11話 蓋をした記憶
「笑顔が、異常?」
ひきつった表情で問う鳳雅に、藍は冷静に話をしていく。
「えぇ。年の近い兄弟なら、日常の中で衝突を繰り返して絆を育むもの。それが宰斗くんと鳳雅さんのように、何もないというのはご兄弟としては珍しい。ですが、そうなってしまった原因が必ずあるはずです。何か……自分でも気付かないくらいの、些細なきっかけが」
鳳雅は話を聞きながら、ハッとしたように口元を押さえる。
その様子を見て、藍は僅かに身を乗り出し机の上で手を組んだ。
「思い出がないと言われてましたけど……本当にありませんか? もう一度、よく思い出してみましょう」
鳳雅は戸惑いに瞳を揺らし、俯いたまま深く考え込む。
そして、ポツリと呟くように話を始める。
「……そういえば昔、僕が小学校低学年の頃。宰斗に、授業で習った漢字を教えたことがありました」
「へぇ、それは宰斗くんから?」
「はい。リビングで宿題をしていたら、興味を持ったみたいで。宰斗はまだ幼稚園で、いつの間にか隣でノートを覗き込んでいました」
「ふふ、微笑ましいです」
「……はい。僕も、新しいことを学んだことを教えてあげたくて。本当はまだ授業でやってないところまで、知った風に自信満々で解説して。あの時の宰斗は」
ゆっくりと、落ち着いた笑顔で話していた鳳雅は、ふと言葉に詰まり沈黙する。
「鳳雅さん?」
「あ……すみません。今思い出したんですが、あの時の宰斗の笑顔は、少し違ったような気がしました」
「それは、どんな風に?」
「目が……キラキラとして、嬉しそうに口元を綻ばせて笑って。今思うと、あの時の笑顔は、いつも見ていたものと違う気がしました」
「それは、素敵な思い出ですね」
藍は穏やかに微笑み鳳雅を見つめる。
けれど、鳳雅は不意に目を逸らし、浮かない顔で話を続けた。
「このままなら、確かにいい思い出でした」
「……何かあったんですか?」
鳳雅はくしゃくしゃと頭を掻き、悔しそうに唇をぎゅっと結ぶ。
「母親に……叱られたんですよ。勉強の邪魔をしてはいけないと、強い口調で」
話を聞き、藍は鋭く目を細める。
(やっぱりあった……本当の、歪みの根元)
「そんなに、怒られたのですか? ただ、兄弟で勉強を教えていただけの事で?」
「……母からすれば、弟が勉強の妨げになると思えたのでしょう。母は昔から……宰斗に厳しい時がありました。けどそれは、きっと宰斗を思ってのことで」
「お母様は、鳳雅さんにも同じように怒ることが?」
「い、いえ……僕には」
「そうですか」
藍は難しい顔で頷く。
来栖家の母親、あるいは両親は、明確な差を持って二人を扱っていた。
頭の中に、以前の宰斗の言葉が甦る。
——『家族がいたって、同じだ。ただの血の繋がりだけで、存在しないもののように扱われる。家族なんて、いないのと変わらない』
『気色悪い母親と、無関心な父親、天才の兄。その中で、俺は所詮出来損ないのクズだった』
声を荒げる宰斗の姿を思い出し、藍は鋭く目を細める。
(やっぱり、彼の言葉通りのようだな。恐らく両親は、生まれつき優秀だった鳳雅さんにだけ愛情を注いだ。その彼と同じように出来ない宰斗くんをぞんざいに扱い……長い年月をかけて、彼の自尊心を歪めていったんだ。そして、家族の中に)
「彼を愛する者は存在しなかった」
「……え?」
「あぁ、すみません。独り言です」
藍は不意に呟くと、冷静な笑顔を鳳雅に向けた。
絶対に逆らえない畏れ。そんな感覚に、鳳雅は飲み込まれそうだった。
硬直して沈黙する鳳雅に、藍は静かな声で話し始める。
「あなたのお話から、宰斗くんの状況が少し見えてきました」
鳳雅はゴクリと息を飲み、ただ藍の言葉を待つ。
「彼がここまで優秀になったのは、恐らく母親に愛されたいがため……鳳雅さんと同列の存在になるために努力したから。そうすることで、自分の存在を証明したかった。ギフテッドのお兄さんを越えるために、血の滲むような努力を重ねてね」
「ギフテッド……僕が、ですか?」
鳳雅は目を丸くして言葉を返す。
謙遜ではなく、無自覚な驚きを示して。
「やっぱり、気付いていませんでしたか。たぶん鳳雅さんは、勉強の点で苦労したことはないんじゃないですか? 例えば、クラスメイトが授業の愚痴をこぼす中、自分はそれを難なくこなしてしまう……それもトップレベルで」
鳳雅は図星を突かれたように肩を揺らし、静かに頷いた。
「……けれど、僕はそんな特別じゃない。たぶん、勉強のやり方が合ってないんですよ。努力すれば、誰だって出来るように」
釈明するように話す鳳雅を、藍は落ち着いた口調で追求する。
