18話 親愛の花
「退院?」
「うん。気持ちも落ち着いてきてるし、生活習慣も良好。今はもう、定期受診だけでも十分な状態だからね」
「……そうか」
ある日の午後。
藍から退院について知らされ、宰斗はベッドに腰かけたまま短く返事をした。
会議で退院の方向が決まってから数日。
宰斗にそれを伝えることを、藍は躊躇ってしまっていた。
そしてこの日、鳳雅との面会を控えようやくその決心はついた。
「まだハッキリとした日時は決めていないけど、問題なければだいたい一週間後くらいになる……ごめん。急で驚いたよね」
藍は首もとに手を当て、ばつが悪そうな顔で話を続ける。
その話に静かに耳を傾け、宰斗は軽く鼻で笑って首を傾げた。
「謝ることなんてないだろ。退院するのは良いことなんじゃねぇの?」
「……うん。そうだった」
「ふっ、それでも医者かよ」
寂しそうに笑う藍に、宰斗はわざとらしく軽口を言った。
藍はその様子にホッとするが、ふと彼が右手を強く押さえて握っていることに気付く。
(少し震えてる……そうだよな。これからのことを考えたら当然か)
藍は一瞬腕時計に目をやると、明るい笑顔を宰斗に向けた。
「ねぇ、今から中庭に行かない?」
「はぁ? 何で急に」
「今日天気良いし、伊藤さんの育てた花もそろそろ見頃なんだ。だからさ、外の空気吸いに行こうよ?」
宰斗は突然の誘いに困惑するも、ため息ひとつ吐いて腰を上げる。
「はぁ、わかった。行けばいいんだろ」
「うんうん、素直でいいね」
藍は嬉しそうに笑い、宰斗に手を差しのべる。
宰斗はその手を怪訝そうに見つめ、そっと自分の前から手を払う。
「いらねぇ。子供扱いするな」
「そう? じゃあ、おんぶしよっか」
「阿呆。時間ないんだろ? 早く行くぞ」
先を歩く宰斗の背中を、藍は嬉しそうに、また少し寂しそうな目で見つめていた。
宰斗と中庭に行ったのは、彼がまだ閉鎖病棟にいた頃。
まだ精神的に不安定だった彼を、藍は無理矢理おぶって連れ出した。当然、現場を目撃した職員たちにはぎょっとされたのだが。
藍はあの日初めて、彼の心に自分が入り込めたような気がした。
錯乱状態ではない平常の宰斗が吐露した、自身の置かれた状況や葛藤。
それまで他人に見せてこなかった脆い心。それを打ち明けたことは、結果として宰斗にとって大きな一歩になった。
(あの頃はまだ刺々してて、それをからかうのも案外楽しかったんだけど)
宰斗と並んで中庭のベンチに腰かけ、藍はひとり思い出し笑いを浮かべる。
「何ひとり笑ってんだよ、気持ち悪いやつ」
「ふふふ、ちょっとね。君が反抗期だった頃を思い出してた」
「誰が反抗期だよ。こんな怪しい医者、警戒するに決まってるだろ」
「そうなの? あんな隙だらけだったのに」
「……うるさい」
宰斗は居心地が悪くなったのか、立ち上がり花壇の方に歩いていく。
3月も中頃になり、日中の気候は暖かく心地いい。
日差しを受けて風に揺れる花も、それを喜んでいるように見えた。
伸びた髪を耳にかけ、宰斗は腰を下ろしてプランターの花を眺める。
藍は彼に歩み寄り、その何気ない仕草に目を奪われていた。
「綺麗だね……この花。チューリップと、何だっけな。伊藤さんから聞いたんだけど忘れちゃった」
「……フリージア」
「あ、そうそう! 凄いね、なんで知ってるの?」
「別に。大して珍しい花じゃない」
後ろから見えた彼の横顔は、変わらず無表情。
その視線は、目の前の花を見ていると言うより、もっと遠くを見ているような気がした。
藍はゆっくりと宰斗の隣にしゃがみ、風に揺れるフリージアを見つめ口を開く。
「明日なんだけど……鳳雅さんと面会の予定を入れたんだ」
「……ふぅん」
宰斗は顔を背け小さく声を漏らす。
怯えや苛立ちのない落ち着いた声。言うなれば感情のない声にも聞こえた。
「面会には僕も同席する。だから安心して」
「安心? 俺があいつを怖れてるって言いたいのか?」
藍の言葉に反応し、宰斗は一転して鋭い目で睨む。
「そうじゃないけど……君にとってお兄さんは、感情を乱される根元のようなものだから」
「……お前が言ったんだろ?」
宰斗の絞り出した言葉に、藍は意味がわからず思考が止まった。
「生きるための価値」
「え?」
「お前が言ったんだ……生きる価値をつけてやるって」
宰斗に真っ直ぐ見つめられた瞬間、藍は自分の言った言葉を思い出した。
あの日、兄の存在を越えることを、生きる糧にしていた彼に伝えた言葉。
