5話 想い浮かぶ顔
数日後、藍は回診のため病棟を訪れていた。
「お疲れさま。皆さん、変わりないかな?」
「先生! お疲れさまです。そうですねぇ……特に、大きな変化は」
ナースステーションに行くと、看護師は慌ててパソコン画面を確認していく。
「あ、601の来栖さん、薬を変更してから自傷行為が軽減してますね。相変わらず食事の摂取量は半分に満たないことが多いですが」
「そっか。まぁ、とりあえず良い傾向かな。これまで通り、しばらく栄養剤の点滴は続けてくれる?」
「はい、わかりました」
看護師に指示した後、藍はいつもの順で病室を巡っていく。
ここの入院患者は、半数以上が高齢者。
現役の頃に精神を病み、人生の大半を病院で過ごす患者。
統合失調症、幻視、激しい強迫観念や被害妄想。加えて認知症の症状も進行していく人も少なくない。
そういった患者と接していると、いつの間にか自分の感情まで揺さぶられていく。
共感能力の高い人間こそ、その心配は大きく、この仕事を辞めていく要因のひとつ。
本来患者に関わっていく上で、その共感能力こそが大事であるにも関わらず。
しかし藍は最初から、患者に対し一線を引いて接している。
それは無意識の自己防衛のようなもので、敢えてそうしている訳でもない。
ただひとりの例外、来栖宰斗を除いて。
「……失礼しまーす」
回診の最後の部屋。
601号室のドアをノックし、藍は軽い調子で声をかけ入室する。
しかし次の瞬間、藍はぎょっと目を見開いた。
「来栖くん!?」
宰斗は拳の包帯を外し、自分の首に巻き付けていた。
チラリと藍を見るも、宰斗はまた手を動かし始める。
藍は平静を装いながら、宰斗のそばへ駆け寄った。
「……包帯取れたんだ。ついでに傷の具合も見てみよっか」
藍は笑顔を浮かべ、適当な言い訳を口にしながら首の包帯を外していく。
その間、宰斗はベッドに腰かけ、無言のまま動かない。
(自傷の次は希死念慮……俺がいる時で良かったよホントに。はぁ、あらかじめネットを使用しとくべきだったな)
反省しながら手を動かす藍は、ふと宰斗と目が合った。
瞳孔と同化したような、真っ黒で光のない瞳。それがただ、真っ直ぐに自分を見据えてくる。
到底目を逸らすことの出来ない、吸い込まれそうな闇だった。
藍は息を呑み、努めて平常心で声をかける。
「……どうしたの? 話したいことがあるなら何でも」
「何で、邪魔するんだ?」
藍の言葉を待たず、宰斗は僅かに首を傾げ口を開いた。
感情を持たない人形のような顔で。
「何のこと? あ、もしかして、イケナイことしようとしてた? まぁ個室だし、来栖くんまだ若いから止めはしないけどさぁ」
彼の言葉の意味を理解しながら、藍はわざと惚けた返事をする。
「くだらない冗談はやめろ。笑えねぇんだよ」
想像通り言い返されてしまい、藍は呆れたように微笑んだ。
「ふっ……話が出来るようになったはいいけど、それはそれで小憎らしいよね。君って」
藍は宰斗の手を取り、傷の様子を見ながら皮肉交じりに話す。
「お前に愛想振り撒いても、俺に何のメリットもない」
「ははは、確かにその通りだ」
嫌みか本心かわからない言葉を吐きながらも、宰斗は藍の手を拒絶していない。
(……でも、じっとしていてはくれるんだよな)
薬で抑えられているからでなく、今は彼自身の意思で受け入れている。
そう気付いた瞬間、藍は自分でも信じられないほどの喜びを感じた。
(まるで手負いの狼……いや、猛獣に懐かれたような気分かな)
無意識に緩む藍の口元を、宰斗はじっと見つめる。
