4話 定着と乖離
真っ暗だ。体が重い。
指一本も動かない。目蓋も開かない。
何だ? 誰の声? はっきり聞こえない。何を喋ってる?
手だ。ほんのり温かい。
髪、頬……唇
これは誰の手? 何もわからない。
ただカサついた指の感触だけ。さわさわとくすぐったい。
目が開いた。何も見えない。ゆらゆらしてる。
——大■夫。ま※眠っ……いいよ。
やっぱり、はっきり聞こえない。
途切れ途切れで、わからない。
ゆらゆら揺れて……笑ってる。あいつみたいだ。
「あき、な?」
あ、声が出た。
暁那……なんで、あいつのことなんて考えてるんだ?
男のくせに、俺のこと何も知らないくせに。
勝手に好意を持って、勝手に傷ついた馬鹿なやつ。
散々おもちゃにしてやった。それなのにあいつは、俺の本性に気付きもしないで。
本当に馬鹿だよ。
けれど俺は結局、そんな馬鹿なやつに負けたんだ。
なんで、あいつの事を忘れられない?
思い込みの愛情を語るやつが、この世で一番虫酸が走って、心底軽蔑しているはずなのに。
——何か、辛いことあった?
初対面で、暁那は俺にそう言った。
俺の顔を見て、何もかも見透かしたような目をして。ムカつく。イライラした。
頭の中で、あいつの顔が揺れる。
男相手に、首まで真っ赤に染めて目を逸らす。汚れを知らない、あいつの笑顔。
むしゃくしゃする。ぐちゃぐちゃに汚してやりたい。
心の底からそう思った。
あぁ、また……まただ。真っ暗な海に落ちていく。
◇
「どういう事でしょうか。急に面会中止なんて」
「ん? 言葉の通りですよ。お兄様は、宰斗くんの精神状態に影響を及ぼす可能性が高いので」
にっこりと笑う藍を、鳳雅は鋭く睨んだ。
「どうしてそんな……この前だって落ち着いて静かに」
「それは怯えていただけです。落ち着いていたわけではありません」
藍は言葉を遮って反論する。
「怯えるって、僕に? そんなの何を根拠に……そもそも、面会の立ち会いもしていませんよね?」
鳳雅は明らかに苛立ち、低い声で言い放つ。
徐々に変貌する鳳雅の表情に、藍は薄く目を開き笑う。
「これでも、彼の主治医ですから。ちょっとした変化は見ればわかりますよ」
さらりと言い返され、鳳雅はぐっと言葉を詰まらせた。
すると、藍は優しい笑みで話を続ける。
「状態が落ち着けば、すぐにご連絡いたします。なので、しばらくはこちらにお任せください」
鳳雅は藍の目を真っ直ぐ見据え、ドアへ向き直る。
「……わかりました」
不服そうに返事をした鳳雅を見送り、藍はドスンと椅子に腰を降ろした。
「はぁ〜……ちょっと怒らせちゃったかな」
藍は天井を見上げ大きなため息をつく。
その表情はどこか、疲労よりも楽しさの方が勝っているように見えた。
「あの怒りはどこからか……家族の面会を制限されたから? それとも、自分のせいで弟が怯えていると見抜かれた焦りか」
ブツブツと口に出し、藍は鳳雅の言葉の意味を考えていく。
藍は昔から、人の心理を読み解くことが何より好きだった。
一見意味が無さそうな言動も、ひとつひとつ考えれば、パズルの要領でカチッとハマる。
それが何よりの快感であり、彼が精神科医を続ける理由のひとつでもあった。
◇
面会を絶ってから数日が過ぎた頃。
この日も藍は、毎度の事のように宰斗の急変に応対していた。
「後は僕が対応するから、君は仕事に戻って」
また壁を殴り続けていた宰斗を制止しながら、藍は看護師に声をかける。
「はい。でも、一人で大丈夫ですか?」
「大丈夫。僕の方がタッパも筋肉もあるし」
「あはは……では、お願いします」
おどけて返事をする藍に、看護師は乾いた笑いを漏らして病室を出た。
「さてと……さ、ベッドに戻ろうか」
叫んで身動ぎする宰斗の両腕を後ろ手に掴み、藍は笑顔のままベッドに連れていく。
藍がほぼ無理矢理ベッドに座らせると、宰斗は少し大人しくなった。
「あーあ、また血が滲んでるじゃん。ずっとこんな事続けてたら、いつまでたっても傷が治らないよ?」