「本当にそんな風に思いますか? だとすれば、かなり傲慢な考えですね」
「ご、傲慢? 僕はただ、皆に同じ可能性があると思って」
唐突に不躾なことを言われ、鳳雅は若干苛立ちを露にした。
藍は彼の感情の変化を察し、その表情を観察する。
「残念ながら、人の能力には個人差があります」
「それはわかってます! けど、そこを努力して伸ばしていくのが成長でしょう? 実際、宰斗は学年でトップレベルになりましたし」
「……それは、単に宰斗くんの持って生まれたものと意地でしょうね。恨みにも似た、強烈な意地」
ため息混じりに答えると、鳳雅はぐっと押し黙った。
「鳳雅さんは、高校教諭をされてるんですよね? だとすれば、そこの理解を深めた方がいいでしょう。でないと、生徒の悩みに寄り添えなくなりますよ?」
藍はゆっくりと頬杖を付き、鋭い瞳で鳳雅を見据える。
その直後、カンファレンスルームにはドンと大きな音が響いた。
「そんなこと……あなたに心配される覚えはない!」
鳳雅は拳で机を叩き大声を上げる。
その様子を、藍は動じることなく観察していた。
「……すみません。今日はもう、これで失礼します」
鳳雅はハッと我に返り、顔を背けたまま立ち上がる。
「鳳雅さん」
ドアを向く鳳雅に、藍は姿勢を正して声を上げる。
鳳雅はそれに背を向けたまま、ピタリと足を止めた。
「はっきり申し上げますと、あなたのお母様は異常です。それを認識出来ないあなたが、宰斗くんに歩み寄ることは出来ない……思い出の中の、純粋な彼の笑顔と、もう一度向き合ってみませんか?」
鳳雅は震える腕を抑え、静かに立ち尽くす。
そして、僅かに首を捻る。
「……異常なことくらい、気付いていますよ」
「えっ」
微かな声で呟き、鳳雅は部屋を出ていった。
「今の……どういう意味だ」
ギッと椅子の背もたれに体を預け、藍は深く考え込む。
鳳雅は、母親の異常を認知していた。
その言葉が意味するのは、まだ不確かな彼の本心。
完成間近のパズルのピースは、まだ微妙なズレを残している。
「はぁ、そう簡単には完成しないか」
藍は肘をついたまま呟き、ふと右腕に巻いた時計を見る。
「わ、もう昼過ぎてるじゃん……一服して帰ろ」
ため息を吐きながら資料を整え、藍はカンファレンスルームを後にした。
◇
「あ、鳳雅! どこに行ってたの?! 母さん一人で心細かったのに」
「……病院に行くって言ったでしょ? 悪いけど、少し疲れたから」
リビングに行くと、母は目を潤ませて駆け寄る。
鳳雅は疲れた顔で母を一瞥すると、コートを脱いで階段へ向かう。
「鳳雅……母さんのこと、嫌いになったの?」
泣き出しそうな声に反応し、鳳雅は仕方なく母の肩をポンと叩く。
「そんなことないよ……ただ、本当に疲れてるんだ。ちょっと部屋で休んでくるだけ」
まるで子供に言い聞かせるように優しく、鳳雅は母に微笑みかける。
すると、母は途端に明るい笑顔に戻る。
「わかったわ。母さん、美味しいご飯作って待ってる!」
嬉しそうに話す母を困ったように見つめ、鳳雅は階段を上っていった。
——『はっきり申し上げますと、あなたのお母様は異常です』
鳳雅は部屋のベッドに横になり、天井を見上げる。
いくら考えないようにしても、藍の言葉はぐるぐると頭を巡る。
それはまるで、呪いのように。
(異常……だったらなんだって言うんだ。この家が、家族が僕の現実。いくら他と違ったって、これが僕にとっての普通だ。今さら、それを壊すようなことなんて)
「あの時、宰斗が酷く叱られた時……初めて母さんを恐ろしく思った」
ポツリと呟き、鳳雅は子供の頃のことを思い返した。
宰斗が勉強の邪魔をしていると思った母は、半狂乱で宰斗に捲し立てていた。
その恐ろしい形相と金切り声に、宰斗はみるみる顔を歪め泣きじゃくり、母はそれに益々興奮した。
「それからか……宰斗があんな風に笑わなくなったのは」
(けれど、母さんは僕に優しかった。怖いと思ったあの後も、笑顔で頭を撫でてくれて……それは、僕が母さんにとっての理想だったからで)
——『……やっぱり。先生に、俺の気持ちはわかりませんよね』
「はっ……」
不意に頭に過った春貴の言葉に、鳳雅はベッドから起き上がる。
頭の中に浮かぶ春貴は、突き放したような、絶望した表情だった。
その顔は、だんだん宰斗の顔と重なって見えていく。
鳳雅は震える手を見つめ、両手で自分の顔を覆った。
「……ずっと見ないようにしていた。僕は結局、宰斗を利用していたんだ」
涙混じりに声を漏らす鳳雅の脳裏に、ふと幼い宰斗の言葉が聞こえる。
『兄ちゃん、先生みたい!』
無邪気に笑う声が、いつまでも鳳雅の胸を締め付けていた。