「……何が嬉しい?」
「えっ」
藍は目を見開き、咄嗟に自分の口に手をやる。
「ごめんごめん。傷が良くなってたから嬉しくてね」
「どうして? お前には関係ないだろう」
「関係ないって……あのぉ、僕これでも医者なんですけど。自分の患者さんの様態が良くなれば、当然嬉しいでしょ」
呆れて言い返すと、宰斗は黙って俯いた。
それからしばらく無言が続き、藍は宰斗の手をぱっと離す。
「うん、これならガーゼだけで良さそうだね。包帯は取っておくよ」
包帯をポケットに入れ腰を上げようとした時、宰斗はボソリと呟く。
「死ぬことも出来ないのか」
それは悲しさと言うより、心底ガッカリしたような声だった。
「……どうして死にたいの?」
本来突き詰めて聞くべきではないこと。
だが藍は自然と、その言葉を口にしていた。
「別に理由なんてない。俺にはもう目的も、生きる価値もないから」
「生きる、価値」
「こんな何の意味もない人生、とっと終わらせた方がいい。惨めに、あいつらに見下され続ける人生なんて、永遠に終わらない屈辱だ」
宰斗はさも、そうすることが当然のように話をする。
彼の言葉に藍はピクリと眉を動かし、ゆっくりと立ち上がり宰斗を見下ろす。
「ただ生きるのに、価値が必要かい?」
藍の一言に、宰斗の瞳は僅かに揺れた。
そのまま黙り込む彼に、藍は冷静な口調で話を続ける。
「ここは病院で、君は僕の患者だ。ここにいる限り、君が勝手に命を絶つことは許されない」
「……傲慢だな」
微かに寂しさの交じる声に、藍はふっと柔らかな笑みを浮かべた。
「傲慢か……そう思われても仕方ないね。僕は結局、自分の立場を優先してる。でもね、僕は君に興味があるんだ」
藍の言葉に、宰斗はゆっくりと顔を上げる。
まるで、未知の生物でも見るような表情で。
「だから教えてよ……君が、こうなってしまった理由を」
藍は腰を屈め、宰斗の頬に触れる。
かさついた手を滑らせ、薄い唇に触れ、顎を持ち上げる。
宰斗は暴れることもせず、目を逸らさずに藍を睨んだ。
「生きる為に価値が必要なら……俺がいくらでもつけてやる」
愉しそうに上がる口角。
触れそうなほど唇が近づいた時、藍の胸ポケットのスマホが鳴る。
時間だと告げるように、ピリリリと無機質な音を響かせて。
「……呼び出しだ」
藍はスッと身を引き、何事もなかったように笑顔で電話を取る。
宰斗はそんな彼を静かに、無感情に見つめていた。
「はい……はい、わかりました」
業務的な返事をして、藍は通話を切った。
藍はスマホをポケットにしまい、いつもの笑顔で宰斗に振り返る。
「じゃあ、また明日。もう変なこと考えちゃ駄目だよ?」
背を向けたまま手を振り、藍は病室を後にした。
ドアが閉まった後、宰斗はぼんやりと天井を仰ぐ。
「やっぱりゲイじゃねーか……変態」
感情の起伏のない声で、宰斗はひとり呟きベッドに倒れ込んだ。
◇
その日、いつもより仕事が早く終わった藍は、一人で飲み屋に立ち寄っていた。
常連とまでは行かないが、たまにふらりと行くことのある近くの居酒屋。
隠れ家的な場所にあり客もまばらなところが、藍は気に入っていた。
「はぁ……うま」
藍はカウンターの奥に座り、ハイボールを一気に半分以上飲み干す。
藍には、どんな酒でもビールのように飲む癖があった。
一緒に注文したササミ串を噛り飲んでいると、あっという間に最初の一杯はなくなってしまう。
「すみません、ハイボールおかわり」
「はーい」
数分もしないうちに、目の前にハイボールが置かれる。
