16話 求めても足りない
それから数日。宰斗は自分の気持ちを藍に話せないままでいた。
かつて自分は、取り繕った仮面の下で他人を蔑み、近付こうとする者を嘲笑い傷付けた。
それがここでは患者として扱われ、藍を始めとする従事者たちは、無条件に自分を支えようとする。
そんな生ぬるい扱いを受ける資格など、あるはずもないのに。
けれど、あの時自然に笑みが溢れた。
可笑しくて、吹き出して、止めることの出来ない涙が溢れた。
笑顔も涙も、いつが最後だったか覚えていない。それくらい、自分には必要のない感情だった。
人を傷付け、苦しめた人間が笑っていることで、傷つけられた人間はどう思うのだろう。
藍がいることで、俺は感情的になれる。
怒りや苛立ちをぶつけて、くだらない言動に笑って、訳もわからず涙を流す。
胸が締め付けられるように苦しいのに、あいつといると、心が落ち着く。
俺が感情を取り戻すことで、普通に生きようとすることを、あいつらは赦すのだろうか。
◇
ある日の夕食時。
宰斗の病室に看護師が訪れる。
「失礼します。来栖さん、お食事お下げしてもいいですか?」
宰斗は窓際に立ち、看護師の方を向いて静かに頷く。
看護師は軽く笑いかけ、サイドテーブルに置かれたトレーを手に取る。
「……あ、夜も結構食べられてますね。最近食欲が戻ったみたいで良かったです」
看護師は嬉しそうに話し、すぐに部屋を後にした。
宰斗はそれを黙ったまま見守り、ふと窓の外に視線を移す。
すでに外は暗く街灯が点り、車のヘッドライトは線のように流れていた。
看護師の言ったとおり、宰斗はここ最近食事の量が増えた。
今では点滴もなくなって、治療はほぼ投薬のみ。
頭の中がクリアになっていくと同時に、途方もない不安が押し寄せてくる。
「変わる……どう変わればいい……俺は」
ぽつりと呟き、宰斗はベッド脇に置かれたスマホに目をやった。
それは、一般病室に移ってからしばらくして渡されたもの。
必要だろうと藍が持参を依頼したが、それ以来ずっと充電器に繋がれたままだった。
宰斗はベッドに歩み寄り、恐る恐るスマホに手を伸ばす。
暗い画面を光らせると、溜まった通知が目に飛び込んでくる。
それを目にした途端、大学側に呼び出された時の事が勝手に頭に甦った。
プライドと経歴が粉々に砕かれ、それまでの努力が水の泡と消えたあの光景。
「……くそ」
宰斗は顔を歪め、スマホを裏返してサイドテーブルに置く。
自分のせいだという自覚はあっても、それは思い出したくもない記憶だった。
むしゃくしゃと頭を掻き、宰斗はベッドに腰を下ろす。
心を落ち着かせるように深呼吸を繰り返すと、徐々に動機が収まっていく。
「はぁ……」
最後にフッと息を吐き、宰斗は何かを決心したように病室のドアを見つめる。
「……あいつ、夜も来るかな」
昼間の回診で、藍が当直であることを知っていた宰斗は、ふと寂しげな声で呟いた。
◇
消灯前、藍は気になる患者の病室を巡っていく。
そして当然最後に、宰斗の病室の前で足を止めた。
「失礼するよー」
扉を軽くノックし、藍は軽い調子で声をかけ病室に入る。
中は明かりがついていて、宰斗は背を向けてベッドに腰掛け、窓の方を眺めていた。
「今日は明るい部屋にいるんだね」
「……たまにはいいだろ」
「うん。お陰で驚かなくて済んだよ」
軽口をたたくと、宰斗は藍の方を振り向いてニヤリと笑う。
藍は目を見開き、彼の表情の変化に驚いた。
「なんだよ。黙ってないで何か喋れ」
「えっ……あぁ、ちょっとビックリして」
適当に返しながら、藍は自然と宰斗の隣に腰を下ろす。
僅か数センチの隙間を空けて座る二人は、普通に考えれば既に医師と患者の距離ではない。
「そう言えば、最近食欲出てきたみたいだね。看護師さんから聞いた」
藍の話に、宰斗はチラリと無愛想に彼を見る。
「味なんてわかんねぇけどな。残すの勿体ない」
「そうなの? 今日なんてササミのフライに、さつま芋もついて結構美味しかったのに」
「……お前、筋肉のことしか考えてねぇだろ」
「ちょっと、人を筋肉馬鹿みたいに言わないでよね? これでも優秀なお医者さんなんだから」
「自分で言うことじゃない」
他愛のない会話が続いたあと、ふと沈黙が訪れる。
黙って窓の方を向く藍に、宰斗は俯いた顔を上げて彼を見る。
「なぁ」
「ん?」
「ちょっと話があるんだけど、いいか?」
これまでと違った声色に、藍は真剣な表情で背筋を伸ばす。
そして腕時計を確認し、すぐに静かに頷いた。
「いいよ。この後はもうやることはないから」
答えを聞き、宰斗は安心したように僅かに口角を上げた。
宰斗は一度大きく深呼吸をすると、両手を固く組んでゆっくりと口を開く。