『生きる為に価値が必要なら……俺がいくらでもつけてやる』
自分の言葉を思い返しても黙ったままの藍に、宰斗は構わず話を続ける。
「俺は鳳雅の上に立つことだけを目標に生きてきた。生まれた瞬間から、何をやっても到底敵わない。比較され続ける人生が嫌だった。いくら努力しても差は開いて、あいつは俺の先に居続ける……ようやく背中が見えたと思ったら、今度は自分のせいでそれが叶わなくなった。生きる意味はもう、失くなったと思ったんだ」
淡々と話しながら、彼の声は微かに震えていた。
「……宰斗」
藍が名前を呼ぶと、宰斗はフッと力が抜けたように笑う。
「お前の言葉……あの時はただの、聞こえの良い言葉だと思っていた」
「そんなことない。僕は、本当に君を」
「わかってる。今なら、あの時の言葉を信じられる……だから俺は、もう大丈夫だ」
体温のこもる声で、宰斗は僅かに微笑んだ。
そして藍の胸元を掴むと、目を細めて口づける。
藍は一瞬目を丸くし、咄嗟に周囲に視線を移す。
それを見た宰斗は、軽く触れるけだった唇を離した。
「馬鹿、誰もいないよ」
「……心臓に悪いって」
声にならないため息を漏らす藍に、宰斗はイタズラな笑みを浮かべる。
「もう俺に気を遣うな。お前がいれば、俺は生きていられる……そうだろ?」
「あぁ……俺も同じだ」
(敵わないな……こんなこと言われると)
もう彼の前では、医師としてはいられない。
これまで取り繕っていたことが馬鹿らしくなるほど、藍にとって宰斗の存在は大きくなっていた。
◇
終業式の日。
鳳雅が家を出る直前、母親は嬉しそうな顔で声をかける。
「今日は帰りが早いんでしょ? お昼ごはん用意して待ってるから」
「あぁ、今日はそのまま宰斗の病院へ行ってくるよ。お昼は適当に済ますから大丈夫」
靴を履き背を向けたまま、鳳雅は何気なく返事をした。
その瞬間、母親の表情は一変する。
「えっ、病院? どうして?」
「どうしてって、宰斗と面会に。もうすぐ退院できるらしいんだ」
鳳雅が振り返ると、母親は青ざめた顔で立ち尽くしていた。
「……母さん、大丈夫?」
「えぇ……大丈夫。気をつけて行ってらっしゃい」
「あ、うん」
抑揚のない声にどこか不穏さを感じながら、鳳雅は家を出た。
バタンと閉まった玄関の音を聞き、母親は俯いたままリビングに戻る。
「あの子……帰ってくるんだ……せっかく、鳳雅と二人で暮らせてたのに」
ガタガタになった爪を噛み、母親はぼんやりと窓の外を見つめ呟く。
宰斗が入院してから、鳳雅は以前より自分を気にかけてくれるようになった。
それは彼女にとって心地よく、とても幸せな時間。宰斗の退院は、その幸せの終わりを意味していた。
「痛っ……爪、割れちゃった」
◇
外来の診察を終え、藍は食堂で昼食をとる。
食べ始めて少しすると、隣の椅子を引く音が聞こえた。
「先生、隣いいっすか?」
「酒井くん……いいよ、もう座ってるけど」
「ありがとうございます!」
酒井医師は適当に返事をしながらラーメンを啜っている。
藍はその食べっぷりに見とれ、しばらく口を開けて固まっていた。
「……美味しそうに食べるね。悩みとか無さそう」
「ぶっ……ちょっと、一言多いですって」
「ごめんごめん。ティッシュいる?」
藍の差し出したティッシュを受けとり、酒井は口を拭くついでに鼻もかんだ。
「はぁ……スッキリした。全く、僕も人並みに悩みくらいありますよ」
「はは、そうだよねー。何か愛嬌あるからつい、思ってることそのまま言っちゃった」
「何かまだ馬鹿にされてる気がしますけど……あ、それよりそろそろですね、彼の退院」
酒井の言葉に、藍はピタリと箸を止める。
「うん。それについてこれから、お兄さんとの面会なんだ」
「そうですか。面会禁止になって以来ですよね……ちょっと、気を遣いますね」
藍は真剣な顔を一転させ、明るい笑顔で返事をする。
「大丈夫だよ、僕も同席するから。ご馳走さま……また後でね」
「あ、はい……」
立ち上がった藍の食器には、まだ半分ほど食事が残っていた。
酒井は彼の背中を見送り、自分のラーメンのスープを飲み干す。
「……嘘バレバレ。案外わかりやすいんだよなー」
酒井は頬杖をつき、複雑な顔で笑い呟いた。
藍のもとで働き始めて数年。普段鈍感そうに見える彼だが、人の機微にはそれなりに敏感ではある。
しかし、後輩に見透かされるほど、今の藍には余裕がなかった。




