1話 獣の手懐け方
「来栖宰斗……23歳男、無職。約2ヵ月前に○○大学を中退。以降から部屋に引きこもり、自傷や家族への加害行為により医療保護入院の運びとなる。現状、投薬で意識は朦朧としているが、身体的には落ち着いている……か」
ある精神科病棟の医局で、ひとりの医師は患者のカルテを読み上げる。
黒が少し混じった銀髪と細めの眼鏡。長身で、スクラブから覗くのは医師に似つかわしくない鍛えられた上腕。
(俺の7つ下……まだ若いのに、なぜこうも壊れてしまったのか)
昼休憩が終わった直後、眉間にシワを寄せる彼のもとに看護師が慌てた様子で訪れる。
「ほずみ先生! 601号室の来栖さんが急変です!」
「はぁ、またか」
ほずみ医師はため息をつきながら白衣を羽織り、ステートをポケットに突っ込み医局を出る。
このように呼び出されるのは珍しいことではない。
むしろ日常茶飯事。特に、彼が入院してきてからは。
◇
ほずみ医師が看護師と共に病室に行くと、ドア越しにも大きな叫び声が聞こえていた。
(まった派手にやってるなぁ)
ほずみ医師はドアの前で深呼吸をし、にっこりと微笑んだまま病室の鍵を開けて入る。
「失礼しまーす。あ、来栖くんこんにちは! どうしたの? なんか大きな声が聞こえたんだけど」
足を踏み入れて目に入ってきたのは、拳から血を流し壁際に立つ、来栖宰斗の姿だった。
宰斗はピタリと動きを止めたまま、しばらくして首だけをゆっくりと動かし医師を見る。
その目は虚ろで、まるで無感情だ。
「誰だよ、お前」
暗く沈んだ声色。
その一言に、ほずみ医師はピクリと目元を動かした。
「やだなぁ、来栖くんの担当医のほずみだよ。もう何度も顔見てるでしょ?」
平常心で話しかけながら、ほずみ医師はゆっくりと宰斗に近づく。
「あぁ、またこんな怪我して……ちょっと見せてくれる」
彼の拳にそっと手を差し伸べた瞬間、宰斗はパシッとその手を弾く。
「触るな!」
弾いた宰斗の手が当たり、ほずみ医師の眼鏡はカシャンと床に落ちた。
「先生、大丈夫ですか!?」
声を上げた女性看護師に、ほずみ医師は制止するように右手を上げた。
そして、落ちた眼鏡もそのままに、何食わぬ顔で宰斗に歩み寄る。
「……ぐっ」
壁に追いやり、血の流れる右腕を強く握ると、宰斗は小さく呻く。
「こんなになるまで壁殴って……これで何度目かな?」
今までのひょうきんな言葉遣いとは違い、静かな怒りがこもる声。
その声に、宰斗は無表情のままフッと目を逸らした。
言葉は無いが、抵抗を止めた彼に、ほずみ医師は表情を緩める。
「前の傷もまた開いてるし。ほら、処置するからベッドに座って」
ほずみ医師は宰斗の腕をぐいっと引いて歩く。
「後は大丈夫だから、君はもう仕事に戻っていいよ」
「は、はい。失礼します」
ほずみ医師は看護師を退室させ、ベッドに座った宰斗に向かい椅子に腰かける。
そして、傍に落ちていた眼鏡を掛けると、言葉なく淡々と処置を行っていく。
「……ほずみ」
宰斗は医師の白衣に付いた名札を見て、ぼんやりと呟く。
その名札には、八月一日と書かれていた。
「ふっ……凄い、よく読めるね。この名前初見で読める人、君が初めてだよ」
宰斗は特に反応を見せず、じっと処置される手を眺める。
「ちなみに、名前は藍ね。女みたいでしょ?」
「らん……ほずみ、らん」
「そ。両方名前みたいだよねぇ」
この他愛のない会話は、今日でちょうど15回目。
精神的ストレスと投薬による副作用。
それが彼に、健忘の症状を引き起こしているからだ。
けれど藍は、毎回初めての会話のように反応する。
宰斗を否定せず、気持ちを落ち着かせるように穏やかな笑顔を向けて。
それは精神科医として当然のことで。
それ以上の意味や感情は無い。
「はい。出来たよ」
処置が終わり包帯の巻かれた手を、宰斗は顔の前にやりゆっくりと動かす。
藍はポケットから抗精神薬を取り出し、部屋に置かれたペットボトルを手に取る。
「念のため、痛み止めも飲んでおいて」
差し出された薬と水をじっと見て、宰斗は藍を睨み付けた。
「何が痛み止めだ……嘘ついてんじゃねーよ」
藍は一瞬目を見開くと、何食わぬ顔でにっこりと笑う。
「ちょっと頭がハッキリしてきた? じゃあ余計に飲んでおいた方がいい。また自傷行為を繰り返す前に」
「……後で飲むから、早く出ていけ」
宰斗はベッドに潜り込み、小さな声で呟いた。
(嘘、だよねぇ……俺が見てなきゃ飲むわけないんだから)
藍は額に手を当て、ゆっくりと息を吐く。
布団に丸まった宰斗をしばらく見下ろすと、薬を手に開けペットボトルのキャップを外す。
「悪いね。俺も忙しいから」
藍は面倒そうに呟くと、宰斗の布団を無理矢理剥がした。
「は!? 何して」
驚く宰斗の姿にニヤリと笑い、藍は薬と水を自分の口に含む。
そして一瞬の隙を突いて、宰斗の唇を塞いだ。
「んぅっ……」
宰斗は呻き声上げ、ベッドの上で身動ぐ。
痩せてはいるが、身の丈のある宰斗でさえ、藍の筋肉質な体はびくともしない。
塞がれた口腔内では、水と薬を送り込むように舌が蠢く。
宰斗は大した抵抗も出来ず、強制的に送り込まれた薬を飲み込むしかなかった。
「ぐっ……ゴホッ、ガハ」
唇が離れ、宰斗は激しく咳き込む。
その様子を、藍は満足げな笑みで見下ろしていた。
「ちゃんと飲めたね。偉い偉い」
「はぁ、お前……ぶっ殺す」
「おぉ、怖い顔。じゃ、嫌な先生は退散しまーす! お大事に、宰斗くん」
藍は茶化すように言うと、そそくさと病室を出る。
閉められた扉には、ガチャリと無機質な施錠の音が響いた。
「くそっ……くそ……くそ!!」
宰斗は仰向けのまま、ベッドに拳を叩きつける。
何度も何度も、それを繰り返しているうちに、また彼の意識は深い闇に沈んでいった。
◇
病室を出て、藍は白衣のポケットに手を入れたまま颯爽と歩く。
その表情はどこか嬉しそうに、口もとが綻んでいた。
「またやっちゃった……まぁ、明日には覚えてないだろうけどね」
八月一日藍、30歳。
冷静沈着で、どこか捉えどころの無い性格。
精神科医として、患者には特別な感情を持たないよう心掛けている。
しかし彼にとって、それは無用の心配だった。
彼は私生活でも、他人に思い入れを抱いた事が一度もないからだ。
もちろん来栖宰斗に対しても、それは同じはずであった。




