19話 戻れない兄弟
鳳雅は予定時間よりも早く着き、通された面談室で待機していた。
(まだ10分前……)
特にすることもなく、何度も時間ばかりを気にしてしまう。
「最後に会ったのは……もう一ヶ月以上前になるか」
鳳雅は椅子にもたれ掛かり、ため息混じりにボソリと呟いた。
思い返されるのは、ベッドに腰かけ俯く宰斗の姿。
無口で、声をかけるとただ頷いたり首を振る。
精神的に病んでいる状態なら、言葉は悪いがそれが「普通」に感じられた。むしろ家に籠っていたときよりも、落ち着いていると思えるほど。
けれどそれは、単に自分に対して怯えていただけ。藍との面談でそう告げられてから、鳳雅は自分や宰斗のことがわからなくなった。
これまで普通だったことが壊され、突然現実を突きつけられたような感覚。
(違うな。普通だと、思い込もうとしてた。記憶に蓋をして、自分さえよければいいと……逃げていたんだ)
静かな部屋で一人でいると、嫌なことばかりが頭に浮かぶ。
すると、苦悩で頭を抱えていた所に、ドアをノックする音が聞こえた。
鳳雅は大きく肩を揺らし、勢いよく椅子から立ち上がる。
「失礼します。お待たせしてしまってすみません」
挨拶とともにドアが開けられ、最初に顔を見せたのは藍だった。
鳳雅はそれに無意識にホッとするも、彼の後ろから続けて入ってくる姿に顔をこわばらせる。
「あ……久しぶり、だな」
鳳雅のぎこちない声に、宰斗はチラリ顔を向ける。
目を合わせず黙ったままの宰斗に、鳳雅は下手な笑顔を浮かべ立ち尽くしていた。
藍は向かいの席の椅子を引き、促すように手を差し出す。
宰斗はそれに静かに頷き、変に緊張する様子もなく腰を下ろした。
「お兄さんも。どうぞ、お掛けになってください」
「あぁ……はい」
弟の姿に気を取られていた鳳雅は、藍の声にハッとして席に着く。
(気のせいだろうか……前と、少し雰囲気が違う)
宰斗は少し俯いて座っていたが、以前に比べて自我がはっきりとした表情に見えた。
肩まで伸びた髪や、血色の良くなった肌。鳳雅が思わずまじまじと見ていると、ふと宰斗と目が合った。
「……げ、元気そうで、安心したよ」
鳳雅が苦笑いを浮かべて言うと、宰斗は無言のまま目を逸らした。
彼の隣に座って様子を見ていた藍は、小さく息をつき口を開く。
「体調面は問題ないですよ。あとは、そうですねぇ……口の悪さと、可愛げが出てくれば言うことはないのですが」
「……は?」
笑顔でさらりと言われた言葉に、鳳雅は思わず目が点になり固まった。
「おい、くだらない冗談言ってんじゃねぇ」
「ほらほら、すぐこれなんです。お兄さんからも、目上のものを敬うように言ってあげてください」
「黙れ。お前のどこに敬うところがある」
「うぅ、酷い……」
宰斗は苛立ったような荒い口調で、机の下で藍の足をガシガシと蹴る。
しかし、藍はそれを器用に避けながら、わざとらしくハンカチで目を拭っていた。
「あ……宰斗、先生に失礼なことをしては」
状況が飲み込めないも、鳳雅は狼狽えながら口を開く。
宰斗はその声に反応し、仕方なく足を止めむしゃくしゃと頭を掻いた。
「あら、やめちゃった」
藍は何故か残念そうな顔で呟いた。
二人の妙な関係性に戸惑いながらも、鳳雅は必死で話題を探していく。
「……そうだ、退院! もうすぐ出来るそうで、良かったな。僕も安心したよ」
「は、不安の間違いだろ。俺があの家に必要ないことくらい、わかってる」
鳳雅は驚き目を見開いた。
暗く冷たい声に、皮肉混じりの刺々しい言葉。
まるで知らない人間と話しているような、そんな感覚さえ覚える。
「そ、そんなことはない! ただ、僕は早くお前に正気に戻って欲しかったから」
「俺は……あの家で正気だったことなんて一度もない。お前がいる限り、俺は何をしても比較され、出来損ないとして扱われたんだからな」
「……宰斗」
藍は二人の様子を黙って見守った。