小言を言いながら、藍は宰斗の包帯をほどく。
拳の関節の表皮は捲れ、真皮はじゅくじゅくと赤く潤んでいる。
強く握るからか、日に日に傷口が裂けて広がっているようだ。
ため息をつきながら淡々と処置をする藍に、宰斗はぽつりと呟く。
「……ほずみ」
その声に、藍は顔を上げて彼の顔を見る。
「当たり、よくわかったね。この苗字読める人、ほとんどいないよ?」
にっこりと笑い、藍はいつもと同じ会話を繰り返す。
当然この日も、いつもと同じだと思っていた。
「らん……ほずみらん」
続けて宰斗が呟いた瞬間、藍は大きく目を見開いて手を止める。
藍はごくりと息を飲み、ゆっくりと口を開く。
「……覚えてるの?」
戸惑いの混じる声に、宰斗は視線を手元から藍の顔へゆっくりと移していく。
真っ直ぐに見つめた目は、いつものように虚ろではない。
どこか暗い絶望を持った、光のない瞳だった。
「お前、ゲイなの?」
「は?」
何の脈絡もない予想だにしない質問。
あまりに唐突な問いに、藍はポカンと口を開けて固まった。
「この手……知ってる。カサカサで、俺の顔を撫でてた」
宰斗は思い出すように呟き、傷の処置をする藍の指を確かめるように触る。
藍は背筋がぞわりとした。
記憶が定着していく喜びと、これから彼の本心に近づけるかもしれない期待に。
「お前、だよな? 八月一日藍」
射貫かれた瞳から、目を逸らすことが出来ない。
藍は宰斗の目を見つめ、しばらく口を開くことが出来なかった。
「……そう? んー、いつのことか忘れちゃった」
おどけて誤魔化すと、宰斗は何も言わないまま鋭く目を細めた。
藍はそのまま手早く包帯を巻き、最後に宰斗の手をポンと軽く叩く。
「はい、出来上がり」
すると宰斗は、処置の終わった手を見つめたまま軽く指を曲げ伸ばす。
「なんだか、今日はいつもと違うね。頭がハッキリとしてる?」
「……わからない」
宰斗の返事はそれだけで、彼自身も戸惑いを感じているようだった。
「そっか……僕の感じだと、かなり違うように見えるよ?」
藍がにっこりと微笑むと、宰斗は彼の目をじっと見返す。
「明日から薬を変更しようか。今より軽いものだから、副作用も少なくなるはずだよ」
宰斗の返事はなく、説明はほぼ藍の独り言のようだった。
それでも藍は表情を変えず笑顔を保つ。
「じゃあね来栖くん、また明日見に来るから。今日はもう暴れちゃ駄目だよ」
藍は最後に、宰斗の様子をさらりと観察し病室を出た。
医局に戻る途中、藍は歩きながら宰斗の言葉を思い返す。
——お前、ゲイなの?
(参ったな……まさか、あんなこと言われるなんて)
心の声とは裏腹に、藍の口元は緩んでいた。
新しい興味を見つけた子供のように、わくわくと楽しそうに。
「けど実際どうなんだ? そう言えば、考えたこともないや」
これまで出来た恋人は女性ばかり。
そもそも藍には、自分から好意を寄せた相手もいない。
(昔淡白とは言われたけど、それなりに性欲はあるよなー。うーん……なかなか難しい事を聞くね、来栖くんは)
宰斗の言葉を特に重く考えず、藍は呑気な様子で宙を見上げていた。
◇
一人になった病室で、宰斗は仰向けで天井を見上げる。
「白い……ベッドと、サイドテーブル。それだけの部屋」
宰斗はゆっくりと視線を動かし、ぶつぶつと呟いた。
「あいつ、ほずみは医者。俺の、担当医……俺は、何でこんなとこにいるんだ」
(頭がおかしい……全部嘘か、作り物みたいな感覚。そうか、俺はおかしいんだ……はは、おかしいのは俺だ)
「ふふ、ふっ……はは、あははは」
(おかしい、可笑しい……可笑しくて、笑えるのに。笑えば笑うほど、虚しくて、馬鹿馬鹿しい。自分じゃない、こんなの)
「……自分て、何だ?」
そう呟いた瞬間、まるで目の前の世界が遠退いていくような感覚に襲われた。
背筋が凍りそうな寒気と吐き気。
宰斗は気が狂いそうな恐怖に、ひとり布団にくるまったまま震えるしかなかった。




