6話 人の価値
目を開けると、いつも白い殺風景な壁や天井が目に入る。
何もない白い部屋は異常に恐ろしくて、じりじりと見えない何かが迫ってくるようだった。
そのうち、自分でも抑えられない衝動に襲われて、拳が壊れるまで夢中で壁を殴り続けた。
でも、いつの間にか無理矢理止められて、また深い眠りに飲み込まれる。
そんな日々を繰り返していたような気がする。でも、記憶はおぼろげで、所々抜け落ちて。
断片的に、印象的なことだけが頭に残っている。
吹き出す赤い血。だんだんと赤黒く染まる壁。
けれど、また白い壁に戻る。
全く食欲のわかない食事。
けれど、毎日決まった時間に運ばれてくる。
うっすらと目を開けた時に見える点滴。有無を言わさず体内に入ってくる液体。
けれど、起きた時にはなくなっている。
変なことばかりで、自分が一体、何故こんなところにいるのかもわからない。
そしてもっと変なのは、あいつだ。
あの、ヘラヘラしたデカイ医者。
ほずみ、らん……
八月一日藍、変な名前。
カサカサした手で、馴れ馴れしく俺の顔や唇を触る。
でも、何故か動けない。目を逸らせない。
八月一日藍は俺の主治医。ここは、病院。
自ら死ぬことも許されないと、あいつはそう言った。
じゃあ、俺は何のためにここにいる?
何も出来ず、ただベッドで寝て、天井を見つめて、運ばれる食事を口にする。
そんな毎日に何の意味がある。もう、俺には何の価値も無いのに。
——生きる為に価値が必要なら……俺がいくらでもつけてやる。
くだらない。お前なんかに何が出来るって言うんだ。
本当の俺を知らない。ただ弱った俺を面白がっているに過ぎない。
それ以外、あいつが俺に興味を持つ理由はない。
終わりのない劣等感。
どれだけ取り繕って、死ぬほど努力しようと、俺はあの家で認められない。
居ないもの、空気のように扱われるだけ。
そんな人間の事を知って、何になるって言うんだ。
「はっ……本当にくだらない。虫酸が走るわ」
◇
「スマホが気になって眠れない、ですか」
「はい。私、配信してて、その……エゴサが止まらなくて」
「へぇ〜、配信者さんですか」
外来の診察中。
藍は若い女性患者の話を聞きつつ、キーボードで情報を打ち込でいく。
「夜職のために始めたんですけど、反応とか気になって。嫌なこともいっぱい書き込まれて、見ちゃダメだって思っても止められないっていうか。それを見ちゃって落ち込んで、眠れなくなっての繰り返しなんです」
話をする女性の目は赤く充血して、肌の状態も悪い。
藍はタイピングが終わると、女性の方へ体ごと向き直る。
「ふむ、なるほど。確かに、嫌な言葉ほど頭に残りやすい。気になってつい見てしまうというのも、お気持ちはわかります。他に、何か症状はありますか? 頭痛や眩暈、吐き気がしたりとか」
女性は俯き、しばらく考えてから顔を上げる。
「ベッドから起き上がった時に、眩暈と頭痛が結構……食欲がなくて、家ではほとんどサプリで済ませます」
「あぁ〜」
話を聞きながら、藍は残念そうに声を漏らした。
「それは当然、体に良くないですね。とりあえず軽めの睡眠導入剤と、漢方薬をお出しします。それで様子を見て、またいらしてください」
「はぁ……わかりました」
藍の説明を受けても、女性は変わらず浮かない表情だった。
その様子を見て、藍は優しく微笑みかける。
「お仕事のストレスが、かなり大きいのではないですか? どうか無理をなさらず、環境を変えてみるのもひとつの方法ですよ。まだお若いですし」
患者の気分が軽くなるように、ちょっとした助言のつもりだった。