一見ヒヤヒヤとする言葉のやり取りだが、宰斗は感情的になっていなかったからだ。
(大丈夫……身体に変化は出ていないし、落ち着いて、冷静に話をしている。でも、こっちは)
藍が目線を鳳雅に移すと、彼は酷くショックを受けたような顔で俯いていた。
「やっぱり……僕のせいなのか?」
ボソリと呟いた声に、宰斗は何も言わず眉をひそめる。
「僕がいたから……お前はずっと苦しんでいた。僕は、そんなことにも気付かないで」
鳳雅の話の途中で、宰斗は突然小さな笑い声をあげる。
「はっ、気付かなかっただと? 毎日、あれだけ露骨な格差を見続けておいて? だとしたら教師なんて辞めた方がいい」
宰斗の言葉を受けて、鳳雅の青ざめた顔には徐々に怒りの色が滲んでいく。
その微かな変化に、藍はすぐに気がついた。
「宰斗くん、それは言い過ぎだよ」
宥めるように背中に手を当てると、宰斗は無言で藍を睨み上げる。
「落ち着いて……一度、深呼吸してみようか」
「必要ない。手を、離してくれ」
「……わかった」
宰斗は落ち着いていたが、どこか暗い雰囲気をまとっていた。
言われるがまま手を離した藍は、今度は鳳雅に向けて口を開く。
「あの、あくまで宰斗くんの個人的な思いからの言葉なので……鳳雅さんが教師として懸命に働かれていることに、間違いはないですよ」
「はぁ……すみません。気を遣わせてしまって」
鳳雅は額に手を当て、苦しそうに息を吐いていた。
藍は、何度か彼と話をした中で、彼自身にも打ち明けられない悩みがあることを知っている。
(母親の偏愛から目を逸らし、理不尽な格差を受ける弟を犠牲に、自分が愛されることを選んだ……それが彼の過ち)
幼い頃から、母親の顔色を見るために無意識にしていた処世術。
鳳雅は藍と話すことで、ようやくそれを自覚し始めた。
沈黙が流れる部屋の中で、藍は思いきって宰斗に問いかける。
「……宰斗くん。君は今、お兄さんをどう思ってる? まだ憎んだり、劣等感を感じるかな?」
沈黙する宰斗を、鳳雅は不安げに見つめてその答えを待っていた。
「今は……特別何も感じない。けど、出来れば顔を見たくはない」
「そっか」
俯いたまま答えた彼の言葉は、しっかりとした意思を感じるものだった。
藍はゆっくりと頷き、寂しげに目を伏せる鳳雅を見つめる。
「鳳雅さん、これが今の宰斗くんの答えです……これは退院後の話になりますが、当然家族として顔を合わせるようになる。彼の意思を尊重するなら、グループホームなどの選択肢もあるのですが」
返事のない鳳雅に、藍はそのまま話を続けていった。
「おい、勝手に話を進めるな」
「え?」
突然宰斗に口を挟まれ、藍は目を丸くする。
戸惑う藍を気にせず、宰斗は何食わぬ顔で話し出す。
「退院したら家には戻る。当然、まとまった金が出来たら出ていく。これ以上施設だのなんだの、あんたの世話になるつもりはない」
宰斗の考えを聞き、鳳雅は混乱したように声を上げる。
「ちょ、ちょっと待って……戻るのなら、そのまま暮らせばいい。お金にしても、そんな退院してすぐに仕事なんて」
「あの家でずっと暮らせって? 俺にしたら、拷問と同じなんだよ」
宰斗は嘲るように笑い、その言葉を口にした。
弟の本当の心を知り、鳳雅はショックから何も言い返せなくなった。
突然の宰斗の宣言にポカンと口を開いていた藍は、ようやく我に返り口を開く。
「えっと……それって、本気?」
「あぁ? 嘘つく意味なんかないだろ」
当然のように言い返され、藍は思わず吹き出してしまった。
「ふっ、あはは! まさかここまで元気になっちゃうなんて……本当に驚かされるよ」
目尻の涙を拭いながら笑う主治医を、宰斗は怪訝な顔で見つめたいた。
「はぁ、笑った笑った。すみません、取り乱してしまって」
「あ……いえ」
軽く頭を下げる藍に、鳳雅唖然として返事をする。
「ふふ、どうですか? 今の宰斗くんの姿、まだ受け止められませんか?」