藍はそれをまた勢いよく飲んでいく。
(仕事終わりって、何でこんな酒が進むんだろ)
普段家で飲む事は無いものの、たまにこうして飲む酒が藍は好きだった。
多少残念なことと言えば、藍がいくら飲んでも酔えないザルだと言う点。
(これで気持ちよく酔えたら、もっと楽しいのかもなー。ま、味は好きだからいいんだけど)
それからしばらく酒の味を楽しんでいると、唐突に後ろからポンと肩を叩かれる。
突然のことにビクッと肩を揺らし、藍は後ろを振り向いた。
「酒井くん?」
「お疲れさまです! こんな所で会うなんて、奇遇ですねー」
後輩の酒井は、明るく話しながら当然のように隣に座る。
ついでビールの注文も済ませ、酒井は店員とも親しげに話す。
「ここ、よく来るの?」
「はい! 去年たまたま来ることがあって、それからちょくちょく。先生も常連ですか?」
「たまにね。それより、もしかしてデートで来たの?」
藍は意地悪げな笑みを浮かべ、酒井を横目に見る。
「ち、違いますって。たまたま、その……アプリで?」
「あはは、空振りだったみたいだね」
モゴモゴと歯切れの悪い酒井を見て、藍は声を上げて笑った。
「た、たまたま、合わなかっただけですよ」
酒井は不貞腐れた様子で、届いたビールを煽る。
「まぁ、そのうちいい人が出来るよ」
何の確証もないお約束を口にし、藍も同じようにウイスキーを流しこんだ。
「はぁ……わかってませんね。待ってるだけじゃ、恋人は出来ないんですよ? アグレッシブにいかないと!」
「そういうもん?」
「そうです! そもそも、僕は先生みたいにイケメンでもマッチョでもないんですから」
酒井は唇を尖らせ、仕事場よりも饒舌に話す。
「はは、褒めてくれるのは嬉しいけど。医者っていうだけで、案外寄ってくるんじゃないの?」
藍が何気なく言った言葉に、酒井はわかりやすく肩を落とした。
「それなんですよぉ……最初はチヤホヤされたって、いざ付き合うと会う時間が無さすぎて一ヶ月も持たないし」
「あー、よくある話だよね。こればかりは、理解のある人を見つけるしか」
「はぁ、そっすね」
酒井はすっかり落ち込んで、しばらく静かに枝豆をチビチビと食べ続けた。
「というか、先生はないんですか? そういう話」
「俺ぇ? うーん……」
思い出したように自分に話を振られ、藍は驚き目を開く。
(あんまこういう話題、彼と話すことないけど。正直に言っても仕方ないしな)
自分が恋愛感情に希薄なことを敢えて話すかどうか、藍はしばらく宙を見上げて考え込む。
「いないよ。もうしばらく」
悩んだあげく、藍は結局はぐらかして答えた。
「なんだー、一緒じゃないっすか! でも、ほずみ先生絶対モテそうなのに意外ですよ」
「そんなこともないよ。もしかしたら……まだ本当に誰かを好きになった事がないのかもね」
藍はため息混じりに、顔を背けて呟いた。
——「お前、ゲイなの?」
ふと、頭の中にあの時の宰斗の言葉が浮かぶ。
まるで人を信用していない声と瞳。
プライドの高い、高圧的な言葉。
心を病んだ今も、屈する事のない鋭い目。
触れた皮膚の感触、唇の温度が甦る。
無意識に宰斗のことを考え、藍の胸の鼓動は早く、高ぶっていた。
「どうかしました?」
不意に酒井に声をかけられ、藍は薄く口を開いたまま下唇を引っ掻くように触れる。
「……うーん、何でもない」
藍はそう言って、妖艶に目を細め、頬をほんのり赤く染める。
酒井はキョトンと目を開き、驚いて声が出なくなった。
(ふふ……案外、来栖くんの言う通りなのかも)




