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10話 彼の過ち


「薄い唇……冷たかった」


 深夜の病棟。当直室の簡易ベッドの上で、藍は天井を見上げ呟く。

 押さえつける為の乱暴な行為でなく、愛しい相手にするような、優しく触れるだけの口付け。

 藍は自分の唇を指でなぞり、柔らかく目を細めた。


 (気持ちを伝えたからって、少しやり過ぎだったか?)


「でも、あんな可愛いこと言われちゃねぇ……ふふ」

 宰斗のふてぶてしい言葉と真っ赤になった顔を思い出し、藍はひとり吹き出して笑う。


「少しは俺のこと、意識してくれてんのかな」


 些細なことが嬉しく、走り出しそうな気持ち。

 いつか一線を越えてしまいそうな、重く締め付けられるような想い。

 そのどちらも、藍にとっては初めての感情だった。


 今まで付き合ってきた恋人とは何もかもが違う。

 そもそも性別すら違うし、今は対等な立場でもない。

 医師と患者。特殊な関係性は、倫理的には間違っているのかもしれない。

 けれど既に、藍は医師としての自制を失いつつあった。

 

 暖房の効く部屋でぼんやりしていると、藍はいつの間にか眠りについた。


 当直明け。

 藍は医局でコーヒーを飲みながら、鳳雅との面談の準備をする。


「おはようございます。あれ? ほずみ先生、まだ帰れないんですか?」

「おはよ、酒井くん。これからご家族と面談。それが終わるまでね」

「なるほど、お疲れさまです」

 酒井は藍の顔をじっと見つめ、明るい笑顔を向ける。


「にしても、何かスッキリした顔してますね」

「あっはは……いやぁ、実は久しぶりに長く寝落ちしちゃっててさ」

「えっ、呼び出しは無かったんですか?!」

「うん。起きてすぐスマホ見たけど大丈夫だった。久々に焦ったよ」

「良かったですねぇ〜。僕なんか最初の頃マジで寝過ごして、夜勤さんの鬼電履歴見て気絶しそうでしたよ」

「はは、それは流石に駄目だよ」


 乾いた笑いを返し、藍はパソコン画面に目をやる。

 画面に映る宰斗のカルテを見ながら、藍はふと酒井に話しかけた。


「酒井くんて、確かお兄さんいるんだよね? 内科医って聞いたけど、仲はいいの?」

「へ? あぁ、別に普通っすよ。これといって仲良くもないですけど」

  

 自分の席で缶コーヒーを開けながら、酒井はキョトンとした顔で答えた。 


「苦手だったとか、コンプレックスとかは無かった?」

「うーん、小さい頃は口うるさくて嫌いだったけど、何かと面倒も見てくれたし、今は感謝してますよ。兄貴は家庭も持ってるし、僕も自分のことで忙しいから、顔を会わす機会はほぼ無いですけど。嫌いじゃないですよ、兄貴の事は……尊敬はしてます」


 酒井は思い出すように話し、照れ笑いを浮かべ頬を掻いた。

 

「……そっか。いいお兄さんなんだね」


 藍は寂しそうに笑い、パソコンに視線を戻す。

 藍には兄弟はいない。

 兄弟に対する気持ちを理解するには、想像で補う以外の方法はない。


 もちろん、家庭によって様々であることは承知だ。

 ただ多少の参考として、一般的な兄弟の関係性を聞いておきたかった。

 藍の予想通り、酒井の兄弟間の関係性に問題はなかった。

 お互いを気にかけ、時には喧嘩をし、口に出さずとも本心では認め合う。

 おそらくそれが、理想的な兄弟、家族の在り方。

 そう考えると、鳳雅と宰斗の関係性は、藍にはかなり特異に思えた。


「……先生?」


 酒井の呼び掛けは、集中する藍の耳には入らなかった。


 ◇


「失礼します」

 

 午前10時。

 藍がカンファレンスルームに入ると、座っていた鳳雅は席を立ち一礼する。

 相変わらず綺麗な姿勢、整えられた短髪、皺のないジャケット。

 改めて見ても、一目で優秀な人物とわかる出で立ちだった。

 