「えっ、それは」
藍は微笑みながら、鳳雅に問いかけた。
その問いに鳳雅は目を逸らし、口元を覆い考え込む。
「……これが、本来の宰斗の姿だということは、よくわかりました。けれどもう、弟の心は、すでに僕たち家族から離れていたんですね。残念ですけど、きっとそれは、僕のせいなんです。それはしっかりと受け止めて」
「違いますよ」
暗い瞳で語る鳳雅を、藍は突然遮った。
「え? いやでも、僕が宰斗の気持ちに目を向けていれば」
「その要因もあるかもしれない。けれど全てが、鳳雅さんの責任ではないんです。なので……自分を責める必要はありません」
藍の言葉に、鳳雅は何も言わず唇を固く結んだ。
「心は時間と共に変わっていく……それは良い方向にも、悪い方向にも。時間が解決する、とまで楽観的には言いませんが。今は歩み寄れなくとも、お互いの気持ち次第で、未来は変わるかもしれませんよ?」
藍の穏やかな声に耳を傾け、鳳雅は顔を上げて宰斗を見つめる。
「……もしかしたら、子供の頃のように笑える関係に戻れる可能性だってある」
「え?」
囁くような小さな声に、宰斗はハッとして藍の顔を見上げた。
不思議そうに見つめる宰斗に微笑みかけ、藍はわざとらしく腕時計を見る。
「あぁ、もうこんな時間……長くなってしまいましたね。そろそろこの辺にしましょうか」
「あ、はい」
「今日はお忙しいなかありがとうございました。では……戻ろうか、宰斗くん」
鳳雅は立ち上がり、ドアに向かう宰斗を見つめる。
「……あの!」
鳳雅の声が響き、宰斗はドアノブにかけた手をピタリと止める。
「明日も、来ても良いですか?」
必死な声に、藍は顔を背けてプッと吹き出す。
「構いませんよ。あ、でも宰斗くんは……」
わざとらしい言い方に、宰斗は不機嫌に顔を歪めた。
「……勝手にすればいい。どうせ、俺は話すことなんてないから」
「だそうです」
にっこりと笑う藍に、鳳雅は深く頭を下げた。
宰斗はその姿を一瞬だけ見て、さっさと面会室を去っていった。
◇
「おーい、ちょっと待ってよ。歩くの速いねぇ」
鳳雅に挨拶を済ませた後、藍は宰斗の背中を小走りで追いかける。
宰斗は前を向いたまま足を止め、ムスっとした顔で振り返った。
「わっ、怖い顔」
「白々しいんだよ。いちいち芝居くさいことしやがって」
「え〜、何のこと?」
ヘラヘラと笑う藍を、宰斗はムッとしたまま睨み付ける。
それでも全く表情を変えない彼に、呆れたようにため息をついた。
「はぁ……もういい」
「怒ってる?」
「別に、その笑顔が気に食わないだけだ」
文句を言いながら歩き出す宰斗に並び、藍は笑顔のまま隣について歩く。
「それより本気? 働いて、家を出るって」
「悪いかよ」
「悪いとかじゃないけど、そんなに焦らなくてもいいんだよ?」
藍の言葉を、宰斗は鼻で笑って言い返す。
「焦ってる訳じゃないさ。ただ、じっとしているよりいいと思ったんだ。仕事でもなんでも、とにかく余計なことを考える暇をなくしたいんだよ」
「そっか……でも、これだけは約束して欲しい」
「約束?」
急に真剣な口ぶりに、宰斗は足を止める。
「自分の体を大事にすること。あと、定期受診には必ず来ること」
「あぁ、わかってるよ」
悪戯に微笑むと、藍はにっこりと笑った。
しかし、その心の内には、何故か暗い感情が渦巻いていく。
(本当は……ずっと、俺の目の届くところにいてほしい。離れたくない。働かなくてもいい。ただ、俺のそばにいてくれれば、それで)
「なぁ……そう言えばお前、どうして知ってるんだ?」
「えっ!?」
突然の問いかけに、藍は思わず大袈裟に声を上げる。
「何ビビってんだよ」
「はは、ごめん。それより、何の話だった?」
「……何でもない。早く戻ろう」
そう言った宰斗の声は、どこか寂しさを孕んだように聞こえた。
藍はそんな彼の背中を、ただ愛おしそうに見つめていた。




