2話 無自覚な執着
その日、八月一日藍は当直明けのジムに励んでいた。
本来はすぐ休んだ方がいい。しかし藍は、この当直明けのトレーニングを日課にしている。
その方が体がスッキリして、かえって調子がいいからという理由だ。
(ふぅ……あっつ)
藍はランニングマシンから降り、タオルで汗を拭う。
休憩用の椅子に腰かけ水を飲んでいると、ひとりの男が藍に声をかける。
「先生? 久しぶりじゃん!」
目の前の男に見覚えがなく、藍は笑顔のまま静止する。
「すみません、どちらさまでしたっけ?」
「ちょっと! もう忘れちゃったんですか!? この前まで病院でお世話になってた田辺っすよ」
男の話を聞いてもなお思い出すことが出来ず、藍は目を細めて男をまじまじと観察する。
「病院で? 田辺……あぁ、あの! すっかり雰囲気が変わっちゃってわかりませんでしたよ」
ようやく思い出した藍は、スッキリした顔でポンと手を打つ。
「へへ、そうっすか? 実はあれから、仕事を変わって……今は結構いい感じっす」
「へぇ〜、それは本当に良かった」
藍の勤務する病棟は、入院対応だけでなく外来診察もある。
田辺はその外来の患者で、去年まで過敏性腸症候群で通院していた。
日常生活の過剰なストレスなどが原因で、突発的に腹痛や下痢を催す病。
主に通勤時間帯や大事な仕事の直前に起きることが多く、田辺も長くこの症状に悩まされていたのだ。
外来の時の印象は、内気で物静かな男だったが。目の前にいるのは、どう見ても明るいマッチョなお兄さんだ。
「お薬とか、色々話も聞いてもらって、お腹緩くなるのはほとんど無くなったんですけどね。職場が合わなかったってのもあって、今は在宅の仕事に変えたんです」
「そうなんですね。まぁ、ストレスは少ないに限りますから、これからも無理しない程度に……って、その感じじゃ心配ないか」
田辺の鍛え上げられた体を見て、藍はクスクスと笑う。
「あははは! 体が鈍らないように始めたんすけど、すっかりハマっちゃって。もうムキムキっす」
「いいじゃないですか。カッコいいですよ」
にっこりと微笑むと、田辺は恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「えへへ。じゃあ先生、また今度」
「はい。お大事に」
ついいつもの癖で言うと、田辺は吹き出し大笑いする。
「もう、病院じゃないっすよ!」
「あ、あっはは、そうでしたね」
軽く会釈をしていく田辺を見送り、藍は天井を見上げ深呼吸をする。
「元気そうで、良かったなー」
呟いた言葉は、もちろん本心から。
症状が寛解して日常生活に戻っていくことは、医者である藍自身にとっても喜ばしいことだ。
藍は昔から、他人に強い思い入れを抱くことはない。
それは主に、恋愛において。
たまに言い寄られることもありはしたが、いざ付き合っても長続きはしない。
おそらく藍の気持ちの希薄さが、無意識に相手に伝わっていたからだろう。
しかし、人への興味がなければ、わざわざ精神科医を選ぶこともない。
ただ彼は、特別な思い入れ、執着を持たない性格なのだ。
「……いつもなら、そろそろ暴れだす時間帯か」
ふと壁の時計を見ると、ちょうど14時を回った頃。
藍は無意識に宰斗のことを思い浮かべる。
普段は勤務が終われば、仕事のことを考えることはないのだが。
ここ最近、藍はプライベートでも宰斗のことを考えることが多くなっていた。
(今日の担当は、酒井先生だったか……対応、大丈夫かな。まぁ酒井先生ももう3年目だし、病棟にも慣れてきて)
思案しながら、藍はふと我に返る。
「俺、何で病院のこと考えてんだろ……はぁ、コンビニ寄って帰ろ」
些細な変化は自分でも気付くことはなく、藍はいつものようにマンションに帰っていった。
◇
数日後。
藍は外来の診察を終え、喫煙所で煙草を吸う。
普段は吸うことはないが、外来終わりだけは一服するのが習慣になっていた。
長居をするつもりはなく、1本吸った後にすぐ出ようとすると、そこにちょうど酒井医師が入ってくる。
「あ、ほずみ先生! ちょっと、聞いてくださいよー」
酒井は藍の顔を見るなり、泣きつくような声で喚く。
「どうしたのー? また看護師さんに小言でも言われた?」
ため息混じりに適当な返事をすると、酒井は藍の腕を引き無理矢理に座らせる。
「違います! 601の来栖さんですよ! この前も大暴れでほんと大変で。薬も飲んでくれないし、5人がかりでやっと抑制帯付けれたんですから」
「あぁ〜、やっぱり?」