 藍はふっと笑みを浮かべ、同じく頭を下げて席に着く。


「どうぞ、楽にしてください」


 藍に促され、鳳雅はまた腰を下ろした。


「わざわざお越しいただいて申し訳ないです。それで、今日はどういったお話でしょう」

 資料を並べながら、藍は穏やかな声で話す。


「当然、弟のことですよ。面会禁止から2週間以上、何の連絡もないし。着替えを持って行った時に様子を聞きたくても、看護師さんは忙しなく動かれて、まともに話も出来ないですし」

「それは申し訳ありません。看護師には、僕の方からも言っておきます」

「そんなことじゃなくて!」


 鳳雅は遮るように大声を上げた。

 本人もそれに驚いたのか、ハッとして目を見開く。


「すみません……大きな声で」

「いえ」 

 乱れた様子の鳳雅を、藍は冷静に観察する。


 (なんだろう、やけに感情的だな……弟に会えないことが、そんなに苦痛なのか? それとも、別の何かに苛立っている?)


「弟さん、宰斗くんの様子ですが。現在は症状も落ち着いて、当初のように暴れたりは見られません。希死念慮のような言動もありましたが、今は表面上には出ていませんね」

「そ、そうですか」

 藍の話を聞いて、鳳雅は気が抜けたように背もたれに身を預ける。

 

「来週あたり、一般病棟へ移ってもらおうと考えています。昨日本人にも伝えましたけど、混乱は見られませんでしたし」

「それは、相部屋ですか?」

「いえ、個室に空きがあるのでそこに。宰斗くんの性格的に、個室の方が落ち着くと思いますから」

「そうですか……良かった」


 やけに不安げな表情に、藍は違和感を感じて問いかける。


「何か、心配ごとでも?」 

「えっ……いえ、別に」

 鳳雅の言葉は歯切れが悪く、藍はあえて追求してみる。


「何でもおっしゃって下さい。お互いあまり時間も取れない身ですし、この際遠慮なんていりませんよ?」

 藍の笑顔をじっと見つめ、鳳雅はばつが悪そうに話し始める。


「弟……宰斗は、過去に同級生を傷つけたことがあるんです」


 鳳雅の話を、藍は驚くでもなく真剣に耳を傾ける。

 返事がない藍の目を見て、鳳雅はそのまま話を続けた。


「僕がそれを知ったのは、宰斗がおかしくなった後でしたが……正直、言葉も出なかった。普段の弟のイメージからは想像も出来なくて、大学事務員からの話も、最初は信じられませんでした。けれど、被害者の生徒は宰斗のせいで高校を辞めて、引きこもりになった言うじゃないですか。それだけじゃなく、宰斗は教育実習先でも問題を起こして……まさか、自分の知らないところで、弟がそんな非道なことをしていたなんて」


 鳳雅は話ながら、僅かに声を震わせていた。

 その言葉が途切れた瞬間、藍はようやく口を開く。 


「その、傷つけたというのはどのような? 詳しくお聞きしても構いませんか?」

「僕自身は特に偏見を持ってはいませんが、その……男子生徒なんです。どうやら、交際していたようで……詳しくは聞けませんでしたが、宰斗の心ない言動が、彼を深く傷つけたと」


 藍はこれまでの話の中で初めて、驚きから目を見開く。

 そして、あの時うわ言で聞いた「あきな」という名前を思い出した。


「教育実習先での問題も、おそらく同じような事でしょう……考えたくはありませんけど、弟は誰かを傷つけるナイフを持っている。もし、他の患者さんにそれが向く可能性があるのなら、このまま閉鎖病室に置いていただいた方が」


 鳳雅の最後の言葉を聞いて、藍は顔をしかめて目を逸らす。

 それを見た鳳雅は、ハッとして言葉を続けた。


「すみません! こんな話をベラベラと……相手方のプライバシーもありますので、どうか内密に」

「宰斗くんに、外に出てほしくないのですか?」

「えっ」

 藍は真っ直ぐに鳳雅を見据えていた。

 鳳雅は一瞬狼狽えるも、場を取り繕うように話を始める。 

 

