの園芸リーダーさんだよ」
宰斗は女性をチラリと見て、無言で顔を背ける。
しかし女性は特に気にもせず、呑気に話を始める。
「大きなお兄さんね。先生と同じくらい」
「あははー、でも僕の方が大きいんですよ」
「まぁ、そうなの? うちの孫なんて、よく昔から背が小さいって苛められてねぇ。大きいくていいわねー」
「……そうですか」
藍は一瞬だけ声色を変えた。
それに気付き、宰斗はふと彼に視線を向ける。
「そう言えば、お花結構増えましたよね」
藍は自然に話を変えた。
「うふふ、そうでしょう? パンジーに、シクラメン。あ、クリスマスローズっていうのも育ててみたのよ」
「へぇ〜。僕は全然知らないけど、どれも凄く綺麗ですよ」
「ふふふ、ありがとう先生」
女性は嬉しそうににっこりと微笑む。
その後、女性はすぐ作業療法士に呼ばれて中庭を後にした。
「ほずみ先生、戸締まりお願いしていいですか?」
「あ、はい。やっておきます」
作業療法士から鍵を受け取り、藍はまたベンチに腰を降ろす。
「……伊藤さんね、家族いないんだよ」
「えっ……」
突然の話に、宰斗は言葉に詰まった。
驚く宰斗の姿に、藍は少し寂しそうに微笑む。
「個人情報だから、これ以上話せないけど。彼女はずっと、幸せな妄想から抜け出せないんだ」
藍は空を仰ぎ、ぽつぽつと話を続ける。
「でも、それでいいんだ。もう高齢だし、それで伊藤さんの状態が落ち着くならね」
黙って話を聞いていた宰斗は、ふと静かに口を開く。
「……家族がいたって、同じだ。ただの血の繋がりだけで、存在しないもののように扱われる。家族なんて、いないのと変わらない」
何の望みも感じない、震えた暗い声色。
藍は黙って、静かにその声に耳を傾けた。
「俺の本心? そんなの聞いて何になる……気色悪い母親と、無関心な父親、天才の兄。その中で、俺は所詮出来損ないのクズだった。散々他人を嘲笑って、下に見て……最後は結局、こうして俺が堕ちる始末。なぁ、おもしれぇか? 何とか言えよ」
宰斗は藍の胸ぐらを掴み、力を込めて引き寄せる。
藍はされるがまま、ただ真っ直ぐな目で宰斗を見つめていた。
「……は、お前にわかる筈ないか」
吐き捨てるようように言い、宰斗はパッと手を離す。
「……部屋に帰る」
しばらく黙って、宰斗はポツリと呟き立ち上がった。
「待って」
藍は咄嗟に宰斗の腕を掴み引き留める。
そしてそのまま、後ろからふわりと抱きしめた。
「ねぇ……誰かを愛したことって、ある?」
「は?」
「君は一度でも、誰かを本当に愛したことがあるの?」
唐突な問いかけに宰斗は声も出ず、ただドクドクと心臓だけ騒ぎ始める。
「……ない」
たったそれだけ、振り絞るのがやっとだった。
「そっか」
藍は、宰斗の耳元で小さく笑って呟く。
それから腕に力を込め、きつく宰斗を抱きしめていく。
「俺は好きだよ……君の事」
囁く声に、宰斗は目を見開いた。
「……俺に、君を愛させてよ。宰斗くん」
(意味が、わからない……何でコイツは、俺に、執着する……愛なんて、単なる思い込みに過ぎないのに)
混乱する頭と、自然と高鳴っていく鼓動。
未知の感覚に戸惑い、硬直し。宰斗は何も言えなくなった。
ただそっと、藍の腕に手を這わせることしか出来なかった。