おおよそ想像通りの展開が繰り広げられていたことに、藍は苦笑いで天を見上げる。
「暴れたときに股間にヒットしちゃって、もう一瞬気絶しそうだったんですから!」
「それはまぁ、お気の毒だね」
「呑気なこと言ってー。僕は先生みたいに筋肉もないんですから、あのパワーは対応しきれませんよ」
酒井は愚痴を止めないまま、器用に煙草を吸っている。
「何とかコミュニケーションが取れれば、きっかけになるかも知れないんだけど。今日もこの後様子見てくるよ」
「お願いしますよぉ」
情けない声の酒井に、藍は呆れたように微笑んだ。
(酒井くんは身長も平均的だし、病人とはいえ来栖くんが暴れたら止めるのは難しいよねぇ)
バリバリと頭を掻き、藍は喫煙所を後にした。
その日の午後。
閉鎖病棟の回診をする藍は、最後に宰斗の病室を訪れた。
ドアの前に立ち一呼吸置き、飄々とした態度で病室のドアを開ける。
「失礼するよー。来栖くん、調子はどうかな?」
声を掛けながら中の様子を伺うと、宰斗はベッドに腰を掛けて俯いていた。
(あれ? 今日は暴れてない)
いつものように暴れて物が散乱した様子もない。
藍は不思議に思いながらも、そばにあった椅子に腰かける。
「もしかして、今日は調子いいのかな?」
そういって宰斗の顔を覗きこむと、彼は小刻みに震え、ガタガタと歯を鳴らしていた。
初めて見る様子に、藍は思わず声を上げそうになる。
「……大丈夫? ゆっくり息、出来る?」
藍は椅子から立ち上がり、宰斗のとなりに腰かける。
そして声を掛けながら、彼の背中に触れようとした。
「やめろ! 触るな!」
案の定、宰斗は藍の手を振り払った。
弱々しく息を乱し、髪が濡れるほどの冷や汗を流しながら。
(どうしてこんなに……看護師からの報告には、特に変わったことは)
事前に聞いた宰斗の情報を思い返し、藍はある事に気付く。
(確か、今日はご家族の面会があった! もしかして、それが原因か?)
看護師の報告では、ちょうど藍が外来診療の時間帯に面会があった。
今回は兄だけで、時間は数分程度。
ほぼ顔を見ただけで終わったらしい。
(それがこの怯えようの理由? 俺が会ったのは入院時の説明の時だけだが……聡明で、何かあるようには見えなかったな)
頭を悩ませながらも、藍は宰斗の様子を観察する。
呼吸は浅く、唇にチアノーゼも出ている。
よく見ると首筋まで汗が伝い、服も湿っているようだ。
すぐにバイタル測定といきたいところだが、拒絶されては余計に消耗させてしまう。
藍はしばらく考えた後、ある賭けに出る。
「……お兄さんと、何かあった?」
藍の静かな問いかけに、宰斗は一瞬肩を揺らした。
(やっぱりそうか)
「今日、お兄さんが来たんでしょ? 何か話したの?」
「う、うるさい! お前には関係ない……早く出てけよ!」
宰斗は両手で頭を掻きむしり、錯乱し大声を上げる。
両足は次第に落ち着きなく、貧乏ゆすりのように震えだしていく。
これ以上は興奮させるだけかもしれない。
それがわかっていても、藍は追求することを止めなかった。
「君とお兄さんはどういう関係? 何か、わだかまりか……確執のようなものがあるんじゃ」
「うるさい、うるさいうるさいウルサイうるさい! 俺は、俺はもうあいつの上には立てない……惨めに、あいつの下で這いつくばっているしかない。これから一生、あいつを見返すことなんて叶わない……俺の人生は、終わってるんだよ!!」
大声で喚いた宰斗は激しく咳き込む。
藍が咄嗟に背中を擦ると、宰斗は咳をしながらも身動ぎ抵抗する。
必死に睨み付ける目も、すでに苦痛に歪んでいた。
その目を見た瞬間、藍の中で何かが弾ける。
「いい加減にしろ!」
「っ!?」
大声で怒鳴った藍に、宰斗は一瞬怯む。
藍はそのまま、宰斗の体をきつく抱き締めた。
「いっ……は、はなせっ」
骨が軋む程強い抱擁に、宰斗は小さく呻く。
それでも藍は、ただ静かに宰斗を抱き締めていた。
ほどなくして、宰斗の力は抜けていく。
腕はだらりとベッドに落ち、藍はゆっくり気絶した宰斗をベッドに寝かせる。
その後、藍は静かに宰斗を見つめ、ポケットからスマホを取り出した。
「……ほずみです。601号室、来栖さんに至急点滴の準備を。抗不安薬の混合で。はい、お願いします」
看護師に指示を出し、藍は宰斗の張り付いた髪を分ける。
暖房はついていても、今は2月。それでもこんな滝のような汗をかくほどに、宰斗にとって兄の存在は大きい。
藍は自分のハンカチで宰斗の汗を拭い、看護師が来るまで静かにそばに付き添っていた。