「そんな事は……ただ、これ以上他に迷惑をかけてほしくないので」


 藍はこれまで接してきた宰斗の様子を思い返した。

 非常に不安定な状態が続いたが、彼は自ら進んで他人に手を上げることはなかった。

 暴れるのは、いつも自分を傷つけるため。

 制止する者に対して、防御反応で手が出ることはあったが、それは不可抗力と言っていい。

 鳳雅の言うように、誰彼構わず傷つけるような人間にはどうしても思えなかった。


「……情報を見る限り、職員に対してはそのような事例はありません」

 

 藍は宰斗のカルテを開き、冷静な声で話し始めた。


「そ、それは……正気じゃ無かったから」

「仮に加害衝動がある人間は、理性がなければ更にそのタガは外れてしまいます。けれど、彼の場合はそうじゃなかった。薬が切れて暴れることはありましたが、それはいつも壁や物に当たるだけ。制止の際は、もちろんこちらにもダメージはありますけど……普段の治療の中で、看護師や僕らは一度も手を上げらた事はないし、暴言を吐かれたこともありません」


 鳳雅は戸惑ったように口を開け、黙ったまま藍の話を聞いていた。

 藍はにっこりと笑みを浮かべ、最後に一言付け加える。 


「ただ、いつも無愛想な顔はしていますけどね」


 鳳雅はしばらく俯いて、小さな声で呟く。


「……無愛想、か」


 信じられないような口ぶりに、藍はひとつの質問を投げ掛ける。 


「ひとつ質問なんですが、お兄様から見た宰斗くんの印象を教えてくれませんか?」

「宰斗の、印象?」

「はい。どんな性格だとか、何が好きだったかとか何でも」


 鳳雅は考え込んでいた。

 思い出を振り返るにしては長すぎるくらいに、口元を覆ったまま静止する。

 藍はそれをただじっと、静かに見守っていた。

 

 そして長い沈黙が続き、ようやく鳳雅は口を開く。


「幼い頃は……宰斗は勉強が苦手で、よく両親に叱られていました。けどそれは、宰斗のことを思っての事で……結果、宰斗の成績はぐんぐん伸びていました」


 ゆっくりと語られる鳳雅の話を聞き、藍は静かに頷きながらメモを取る。


「進路も、僕の後を追うように……進路希望の用紙には、教師になりたいと書いていました。僕は、宰斗のことを信用していました。自分の弟なら、必ず立派な教師になれるって」

 鳳雅の話はそこで途切れた。

 藍は軽く息を吐き、冷静に言葉を返す。

 

「なるほど。では、お兄さんから見た宰斗くんは、夢に向かって頑張る努力家の弟……といったところでしょうか」

「……はい」

 

 (なるほど……これがズレか)


 難しい顔でペンを叩く藍に、鳳雅は動揺した様子で声を上げる。


「僕は……弟に嫌われているのでしょうか? 改めて思い返すと、何もないんです……思い出と、呼べるようなものが」

「……鳳雅さん」

「以前、弟が僕に怯えていると言いましたよね? あれからずっと、そのことが胸に引っ掛かって。僕は、愚かな兄だったのでしょうか?」

 まるで余裕の感じられない鳳雅の態度に、藍はようやく彼の本心に近づけたように感じた。


「あなたが愚かかどうか、僕にはわかりません。けれど、あなた達兄弟の間には、想い合う愛情のようなものが無かったのかもしれない」

「愛情……僕は、僕なりに弟を気にかけて」

「その時、宰斗くんはどんな様子でした?」

「え……それは、いつも笑って」

「本当に、それだけですか?」


 鳳雅はピクリと肩を揺らした。


「いつも笑っていること自体が異常なんです。そんなのは、無表情と変わらない。ただの張り付いた仮面ですよ」


 藍は穏やかな笑顔を崩さず、面と向かって断言した。

 自分達が歪な兄弟、家族である事を、鳳雅に気付いてもらう為に。

  


 


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