しかし藍の言葉に、女性は目にうっすらと涙を滲ませる。
「す、すみません。行きすぎたことを言って」
「何も出来ないんです……昔から何をやってもダメで、バカにされて。私もう、この仕事しかないんです」
藍の言葉を遮り、女性は声を震わせ語った。
「無責任な言い方をして、大変申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げた藍に、女性は慌ててキョロキョロと目線を動かす。
「そ、そんな、謝らないで下さい」
動揺して涙が引っ込んでしまった女性を見て、藍は優しい笑みを浮かべた。
「……お優しいんですね」
「へっ!?」
女性は驚き、すっとんきょうな声を上げて頬を染める。
「けれどやっぱり……逃げられる状況なら、逃げた方がいい。辛いことを我慢した先で、あなたが幸せになれないのなら」
「で、でも……私は何も」
「自分で決めつけてしまわないで。人を気遣えることは、案外誰にでも出来ることじゃない。あなたの優しさは、まだ見ぬ誰かの力になるかも知れない」
「誰かの、力に?」
「はい、それはもう凄い力に」
キョトンと呟く女性に、藍は少しおどけた口調で返した。
診察室を出る時、女性は照れ臭そうに微笑んだ。
藍は彼女を会釈で見送り、軽く首を回して体をほぐす。
「……劣等感。他者と比較し、自分が劣っていると感じること」
パソコン画面を見つめたまま、藍はひとり呟いた。
(人によっては、それが原動力になる場合もある……けれどその先で、自分を認め評価出来なければ、負のループに陥ってしまう)
——俺は、俺はもうあいつの上には立てない……惨めに、あいつの下で這いつくばっているしかない。
——これから一生、あいつを見返すことなんて叶わない……俺の人生は、終わってるんだよ!!
藍はふと、宰斗の憔悴した叫びを思い出す。
「おそらく彼も、強い劣等感を抱いている……まるで物語の主人公のような、真面目で出来のいい兄に対して」
鋭く目を細め、藍は暗くなったパソコン画面を睨む。
ぼんやりと画面に映った顔は、自分でも驚くほど怖い顔をしていた。
「あら……こわーい顔」
藍はそれを鼻で笑い、また次の患者を呼び込むのだった。
◇
その日の午後。
藍は入院患者の回診のため、病室を巡っていく。
「あれ、中井さん。また新作が増えてるじゃないですか!」
病室の壁に貼られた絵に気付き、藍は声を弾ませまじまじと見つめる。
「えぇ! 今日描いたんですよ〜。昔アメリカで寿司屋を営んでましてね。休みの日によく見に行ってたんですよ。この自由の女神を」
「へぇ〜、それは凄いですね! 僕も中井さんの握ったお寿司食べてみたいですよ」
「是非是非、先生にならいくらでもご馳走しますよ〜」
長期入院患者の高齢男性、中井勘吉、御年80歳。
故郷に生まれ、これまで一度も日本を出たことはない。
重度の統合失調症で入退院を繰り返しているが、こうして絵を描き始めてからは、比較的症状は落ち着いている。
(認知症も入ってきて、だいぶ支離滅裂だけど。最近機嫌良いし、体調はいいんだよな)
「あはは、ありがとうございます。じゃあ、また今度様子を見にきますね」
「はい!」
中井の生き生きとした笑顔を見て、藍は嬉しそうに微笑んで部屋を出た。
「さて……最後は来栖くんか」
そう呟く藍の足取りは軽く、口元はニヤニヤと綻ぶ。
宰斗の病室の前、藍はピタリと足を止め深く息を吸う。
それからゆっくりと息を吐いて、普段通りの笑顔でドアを開けた。
「失礼しまーす。こんにちは、調子はどう?」
