3話 家族のかたち
ポタポタと規則的に滴下する液体。
藍は点滴筒を見つめ、クレンメを親指でいじる。
宰斗はベッドの上で静かに眠っている。
ようやく汗が引き、さらりとした前髪を分ける。
目の下まで伸びた前髪がなくなると、白く滑らかな肌と長めの睫、痩せた頬が露になった。
(静かにしてれば……綺麗な顔してるのに)
藍はそのまま頬を撫で、指先を唇に滑り込ませる。
僅かに開かれた薄い唇。
そのまま下唇をなぞると、柔らかな感触と少しの体温を感じた。
「……色が戻ってきたな」
チアノーゼが出ていた唇は、安静にしたことで血色がよくなっているようだ。
藍は宰斗の容態を観察しつつ、優しく目を細めて見下ろす。
すると、宰斗は触れられた感触に気付いたのか、ゆっくりと目蓋を持ち上げた。
まだ虚ろなその目で、ぼんやりと揺れる目の前のシルエットをじっと見つめる。
「大丈夫。まだ眠ってていいよ」
目覚めた宰斗に、藍は優しく微笑み声をかけた。
「……あき、な?」
「え?」
ボソリと呟き、宰斗はまた目を閉じる。
微かに聞こえた名前に、藍は静かに考え込む。
(お兄さんの名前? そんな名前じゃなかった気がするけど)
悩んだ後、藍は病室を後にした。
その足でナースステーションに向かい、宰斗の記録を手にして腰を降ろす。
(やっぱり、違う名前だ)
家族構成や経歴を確認していると、ひとりの看護師が藍に声をかけた。
「先生、来栖さんは落ち着かれました?」
「うん、今はよく眠ってるよ。あ、そうだ……今日って、午前中に来栖くんのお兄さんが来られたんだよね?」
「はい! 凄く感じのいい方で、まだお若いのにとてもしっかりされてるんですよ! あ、来栖さんもイケメンですけど、それとはまた違った感じで」
看護師はうっとりとした表情で、途端に早口で語りだす。
「あぁ、そういう感想じゃなくて」
「え? あ、すみません!」
恥ずかしそうに俯く看護師に、藍は苦笑いで話を続ける。
「その、どんな雰囲気だったのかな? 険悪だったとか、そんなことは?」
「私が立ち会いをした感じでは、特に何も……着替えとかを持ってこられて、ほんの数分だけでしたし。来栖さんの状態も落ち着いてましたよ? ベッドに座って、ずっと静かでした。いつもみたいに興奮した様子もなくて」
(それは……落ち着いてたというよりは、むしろ逆だな)
「そっか、ありがとう。今度、そのお兄さんと少し話がしたいんだけど、面談の調整をお願いできるかな?」
「え、はい。わかりました」
「よろしく」
話を終え、藍は宰斗のファイルを閉じた。
家族関係の中に、「あきな」という名前は無い。
兄の名前は鳳雅。26歳で進学校の高校教諭、独身実家暮らし。
何故か両親を差し置いて、彼が第一連絡先となっている。
藍は当初、そのことに違和感を感じていたが、彼の経歴を考えてなんとなく納得はしていた。
(ご両親のこと……もう一度詳しく聞いておいたほうがいいかもな)
医局に戻った藍は、カルテの記録をしながら宰斗のことを考える。
錯乱した彼が発した言葉は、悲痛なほどの劣等感に溢れていた。
宰斗自身、中退にはなったが有名大学の教育学部に身を置いていた。
そこまで自身を卑下するほど、落ちぶれているとは到底思えない。
「なぜあそこまで、強烈な劣等感を抱いているんだ……」
藍は眼鏡を外し、難しい顔で目頭を摘まむ。
兄弟もおらず、他人に執着しなかった彼にとって、宰斗の本心は特に理解しがたい事案だった。
◇
「……病院から? 昨日面会行ったとこなのに」
日曜の昼間、鳳雅は病院からの着信を受ける。
不思議に思いながらも電話に出ると、担当の看護師からだった。
看護師は特に慌てた様子ではなく、落ち着いた声色で話す。
鳳雅は不思議に思いながらも、とりあえずホッとして話を聞く。
「何か、ありましたか?」
「いえ、大変急なことなんですが、担当医との面談をお願いしたく……ご都合はいかがでしょうか?」
「あぁ、わかりました。来週の土曜日なら、何時でも」
「ありがとうございます! それでは午前10時ごろに、病院の方へお越しいただいてよろしいですか?」
「はい、大丈夫です」
電話を終え、鳳雅はスマホを握ったまま軽いため息をつく。
「面談か……」
鳳雅は眉間にシワを寄せ、パソコン画面をぼんやりと見つめる。
その時、一階から母の大声が聞こえてきた。
「鳳雅〜! ちょっと来てちょうだいよ〜」
甘えたような声に、鳳雅は特に表情を変えずに立ち上がる。
母は、宰斗が入院してから精神的に不安定になった。
些細な事で鳳雅を頼り、以前にも増して彼を溺愛し依存している。