「昔の話を、聞いてほしいんだ。どうしても、お前に」
微かに震えた声に、藍は穏やかに返事をする。
「うん……僕も聞きたい」
宰斗は小さく微笑むと、少し手の力を緩めた。
「前も、少し言ったかもしれないけど……俺は、物心ついてからずっと、鳳雅と比較され続けてきた。父と母は、鳳雅を天才と持ち上げて、どんなに努力して結果を残そうと、所詮兄に劣る俺には全く興味を示さない」
宰斗は淡々と、感情の見えない声で話していく。
鳳雅との面談で知り得た情報だが、改めて本人の口からその話を聞き、藍は静かに拳を握った。
「子供の頃は、それが酷く虚しくて。だんだん鳳雅にその恨みが向いていった。だから、時間をかけても必ずあいつを見返して、家族の中での立場を逆転させる。いつからかそれが、俺の生きる目標になってた」
宰斗はふと息を吐き、自嘲気味な笑みを浮かべる。
「でも所詮、俺もあの親と同じだ。ずっと近くで偏った愛情を見続けて、愛だの恋だの言う奴らを心底軽蔑して嘲笑ってた。言い寄ってきた奴らの好意を逆手にとって、どこまで耐えられるか試して、飽きたら捨てる。そんな遊びを繰り返したよ。はは、そう言えば、自殺未遂を繰り返した奴もいたか。あいつも……暁那も、そのうちの一人だ」
概ね予想していた事だが、藍は俯いたまま言葉が出てこなかった。
そして、ずっと真相を知りたかった暁那の名前に、ピクリと肩を揺らす。
「暁那は違うクラスの男子で……あいつの好意に気付いた俺は、面白半分で声をかけた」
「君は、その……男同士に抵抗は無かったの?」
宰斗は藍をじっと見つめると、意地悪げに鼻で笑った。
「ふっ、お前がそれを言うか? 別に、女だろうが男だろうがどっちでもいい。どうせただの暇潰しだったから」
「……そう」
宰斗の話を聞きながら、藍は苦笑いを浮かべて目を逸らした。
「でも……違ったのかもしれない」
「違った?」
不意に反応を示した藍に、宰斗は俯いたまま静かに頷く。
「自分でもまだわからない。散々傷付けて、引きこもりになるまで追い込んで、何を言ってるんだって話だけど……未だにあいつの顔が思い浮かぶんだ。呑気に笑った顔や、ぐちゃぐちゃになった泣き顔……どうしてなんだろうな」
胸にチクリとトゲが刺さったようだった。
藍は早まる胸の鼓動を感じながら、戸惑いを含んだ宰斗の声を聞いていた。
「それは……好きだったんじゃない? 彼のこと」
「好き? 俺が、あいつを?」
「うん。たぶんね」
宰斗はぼんやりと呟き、しばらく黙ってしまった。
(駄目だ……自分で言っておいて、全然冷静じゃいられない。予想できたことだけど、思ってたより胸に来るんだな)
かける言葉も見つからず考え込む藍に、宰斗はぐっと体を寄せる。
「えっ……何?」
近くで顔を覗き込まれ、藍は反射的に身を引いた。
「違う」
「え?」
「お前への気持ちと、暁那に対する感情……たぶん違うよ」
「それは……どんな風に?」
身を引いたまま口にすると、宰斗も戸惑ったように目を逸らす。
「……わからん。でも、違うのはわかる」
「何それ。僕的には喜んでいいところ?」
ふわりとした返事に、藍は苦笑いで聞き返す。
宰斗はそんな彼を上目遣いで見つめると、顔を寄せてそっと口付けた。
藍は一瞬目を見開き、長く続く口づけにゆっくりと目を閉じる。
藍が背中に手を回そうとした瞬間、宰斗は唇を離し身を引いた。
「……宰斗くん?」
「お前はどう思った? こんなしょうもない人間を、まだ愛するなんて言えるか?」
真意の読めない男。
だが聞かれるまでもなく、藍の答えは決まっていた。
「当然。もし君が犯罪者だったとしても、俺の気持ちは変わらないよ」
「はは……それでも医者かよ。馬鹿」
乾いた声で笑い、宰斗はもう一度藍に口付けた。
深く、お互いを求め合うように夢中で、何度も何度も。
心が満たされていく。
なのに何故か、スルスルと溢れ落ちていくような不安が押し寄せる。
その隙間を埋めようと、何度も繰り返し求めてしまう。
(そうか……だからコイツが欲しくなるんだ)
宰斗は自分の想いに気付き、口付けの最中、薄く笑みを浮かべていた。
◇
数日後。
宰斗の退院調整会議が行われた。
「では、来栖さんは二週間後の退院を目標に、本人とご家族とも調整を始めていきます。これでよろしいですか? ほずみ先生」
「はい……問題ありません。ご家族との連絡は私の方で行いますので」
「わかりました。よろしくお願いします」
藍は冷静な表情で話を進める。
窓の外には、青空を舞う鳥の姿があった。
(今日は……空が青いな)
何気なく見た外の景色から、藍はしばらく目を離せなかった。
何故かざわつく心を、気付かれないように押し殺して。