病室に足を踏み入れると、宰斗は返事もなく、布団にくるまったまま。
藍は軽くため息を吐き、ベッドに歩み寄る。
本当に寝ているだけかもしれない。
そう思い、出来るだけ物音をさせずに近寄る。
「……来栖くーん?」
小さな声で呼び掛け、背を向けた宰斗を上から覗き込んだ。
すると、鋭い目がギョロリと動き、不機嫌そうに藍の顔を睨む。
「わぁっ! ビックリした〜」
藍は大声を上げて身を引くと、バクバクと動悸のする胸を押さえた。
「ふぅ〜、起きてるなら返事しなよね?」
不満を漏らすが、宰斗は変わらずベッドから出ず返事もない。
藍は呆れつつも、ベッドに浅く腰かける。
「何? 眠いの?」
藍の問いかけに少し間を置いて、宰斗は静かに返事をする。
「……うるさい」
無愛想な一言の返事に、藍は軽く吹き出した。
「ふっ、なんか反抗期の子供みたいだね」
藍は口では笑いながらも、宰斗の布団をポンと優しく叩く。
しばらく何も言わず、リズムよく布団越しに体を叩くと、宰斗は観念したのかムクッと起き上がった。
「やめろ……底辺のヤツを見下すのが、そんなに楽しいか?」
真っ直ぐに睨み付けられ、藍は驚いたように瞬きを繰り返す。
「何だよ。図星で何も言えねーのか」
黙ったままの藍に呆れ、宰斗はまた布団を持ち上げる。
「底辺って、君のこと?」
「あぁ?」
「そんな発想無かったなー。正直、君の学力って相当でしょ? 来栖くんが底辺なら、世間の大半はド底辺ってことになっちゃう」
キョトンと答える藍を、宰斗は理解できないといった表情で見ていた。
そんな姿に、藍はフッと口元を緩め話を続ける。
「顔色、少し良くなったね。相変わらずご飯は食べてないみたいだけど」
「はぁ……どうでもいいだろ」
「来栖くんは、ご飯何が好き? 僕は鶏肉とブロッコリーかな。あ、もちろん胸肉ねー。僕よくジムで筋トレしてるんだけど、やっぱり食事にも気をつかわないと効率悪いし。運動不足解消のために始めたつもりが、すっかり本格的になってきちゃって」
一人ペラペラと話す藍を、宰斗は黙ったまま怪訝そうに見つめていた。
「……よく喋るな。医者って暇なの?」
ようやく開いた口から出てきたのは辛辣な言葉。
藍は笑顔のまま、片方の眉をピクピクと動かした。
「ほんとに……言葉の切れ味最高だよね、来栖くん」
皮肉を口にしながら、藍はふと、骨が見えそうなほど細い宰斗の手に視線を移す。
そして、何か思い付いたようにニヤリと笑った。
「若者がベッドでじっとしてるだけじゃ、体力が有り余るんじゃない? ほら、最近暴れてないし」
「お前……喧嘩売ってるのか?」
「そんな、滅相もない! 僕はただ……」
話の途中、藍は突然口を閉ざし俯く。
そして、片方の口角をつり上げると、勢いよく宰斗の布団を取り上げた。
「なっ!? お前、何して」
「ちょっと失礼〜」
藍は勢いのまま、宰斗の両腕を引いてベッドに座らせ軽々と背負う。
標準より慎重のある宰斗だが、それを難なくおんぶされ暴れる隙すらなかった。
「お、お前……やめろ! 早く降ろせ!」
「あははは! 軽い軽い〜。やっぱちゃんと食べなきゃダメだね」
「てめぇ、ふざけてんじゃ」
「ふざけてないよ」
藍が真剣な声色で返すと、宰斗はぐっと押し黙る。
そして、藍は前を向いたまま、ゆっくりと歩みを進めていく。
「……たまにはさ、外の空気吸ってみない? とっておきの場所があるんだー」
藍は首を捻り、楽しそうに微笑む。
何がそんなに楽しいのか、呆れるくらいに無邪気に笑う男を、宰斗は困惑の眼差しで見つめていた。