父は単身赴任中で、現状鳳雅がその代わりのような状態だった。
「どうしたの母さん」
母は散らかったリビングで酒を煽っていた。
鳳雅は穏やかな表情で、母に優しく声をかける。
その瞬間、母の顔はまるで10代の少女のように恍惚の表情に変わっていく。
◇
面談の日。
藍は当直明けで、医局で珈琲を啜っていた。
(結局あんま寝れなかったなー。こんな時に限って、急変が4件も起きるなんて)
普段はそこまで起こされる事が少ない精神科の当直だが、何故か昨夜は立て続けにスマホが鳴る始末。
薬の副作用による急な発熱、高齢患者の転倒に頭部打撲による出血などなど。呼び出される用件はバラエティーにとんでいた。
椅子に座って大あくびをかましていると、藍の胸ポケットのスマホが鳴る。
「はい、ほずみです」
「先生、来栖さんのご家族が来られてます」
「わかった。今行くよ」
電話を切り、藍は目を細め表情を引き締める。
「さて……何が出てくるのか」
カルテと病状の資料を脇に抱え、藍は鳳雅の待つカンファレンスルームへと向かった。
ドアの前、藍は落ちついた表情でノックする。
数秒後ゆっくりとドアを開け、にこやかな笑顔を向けた。
「お待たせしてすみません。担当医のほずみです」
「あ、お世話になっています、兄の鳳雅です」
鳳雅は立ち上がり、礼儀正しく一礼する。
藍も笑顔のまま、鳳雅と同じように頭を下げた。
「いえいえこちらこそ。あ、どうぞ座っててください」
鳳雅は促されるまま、少し固い表情で椅子に腰かける。
それを見届け、藍も机を挟んだ向かいの椅子に座った。
「あの……宰斗の様子は」
藍が資料を置く様子を見て、鳳雅は声をかける。
「そうですねぇ……今のところ変わりなく、興奮を薬で抑えている状態が続いてます。ここに来る前は、ベッドで眠っていました。ただ、いつも昼頃には切れて、また興奮されるんですけどね」
「そう、ですか」
簡単に病状を説明すると、鳳雅は困惑した表情で俯いた。
それを見て、藍は真剣な目で話を切り出す。
「今日は、病状の他にもお話がありまして」
鳳雅は顔を上げ、まっすぐ藍の目を見る。
「先週も面会に来てくれましたよね? その時の宰斗くんの様子についてお聞きしたいのですが」
「様子? そうですね……」
鳳雅は疑問に思いながらも宙を見上げ、記憶を辿るように話し始める。
「着替えを置くついでに、一言二言声をかけたくらいでした。宰斗は黙って頷くだけでしたし、特に変わったことは」
「なるほど。宰斗くんは、その……症状が出る前から、無口な方でしたか?」
「いえ……以前は、普通に会話が出来ていました。やはり、大学を辞めたことがショックだったのでしょうね」
鳳雅は本心からそう思っているような口ぶりだった。
(大学中退……これも、詳しい事情がわからないんだよなぁ)
「かなり難関な大学ですよね? 卒業間際の中退ですけど、何か事情があったんですか?」
「……大学側の説明では、弟が教育実習先で問題を起こしたと。詳しい事情は、プライバシーもあるので僕の口からは」
(言えないということは……被害を受けた側がいるということ。この話が真実なら、彼自身もかなり問題ありってことか)
「わかりました。貴重なお話、ありがとうございます」
藍はそれ以上言及せず、話題を切り上げる。
鳳雅はそれに安堵したように、軽く息を吐いた。
「最後にもうひとつお聞きしたいのですが」
「は、はい。何でしょう」
「ご両親は、どうなさってるんですか? キーパーソンはお兄様ですし、面会にもほとんど来られないので」
藍の質問に鳳雅はピクリと肩を揺らす。
「父は、単身赴任中で……母は少し、気持ちが不安定な様子でして」
「なるほど。もしよろしければ、うちの外来にいらして下さい。お話もお聞きできますし、お薬の調整で落ち着くかもしれませんし」
「ありがとうございます。本人にも、伝えてみます」
苦笑いを浮かべる鳳雅に、藍は穏やかに微笑む。
「お兄様はとてもしっかりされてますけど、あまり気負わないようにくださいね」
「はい……お心遣い感謝します」
(本当に絵に描いたような優等生だ。けど、それが逆に……)
鳳雅と話して、藍は少しだけ宰斗の境遇が理解できたような気がした。
「今日はお忙しい中ありがとうございました」
「いえ、では失礼します」
鳳雅が立ち上がり退出しようとした時、藍は唐突に声を上げる。
「あっ、ちょっといいですか?」
「はい?」
振り返り首を傾げる鳳雅に、藍は何食わぬ顔で宣告する。
「しばらく、宰斗くんへの面会はご遠慮ください」
「……は?」
にっこりと微笑む藍に、鳳雅は一転して怪訝な視線を向けるのだった。




